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第018話:逆走する重甲殻虫と、胃袋の中の『蒼い星砂』

双頭魔狼の魔石を回収していたエレンが、ふと手を止め、少し尖ったハーフエルフの耳と鼻先をピクリと動かした。

 通路の奥――北側の亀裂の入った岩壁の隙間から、乾いた冷たい空気に混じって、ひどく不自然な『生温かい風』が一筋だけ吹き出してきていたのだ。


「……ガレス、ボルク。ちょっと待って」


 エレンが立ち上がり、眉をひそめて鼻を押さえた。


「今、あの北側の岩の亀裂から……なんだか、すごく『甘くて熟れた桃の花みたいな匂い』が漂ってこなかった?」


「え? 桃の花の匂い……?」


 ガレスはハッとして目を見開いた。

 ほんの数時間前、地下3階の資料室で『灯火』の山猫獣人の少女・ピノが「第3層の北水路で甘い桃みたいな匂いがしてくしゃみが出た」と話した時――普段は眠たげなロウ教官の目が、一瞬だけ絶対零度の鷹のように鋭くなり、こう警告したのを思い出したのだ。


『これから迷宮のどの階層であっても、もしピノくんが言ったような「場違いに甘い花の匂い」を少しでも感じたら、すぐに息を止めてこの苦いガムを奥歯で噛み潰し、風上へ退避するんだ!』


「ボルク、エレン! 今すぐ息を止めて、ロウ先生から貰った『苦いハッカ樹皮のガム』を噛め!! そして風上へ十メートル下がるぞ!!」


「お、おうっ!」


 三人は即座にポーチから黒い四角い樹皮ガムを取り出し、口に放り込んで奥歯でガリッと噛み潰した。

 瞬間、舌が痺れるような猛烈な苦木(にがき)の渋みと、鼻の奥から脳天まで突き抜けるような強烈なハッカの清涼感が口いっぱいに広がり、ほんの少し吸い込んでいた甘い匂いの感覚を瞬時に洗い流した。


 三人が風上の通路の角まで一気に後退した、その十秒後だった。

 ゴゴゴゴゴ……ッ!!

 第25層の奥へ続く下り坂の通路から、まるで地鳴りのような轟音とともに、何十匹もの黒い甲殻の塊が雪崩のように駆け上がってきたのである!


「な、なんだありゃあ!? 第28層より下にしかいねぇはずの『重甲殻虫(ヘビー・ビートル)』の群れだぞ! しかも俺たちを襲う気配がねぇ、下の階層から何かから逃げるみたいに、上へ向かって必死に逆走してきてやがる!!」


 ボルクが叫んだ。

 体長一メートルほどの鋼鉄のような甲羅を持つ重甲殻虫たちが、まるで背後から迫る見えない恐怖にパニックを起こしたかのように、壁にぶつかりながら猛スピードで上層の階段へ向かって暴走していく。

 そのうちの三匹が、通路の角にいたガレスたちの方へ弾き飛ばされるように転がってきた!


「来るぞ! 重甲殻虫の甲羅は正面から突いても弾かれる、ロウ先生の『第2講』の応用だ! ボルクが3ミリ傾斜で跳ね上げて、裏側の腹の継ぎ目を狙う!」


「任せろォッ!!」


 ボルクが三拍子の呼吸で重心を沈め、転がり込んできた一匹目の重甲殻虫の体当たりを、大盾の湾曲角度を使って斜め上へと鮮やかにすくい上げた。

 宙に浮いて無防備な腹を晒した重甲殻虫の「胸と腹の関節の隙間」へ、エレンの無音の矢が突き刺さり、すかさずガレスが短い白銀槍の穂先を斜め四十五度に滑り込ませて神経節を一撃で断ち切った。


 残る二匹も、ボルクの受け流しとガレスの正確な四十五度刺突によって、わずか二十秒足らずで仕留められた。

 しかも驚いたことに、いつもなら重甲殻虫を一匹倒すだけでも槍の穂先や剣の刃が欠けてしまうのに、ロウに教わった『関節の隙間に沿って手首を半ミリ引く刃筋』を使ったことで、ガレスの槍にもボルクの盾にも、擦り傷ひとつ付いていなかった。


「……ふぅっ。本隊の群れは通り過ぎたみたいね」


 エレンがハッカガムを噛みながら周囲を警戒し、仕留めたばかりの重甲殻虫の死骸を見下ろした。


「それにしても異常よ、ガレス。重甲殻虫は本来、暗くて湿った第28層の下層で苔を食べて大人しく暮らしている魔物よ。それがこんな大群で、しかも『甘い匂い』が漂ってきた直後に上の階層へ逆走してくるなんて……」


