第015話:迷宮生態学者クラリスの乱入 〜「あのトカゲの捌き方、誰が教えたの!?」〜
その日の午後、ギルド1階のロビーに設置された『実戦検証・伝言黒板』の前は、朝からさらに倍増した探索者たちの熱気でむせ返っていた。
『【速報】E級「灯火」が第5層の行き止まりで、第1講の「八の字松明」と「45度の石突」をやったら、300年開かなかった古代の安全避難室が開いたらしいぞ!!』
『【D級・紅蓮の翼】俺たち、今日第5層で兵隊蟻20匹に囲まれて死ぬところだったのを、カイたちにその避難室へ助けられた……スキルばっかり自慢してた自分が恥ずかしい。今日から俺たちもロウ先生のアーカイブで一から出直す!』
『【C級・鉄の盾】今朝から第3講の「盾の3ミリ傾斜」を試してきた! 第12層のミノタウロスの棍棒が、火花も出ずにツルッて床に滑っていったぞ! 肘の痛みが完全に消えた、地下の室長は神か!?』
そんな大騒ぎが地上で繰り広げられている最中――
地下3階の『安全講習・映像資料室』の黒鉄の扉が、バンッ!! と凄まじい勢いで押し開かれた。
「――ここねっ!! 第5層の古代避難室を開けた少年たちの師匠で、しかも『岩毒トカゲの毒リンパ管を一刀で引き抜く映像』を公開したという人物がいる場所は!!」
肩で息をしながら資料室へ飛び込んできたのは、白衣の裾を翻した一人の長身の女性だった。
長い金髪を無造作なシニヨン(お団子)にまとめ、透き通るような白い肌と、長く尖った美しいエルフの耳を持っている。外見は二十代前半のうら若き美女に見えるが、目の下には徹夜続きを物語るうっすらとしたクマがあり、その翡翠色の瞳はマッドサイエンティストのような猛烈な知的好奇心でギラギラと輝いていた。
白衣のポケットからは、解剖用の銀メスと拡大ルーペ、そして古文書の巻物が何本もはみ出している。
「ひゃあっ!? く、クラリス教授!? 王立学術院・迷宮生態学および古代言語学主任の、クラリス・エル・シルフィード教授じゃないですか! どうしてこんな地下の資料室に!?」
ノエルが丸眼鏡を押さえて立ち上がると、実年齢百八十歳のハイエルフの異端学者――クラリスは、ノエルの肩をガシッと掴んで前後に揺さぶった。
「どうもこうもないわよ、ノエルちゃん! さっきギルドの換金所へ魔物の解剖サンプルを買いに行ったら、1階の回覧板で『実戦・迷宮サバイバル術 第2講』っていう映像が流れていたの! 最初はただの初心者講習かと思って通り過ぎようとしたんだけど、最後のおまけコーナーを見た瞬間に私の百八十年の学術人生がひっくり返ったわ!!」
クラリスはそのまま、部屋の奥の机で珈琲を淹れていたロウ・ヴァルハイトの前までズンズンと詰め寄り、机の上にドンッ! と解剖学の分厚い専門書を開いて突きつけた。
「あなたがロウ・ヴァルハイト室長ね!? 答えなさい! あの『岩毒トカゲの下顎から、小刀の刃先を二ミリ入れて白い二本の毒リンパ管を傷つけずに引き抜く解体法』……いったいどこで身につけたの!?」
「どこで、と言われてもな」
ロウは少し面食らったように瞬きをし、いつもの穏やかな声で答えた。
「辺境で野営をする時は、食えるものは何でも食わないと飢え死にするからな。トカゲの首を何百匹か捌いているうちに、『ああ、この白い糸みたいな管さえ抜けば臭くないし腹も壊さないな』と気づいただけだよ」
「『気づいただけ』ですってぇぇっ!?」
クラリスは頭を抱えて天井を仰いだ。
「信じられない……! いいこと、ヴァルハイト室長! 岩毒トカゲの毒リンパ管は太さがわずか0.3ミリしかなくて、しかも周囲の血管と複雑に癒着しているの! 少しでも破けば猛毒のリンパ液が全身の筋肉に回って食用不能になるから、王都の最高峰の解剖学会ですら『魔導顕微鏡と凍結魔法を使わなければ摘出不可能(事実上の廃棄部位)』と結論づけていたのよ!? それをあなたは、焚き火の横で普通のペティナイフ一本で、三秒でツルンと抜いてみせたのよ!?」
さらにクラリスは、机の端に置かれていた小皿――今朝ミアたちが「先生のおかげで上手に作れるようになりました!」と差し入れに持ってきてくれた『岩毒トカゲの無毒化燻製ジャーキー』に目を留め、ルーペを取り出して覗き込んだ。
「ちょっと、これ、そのジャーキーの実物!? ひと口食べてもいいかしら!?」
「ああ、どうぞ。珈琲も飲むかい?」
クラリスは返事もそこそこにジャーキーを一切れ口に放り込み、モグモグと咀嚼した瞬間――翡翠色の瞳をカッと見開いてその場に凍りついた。
