第017話:第24層・魔力減衰領域での実証! 新生『白銀の轍』の無双
大迷宮『アーク・バベル』第20層の中央にそびえ立つ、巨大な『古代の星門』。
三百年前の初代迷宮守たちが築いたとされるその青白い光の門をくぐり抜けると、一瞬だけ身体がふわりと浮き上がるような奇妙な感覚が走り、そこから先は「中層領域」へと切り替わる。
そして、第24層から第25層へ続く境界回廊――『魔力減衰領域』。
昨日、B級パーティー『白銀の轍』の三人が、双頭魔狼の群れにボロボロに噛み砕かれて逃げ帰った因縁の場所である。
しかし今日、黒い結晶岩が露出する薄暗い回廊を進むガレス、エレン、ボルクの三人の姿は、昨日までとはまるで別人のようだった。
まず、音がしない。
ガレスの肩からは見栄っ張りな深紅の貴族マントが消え、白銀鎧のすべての関節の隙間には、ロウが分けてくれた油漬けの消音鹿革が挟み込まれている。
さらに三人全員のブーツの裏には、加熱加工した『鉄喰い苔の天然滑り止めゴム』が貼られ、踵・小指球・母趾球の三点に滑らかに体重を移す『三点荷重の歩法』で歩いているため、静まり返った減衰領域の石畳の上で、砂粒ひとつ擦れる音すら鳴っていなかった。
それどころか、途中ですれ違った他のC級パーティーの斥候が、わずか三メートル横を通り過ぎたガレスたちの気配にまったく気づかず、通り過ぎてから「……あれっ!? い、今いつの間に『白銀の轍』が横を通ったんだ!? 重装のドワーフとプレートアーマーの槍使いがいるのに、幽霊みたいに足音がゼロだったぞ!?」と腰を抜かしていたほどである。
「……信じられねぇな、リーダー。昨日まではこの第24層の乾いた空気の中を二十分歩いただけで、喉が張り付いて肩でゼーゼー息をしてたのによ」
先頭を歩く重装盾役のボルクが、ほとんど口を開かずに低い声で囁いた。
「ロウ大将に教わった『三拍子の呼吸』――一で鼻から吸って、二で腹の底に落として、三で奥歯の隙間から細く吐き切る。これを繰り返しながら歩いてるだけで、頭がボーッとする【迷宮酩酊】がこれっぽっちも起きねぇし、おまけに『岩毒トカゲの燻製ジャーキー』を一切れ噛んでから入ったおかげで、身体の芯がポカポカして大盾が羽根みたいに軽く感じるぜ!」
「ああ、俺も同じだ、ボルク」
ガレスは右手に握った白銀槍を見つめた。
柄の後ろ側を、ロウの指示通り「握り拳ひとつ分(八センチ)」切り詰めたことで、槍の重心が自分の丹田(へそ下)のすぐ前へとピタリと収まっている。スキル《白銀閃光》の魔力を練り上げる必要がないから、魔力減衰領域の黒い岩に気力を吸い取られる感覚もまったくない。
「……止まって、二人とも。前方四十メートル、岩陰の死角に昨日と同じ『双頭魔狼』の群れよ。数は……六頭いるわ!」
ハーフエルフのエレンがピタリと足を止め、腰の後ろで小さな油脂ランタンを『横の八の字』に二回振った。
昨日は自分たちの金属鎧のガチャガチャという騒音で、二十メートル先まで近づかれるまで魔狼の接近に気づけなかった。だが今日は、こちらが完全に無音であるため、四十メートル先で魔狼たちが鼻を鳴らしている呼吸音と獣臭を、エレンとガレスが一方的に先制看破していたのだ!
「六頭か。昨日の五頭より多いな。……だが、今の俺たちならやれる。エレン、最初の合図は任せたぞ」
「了解。……ガレス、肩が1ミリも上がっていないわ。いい構えよ。ターゲットの脚の関節は私が親指の射法で縫う。あなたは踏み込むだけでいい」
エレンが静かに複合短弓を構えた。
一拍で吸い、二拍で沈み、三拍目で――左手の弓を2ミリ前へ押し出しながら、親指の弽から弦を滑らせた。
――ッ、トン。
弦音すらしない、文字通りの『無音射法』。
黒い影のように飛翔した二本の矢が、四十メートル先の岩陰で待ち伏せしていた先頭の双頭魔狼二頭の「前脚の膝関節」を、コンマ一秒の狂いもなく同時に縫い止めた!