「ああ。ロウ先生が『迷宮で普段と違う異常を見たら、勝手に解釈せずサンプルを持ち帰れ』と仰っていたな。……この重甲殻虫が、下の階層で何を食って、何から逃げてきたのか、胃袋の中身を調べてみよう」


 ガレスは腰から解体用の小刀を抜き、『第2講』のロウの手つきを真似て、重甲殻虫の腹部の甲殻を関節からパカッと綺麗に外し、胃袋を切り開いた。

 その瞬間――


「……え? な、なんだこれは……!?」


 重甲殻虫の胃袋の中からこぼれ落ちたものを見て、ガレス、エレン、ボルクの三人は同時に息を呑んだ。

 そこに詰まっていたのは、第24層や第28層の黒い苔ではなかった。

 まるで夜空の星を砕いたかのように淡く蒼白い光を放つ、ガラス質の美しい砂――しかも、触れると指先がピリリと痺れるほど『まだ生温かい熱を帯びた、蒼い結晶砂』が大量に詰まっていたのである!


「こ、この蒼い砂……まさか、深層第60層より下の『星屑の断層』でしか採れないはずの希少素材、【蒼い星砂(スター・サンド)】じゃないか!? しかも、まるでついさっきまで熱い蒸気に晒されていたみたいに温かいぞ……!」


 ボルクが片目のゴーグルを押し上げて驚愕の声を上げた。

 ここは第24層だ。第60層といえば、ここからさらに三十五階層も下――S級クラン『蒼穹の旅団』のような化け物たちしか足を踏み入れられない未知の深淵領域である。

 なぜ第60層にあるはずの『蒼い星砂』が、第24層へ逃げてきた虫の胃袋の中に、しかも熱を持ったまま入っているのか?


 さらにエレンは、その蒼い星砂を手のひらに乗せて観察しながら、もう一つの奇妙な事実に気づいて首を傾げた。


「……ねえ、この『蒼い星砂』って、学術院の図鑑で見たことがあるわ。確か、地下の鉱物じゃなくて、本来は『雲の上の成層圏(超高空)にしか存在しないはずの隕石質の砂』に成分がそっくりだって書かれていたはずよ。……どうして地下深くの迷宮の底から、空の砂が吹き上がってくるのかしら……?」


 エレンが何気なく呟いたその疑問こそが、この大迷宮『アーク・バベル』の天地をひっくり返す最大の秘密に触れた瞬間だったのだが、今の三人にはまだその意味を知る由もなかった。


 さらに、ドワーフのボルクがさっき甘い匂いが漂ってきた『北側の岩壁の亀裂』に片耳を近づけ、眉をひそめて唸った。


「……おいリーダー、エレン。この北側の亀裂の奥……なんだこりゃあ。ずーっと下の底の方から、まるで巨大な溶광炉か大釜でお湯を沸騰させてるみてぇな『ゴォォォ……ッ』っていう低い地鳴りが響いてくるぞ。しかも岩肌が、中層とは思えねぇくらい生温かく湿ってやがる」


「北側の壁の奥から、沸騰するような地鳴り……? 確か昨日、『灯火』のカイくんたちも『第3層の北側の旧水路で、お釜が沸くような低い音と生温かい赤い苔を見つけた』と言っていなかったか?」


 ガレスの背筋に、言葉にできない不気味な悪寒が走った。

 第3層の北壁と、ここ第24層の北壁。二十階層以上も離れているはずの二つの場所の「北側」で、同じ『甘い桃の匂い』と『沸騰するような地鳴り』、そして『深層第60層の熱を帯びた蒼い星砂』が確認されたのだ。


「とにかく、この『温かい蒼い星砂』と重甲殻虫の甲殻を袋に詰めて、すぐに地上へ戻ろう! ロウ先生と、あの資料室にいたクラリス教授に見せれば、きっと何か分かるはずだ!」


 三人は無傷で仕留めた双頭魔狼六頭と重甲殻虫三匹の特級魔石、そして謎の『蒼い星砂』を革袋に収め、急ぎ地上への帰還路へと向かった。


 一時間後、地上の換金窓口に並んだ『白銀の轍』の三人は、査定職員が震える手で差し出した精算伝票を見て息を呑んだ。

 双頭魔狼六頭と重甲殻虫三匹の魔石すべてにヒビひとつない『完全無傷(Sランク査定)』がつき、ポーション消費ゼロ・武具修繕費ゼロで、たった一度の探索での純利益が『金貨四枚と銀貨五十枚(昨日の赤字の約四倍の大黒字)』を叩き出したのである!


 ところが、大喜びのボルクがその足で叔父であるガンツ親方の工房へ「叔父貴、削り直してくれた盾と槍のおかげで無傷で大黒字だったぜ!」と武器の点検に寄ったことで、都市一番の頑固職人が地下資料室へ怒鳴り込んでくる騒動が持ち上がるのだった。

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