「……ッ!! お、美味しい……!! なんて濃厚な旨味と爽やかなハッカの香りなの……! ……って、違うわ! 凄いのは味だけじゃない! このジャーキー、塩苔のミネラルと野ハッカの精油成分をまとわせて摂氏六十度前後の煙で温燻したことで、トカゲの筋肉内に微量に残っていた神経毒が『熱変性』を起こして、逆に【迷宮の魔瘴気や神経毒を中和する経口ワクチン(抗毒成分)】に変化しているじゃない!!」
「えっ!? 経口ワクチン、ですか!?」とノエルが驚く。
「そうよ! 普通、迷宮の中層や深層で瘴気酔いを防ぐには、一本銀貨二十枚もする苦い『抗瘴気ポーション』を飲むしかないの。でもこのジャーキーなら、原価ゼロの浅層のトカゲと苔から作れて、しかもおやつ代わりに噛みながら歩くだけで、三時間は瘴気酔いと麻痺毒を完全に防げるわ! これ、迷宮医学の歴史を百年進める世紀の大発明よ!!」
クラリスは興奮のあまり頬を上気させ、そのまま資料室の隅にあった古い来客用ソファへドサリと腰を下ろすと、白衣のポケットからノートと羽根ペンを取り出した。
「決めたわ! 今日からこの『安全講習・映像資料室』を、私クラリス・エル・シルフィードの【第2研究室】に指定します! さっき第5層の古代避難室からカイくんたちが持ち帰ってきた『三百年前の石板の拓本』も、ここで解読させてもらうわよ! いいわね、室長!?」
「はは、賑やかになるのは構わないが、寝泊まりするときは風邪をひかないように毛布を掛けなさいよ」
ロウが苦笑しながら淹れたての深煎り珈琲とジャーキーの小皿をソファのテーブルに置いてやると、徹夜続きだったエルフの天才学者は「……んんっ、この珈琲もジャーキーも最高だわ……もう学術院の本部には帰りたくない……」と幸せそうに目を細めた。
だが、珈琲を一口飲んで落ち着いたクラリスは、ふとロウの執務机の端に置かれていた「二つのサンプル」に目を留め、再び研究者としての鋭い目つきに戻った。
一つは、昨日『灯火』のカイたちが第3層の北側旧水路から持ち帰った【生温かいぬるま湯と、赤黒く変色した鉄喰い苔の瓶】。
もう一つは、たった今第5層の安全避難室から届いたばかりの【三百年前の未解読石板の拓本】だった。
「……ちょっと、ヴァルハイト室長。このガラス瓶の中の『赤い鉄喰い苔』、どこで採れたものなの?」
「ああ。昨日カイくんたちが、第3層の北側にある古い排水路の突き当たりで採取してきたんだ。そこだけ水温が三十度近くまで上がっていて、壁の奥のずっと下の方から、お釜が沸騰するような低い音が響いていたそうでね」
「第3層の北側で、火属性の蒸気変色を起こした鉄喰い苔ですって……?」
クラリスはルーペを片手に瓶を光にかざし、眉間に深いシワを寄せた。
「おかしいわ。第1層から第15層までの浅層には、火山脈も温泉脈も一切存在しないはずよ。鉄喰い苔がここまで鮮やかな赤色に変わるには、最低でも深層第60層クラスの『高濃度・高圧の火属性魔力蒸気』に何十時間も晒される必要があるわ。……どうしてそんな深層の熱気が、第3層の北壁なんかに漏れているの……?」
さらにクラリスは、第5層の避難室から持ち帰られた『三百年前の石板の拓本』をソファの上に広げ、古代エルフ文字と共通語の混ざった碑文を指先でなぞった。
「それに、この第5層の避難室の碑文も興味深いわね……『当避難室および各階層の緊急隔壁は、魔力暴走時にも確実に作動するよう、魔導認証ではなく【初代迷宮守の基礎武術コード(八の字の双炎・三点歩法・四十五度の打撃)】によってのみ物理開門する仕様とす』……ね、室長! あなたが新人に教えているその『基礎』って、ただのサバイバル術じゃなくて、この迷宮そのものを動かす鍵になってるんじゃないの!?」
「さあてね。俺も昔、辺境のさらに奥にいた古い師匠から『迷宮で死なないための基本体操だ』と教わっただけだからな。三百年前の人が同じ動きをしていたなら、やっぱり基礎というのは時代が変わっても変わらないんだろうさ」
ロウが穏やかに煙に巻くと、クラリスは「むぅ〜っ、絶対に何か隠してるわね! いいわ、この石板の残りの暗号も、赤い苔の謎も、私がこのソファに陣取って全部暴いてみせるわよ!」と宣言し、猛烈な勢いで羽根ペンを走らせ始めた。
こうして、のちに迷宮に隠された数々の異常と『三百年前の真実』を科学と歴史の両面から解き明かすことになる最高の頭脳・クラリス教授が、地下資料室の常連メンバーに加わったのである。
そして部屋の反対側では、その様子を静かに見守っていた『白銀の轍』の弓使い・エレンが、自分の複合短弓を手にロウの前へと歩み出ていた。




