第016話:弓使いエレンの回想 〜森の片目の旅人と、無音射法〜
ドワーフのボルクがガレスの槍と自分の大盾を抱えて「叔父貴のガンツ親方の工房へ行って、大将に言われた通りに削り直してくるぜ!」と鼻息荒く飛び出していった後。
地下資料室には、ソファで三百年前の拓本を解読し始めたクラリス教授の羽根ペンの音と、ガレスとエレンの静かな呼吸音だけが響いていた。
「さて、エレンくん。さっき言っていた通り、君の弓の構えを見せてもらおうか」
ロウに促され、ハーフエルフの副長エレンは、愛用の複合短弓を手に取り、矢をつがえずに弦を少しだけ引いてみせた。
その右手には、エルフ式の三本指のグローブではなく、親指の付け根だけを分厚い鹿革で保護した特徴的な『弽』が装着されている。
「……私、第25層の魔力減衰領域で、いつもなら外さないはずの双頭魔狼の眉間を二発も外してしまったんです。スキル《追尾風矢》が使えないと、どうしても放つ瞬間に弦が『ビィンッ』と鳴って、その音で魔狼に首を振られてしまって……」
エレンが悔しそうに唇を噛むと、ロウは彼女の右手のそばへ歩み寄り、その親指の弽を懐かしそうに見つめた。
「いい射法だ。人差し指と中指で弦を引っ掛ける王国式の射法ではなく、親指の腹と付け根の段差に弦を乗せて滑らせる【無音射法】だな。……エレンくん、それを誰に教わったんだい?」
「え……っ?」
エレンの紫の瞳が揺れた。
彼女の脳裏に、今から八年前――まだ十六歳だった彼女が、故郷である北部辺境の『霧哭きの森』で魔獣の群れに襲われ、木の上で孤立していた時の記憶が蘇った。
あの時、ハーフエルフとして人間からもエルフからも疎まれ、未熟な弓一本で震えていたエレンを救ってくれたのは、森を通りかかった『左目に白い包帯を巻いた、灰色の外套の無口な旅人』だった。
その旅人は、怪我の治療のために森の洞窟で過ごした三日間だけ、エレンに鹿革の端切れで親指用の弽を作ってくれ、こう教えてくれたのである。
『暗い森や迷宮で生き残りたければ、指先で弦を弾くな。弦が鳴れば、二匹目の魔物に居場所を教えることになる。……親指の付け根の骨に弦を預け、右の肩甲骨を背骨へ二ミリ寄せるだけで、弦が自然に滑り落ちるように放て。そうすれば、矢は風よりも静かに飛ぶ』
三日目の朝、エレンが目を覚ました時には、旅人は焚き火の跡に「よく眠れよ」と書き置きと保存食の干し肉を残して姿を消していた。エレンが迷宮都市へ出て探索者になったのも、いつかあの名もなき恩人に再会して、立派になった姿を見せたいという密かな願いがあったからだった。
「……八年前、北の森で命を救っていただいた、片目に包帯を巻いた旅のお方に教わりました。でも、独学で何年も続けているうちに、少しずつ形が崩れてしまったみたいで……」
エレンがそう答えると、ロウは穏やかに頷き、自分の大きな右手をエレンの右肩と肘の下へそっと添えた。
「形が崩れたんじゃない。君が仲間を守ろうとして、無意識に右肩へ力が入るようになっただけだよ。……ほら、昨日ガレスくんが傷ついた時と同じだ。早く撃とうとして、右肩が普段より『2ミリ』上がっている」
ロウの指先が、エレンの右の肩甲骨の下を、コン、と軽く叩いた。
ただそれだけだった。
魔法もスキルも使われていないのに、ロウの指が触れた瞬間、エレンの肩から手首まで張り詰めていた余分な緊張が、まるで氷が溶けるようにスッと抜けていった。
「三拍子の呼吸を思い出してごらん。一で吸って、二で丹田へ落とし……三で吐く時、右手で弦を引くんじゃない。『左手で持っている弓の中心を、標的へ向かって2ミリ押し出す』と同時に、右の肩甲骨を背骨へ寄せるんだ。……やってごらん」
「……はいっ!」
エレンは目を閉じ、一拍で吸い、二拍で重心を沈め――三拍目で細く息を吐きながら、部屋の隅に置かれた藁束の的に向かって練習用の木矢を放った。
――ッ、トン。
弦が空気を打つ「ビィン!」という高音が、完全に消えていた。
まるで小枝が葉を擦ったかのような無音のまま放たれた木矢は、昨日までのエレンの全力射撃よりも遥かに鋭い直線を描き、十メートル先の藁束のど真ん中に突き刺さって、矢尻が裏側まで貫通していた!