「ガアッ!?」
どこから攻撃されたのかすら分からないまま前脚を射抜かれた二頭が転倒し、残る四頭の双頭魔狼が「グルルルァッ!!」と咆哮を上げて通路を疾走してくる。
先頭の三百キロの巨体が、牙を剥き出しにしてボルクの正面へ跳びかかった。
「来やがれ、ワン公ども! 昨日はよくも俺の右肘を軋ませてくれたなぁっ!!」
ボルクは防御スキル《剛鉄城壁》を――発動しなかった。
一で吸い、二でドワーフの強靭な下半身を石畳へ2センチ沈め、三で息を吐きながら、叔父のガンツ親方に表面の飾りを削り落として『3ミリの湾曲と滑り溝』を入れてもらった大鉄盾を、斜め下へ向かってほんの3ミリだけ傾けて差し出した!
――シュパァンッ!!
昨日、ボルクの盾を凹ませて肘の腱を裂いたはずの三百キロの突進が、今日は重苦しい激突音すら立てなかった。
油を塗った氷の上を滑るように、双頭魔狼の牙と爪が大盾の3ミリの湾曲溝をツルリと滑り落ち、ボルクの腕に衝撃を1%も残さないまま、魔狼自身の猛スピードでガレスの足元の石畳へと顔面から滑り落ちてきたのである!
「おおおおっ!? ほんとに火花ひとつ出ねぇでツルッて滑ったぞ! 腕がぜんぜん痛くねぇ!!」
ボルクが驚喜の声を上げるのと同時、すでに三拍子の2拍目で重心を沈めていたガレスが、滑るような三点歩法で半歩前へと踏み込んでいた。
(スキルはいらない! 大振りの突きもいらない! 亡き兄さんが最期まで追い求め、ロウ先生が教えてくださった――これが、【灰色の救難兵】の槍だっ!!)
ガレスは心の中で数え歌を刻んだ。
『一で吸って、二で沈み、三で石突を斜めに返す』!
握り拳ひとつ分短くした槍の穂先が、最小限の予備動作で放たれ、体勢を崩した一頭目の双頭魔狼の「右の首と左の首が交差する鎖骨の神経節」を、斜め四十五度の角度で正確に貫いた。
さらにガレスは槍を引き抜く反動をそのまま利用し、手首を半ミリ返して槍の反対側――『石突(柄尻)』を回転させ、横から跳びかかってきた二頭目の魔狼の下顎を斜め四十五度にカチ上げた!
ゴキッ、バキィッ!
魔力の光など一切ない。しかし、生物の骨格と物理のベクトルを完全に支配したその一閃は、昨日のスキル《白銀閃光》の三倍の速度で二頭の双頭魔狼を即死させていた。
「次だ、ボルク! 右から二頭来るぞ!」
「任せろリーダー! ほらよっと、3ミリ傾斜の滑り台だァッ!!」
シュパンッ! シュパンッ! とボルクが二頭の突進を連続で床へ滑らせ、エレンの無音の矢が後ろの個体の目を縫い、ガレスの短い槍が斜め四十五度の軌道で急所だけを正確に穿つ。
まるで長年磨き上げられた精密機械の歯車が噛み合ったかのような、圧倒的な連携だった。
戦闘開始から、わずか二分四十秒後。
通路の床には、六頭の双頭魔狼がすべて胸の魔石を傷つけられることなく、一箇所の 급所だけを貫かれて絶命していた。
静寂が戻った第25層の入り口で、ガレスは槍を下ろし、自分の両手と、無傷のボルクとエレンを振り返った。
「……ボルク、右肘は?」
「ピンピンしてるぜ! 盾に傷ひとつ付いてねぇ!」
「エレン、矢の消費と魔力は?」
「矢は六本だけ、全部回収できるわ。スキルは一度も使っていないから、魔力消費はゼロよ」
ガレスは深く息を吐き出し、震える手で自分の左肩を押さえた。
昨日、三人とも死にかけて銀貨百二十枚の大赤字を出した双頭魔狼の群れを、今日はスキルゼロ・ポーション消費ゼロ・かすり傷ひとつなしで、三分足らずで完全制圧してしまったのだ!
「……本物だ。あの地下資料室の老教官が教えている『基礎』は、中層の魔力減衰領域を無効化するどころか、俺たちをもう一段上の次元へ引き上げる本物の戦術だ……!!」
三人が歓喜に震えていた、まさにその直後だった。
通路のさらに奥――第25層の下り階段の方角から、エレンの鼻先へ、ふわりと「奇妙な風」が吹いてきたのは。