「……っ!! お、音が、まったくしなかった……! しかも、弦を引く重さが今までの半分以下に感じたのに、矢の初速が段違いに速い……!!」
エレンは自分の右手を見つめ、それからハッとして、隣に立つロウの横顔を見上げた。
左目の眉の上から頬にかけて残る、古い一文字の刀傷。
八年前、北の森で会った旅人が白い包帯を巻いていたのも、確か「左目」だったはずだ。そして今、自分の肩甲骨を軽く叩いて重心を直してくれた掌の温度と、低く落ち着いた声の響き――
(まさか……!? 八年前、あの北の森で私を助けて、この親指の弽を作ってくださった片目の旅人って……辺境の訓練所へ向かう途中だった、ロウ先生だったの……!?)
エレンのクールな頬が、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まった。
隣で見ていたガレスも、エレンの無音射撃の凄まじさに目を丸くしながら「す、凄いなエレン! 今の矢なら、第25層の双頭魔狼が音に反応する前に眉間を撃ち抜けるぞ!」と感嘆の声を上げた。
「ええ……っ。ありがとう、ございます、ロウ先生……!」
エレンが胸元の弽を大事そうに握りしめて深く頭を下げると、ロウは「うん、いい筋をしている。森で教えた甲斐があったな……おっと、いや、いい師匠に教わったんだな」と、危うく口を滑らせかけてコホンと咳払いをした。
さらにロウは、エレンの腰の矢筒から一本の矢を抜き取り、その矢羽根を指先で優しく撫でた。
「それとエレンくん、この矢羽根の切り方もよく工夫しているな。ただ、第24層より下の『空気が薄くて乾いている階層』では、地上の空気よりも矢が風を切る抵抗が減る分、羽根の後ろ端をほんの1ミリだけ斜めに毛羽立たせてやると、無音のまま矢の回転が安定して、五十メートル先でもブレなくなるぞ」
ロウは腰の小刀を抜き、目にも留まらぬ繊細な手つきで、エレンの矢筒に入っていた二十本の矢の羽根の端を、チャッ、チャッ、とわずか十秒ほどで均一に整えてみせた。
そして、最後に小刀を回して――「チャリン」と澄んだ音を立てて鞘へ収めた。
その納刀の音を聞いた瞬間、エレンの紫の瞳から、ついに確信の輝きが溢れ出た。
八年前の北の森の洞窟でも、あの片目に包帯を巻いた旅人は、まったく同じ手つきでエレンの折れた矢の羽根を整え、まったく同じ「チャリン」という音を立てて小刀を鞘に収め、そして塩苔と野鳥の温かいスープを作ってくれたのだ。
「……先生。私、八年前に北の『霧哭きの森』で、旅のお方にいただいた干し肉とスープの味を、今でもずっと覚えています。……あの時は、ちゃんとお礼も言えずに朝を迎えてしまいましたけれど……今日、こうしてもう一度お会いできて、本当に嬉しゅうございます」
エレンが潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめて微笑むと、ロウは観念したように頭を掻き、目尻に優しい皺を寄せて笑った。
「……やれやれ、エルフの耳と目は誤魔化せないな。あの時はまだ木の上で震えていた小さな女の子が、こんなに見事なB級の副長に育っていたとはな。生き延びてくれて、本当に良かったよ、エレン」
「はいっ……! すべて、先生があの日くださった弽のおかげです!」
隣で見ていたガレスが「えっ!? な、なんだエレン、お前まで過去にロウ先生に命を救われていたのか!?」と目を白黒させる中、削り直したばかりの槍と大盾を担いだボルクが「おうっ、待たせたな二人とも! 叔父貴の工房でバッチリ仕上げてきたぜ!」と豪快に扉を開けて戻ってきた。
こうして、亡き兄の恩人を追うガレス、八年前の命の恩人と再会したエレン、そして職人の魂を揺さぶられたボルク――ロウの『基礎』によって全身の装備と立ち回りを完全にアップデートした新生『白銀の轍』の三人は、リベンジを果たすべく中層・第24層および第25層の『魔力減衰領域』へと再出撃したのである。




