第014話:避難室の古代訓練壁に残された「無数の45度打撃痕」
背後の分厚い黒曜石の隔壁が閉まると同時に、部屋の天井に埋め込まれていた淡い翠色の発光結晶が、ふわりと自動的に明かりを灯した。
「……お、おい、ここはいったいどこなんだ……? 外にいた二十匹の兵隊蟻の足音も、酸の臭いも、嘘みたいに消えちまったぞ……!」
床にへたり込んでいた『紅蓮の翼』のリーダー・ダンが、呆然と周囲を見回した。
カイ、ピノ、ミアの三人も、松明を下ろして息を呑んだ。
「カイくん、ミアちゃん……っ。このお部屋の空気、なんだか地下3階の『安全講習・映像資料室』とそっくりじゃない? 全然ジメジメしてなくて、ちょうどいい涼しさだよ!」
ピノが山猫耳をピルピルと動かして言った通りだった。
広さは三十畳ほどだろうか。床も壁も、地下資料室と同じ継ぎ目のない鈍色の『超古代黒曜石』で造られており、室温は不思議なほど快適な摂氏十八度前後に保たれている。
部屋の中央には、今も澄み切った湧き水がチョロチョロと流れ続けている古代の浄水盤と、石造りのベンチ、そして壁際には保存用の密閉石櫃が整然と並んでいた。
「ま、間違いないわ……!」
ミアが壁に刻まれた古代文字と紋様を見上げて声を震わせた。
「さっき壁が喋った通り、ここは三百年前にこの迷宮を管理していたという伝説の『初代迷宮守』たちが造った、緊急用の【安全避難室】よ! 今まで第5層のあの壁はただの行き止まりの遺跡だと思われていて、どんな高ランクの解錠スキルでも開かなかったはずなのに……!」
「……ミアが腰の高さで松明を横の八の字に二回振って、俺が三拍子のリズムで床の六角石を斜め四十五度に二回突いた瞬間、壁の回路が光って『規定コード確認』って言ったよな……」
カイは自分の右手に握られた量産型の鉄剣の柄頭(石突)を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
ロウ先生が『第1講』と『第3講』で、「これはただの気流確認と音響確認の基本体操だよ」と言って教えてくれた動作。それがなぜ、三百年前の超古代遺跡のロックを解除する『物理制御コード(マスターキー)』と完全に一致していたのか?
だが、カイたちの驚きはそれだけでは終わらなかった。
先に『紅蓮の翼』の怪我人二人の足に、この部屋の浄水と持参した薬草で応急処置を施したミアが、部屋の奥の壁を見て「あっ、カイくん、これを見て!」と声を上げたのだ。
避難室の奥の壁には、人間の背丈ほどの高さがある『人形の黒鉄柱』が三本、床から生えるように据え付けられていた。どうやら三百年前の迷宮守たちが、避難室での待機中に反復稽古を行うための「鍛錬用の打ち込み柱」らしい。
カイがその黒鉄柱に歩み寄り、表面に残された無数の打撃痕に指先を当てた瞬間――彼の背筋に、ビリビリッ! と電流のような鳥肌が走った。
「……おい、ピノ、ミア。この黒鉄柱の『鎖骨』と『関節』の位置を見てくれ」
硬い黒鉄で作られた人形柱の、ちょうど右肩の鎖骨にあたる部分と、膝の関節にあたる部分だけが、何万回、何十万回と繰り返された打撃によって深く鋭く抉れていた。
カイは自分の鉄剣の石突を逆手に構え、ロウから教わった通りの『斜め四十五度』の角度で、その三百年前の打撃痕の窪みにそっと石突を合わせてみた。
――カチリ。
まるで鍵穴に専用の鍵が収まったかのように、角度も、軌道も、重心の落ちる方向も、一ミリの狂いもなく三百年前の迷宮守の鍛錬痕とピタリと重なったのである!
さらに、その黒鉄柱の足元の石畳には、長年の踏み込みによって靴底の形にすり減った『三つの窪み(踵・小指球・母趾球の三点荷重の足跡)』が残されており、柱の横の壁には、古代文字と共通語の併記でこんな訓戒が彫り込まれていた。
『――迷宮守たる者、華美なる魔導や天賦の異能に溺れるなかれ。
一で吸い、二で沈み、三で斜め四十五度に石突を返す。
ただこの【基礎】のみが、深淵の夜から仲間を生きて帰す唯一の灯火なり』
「……『一で吸い、二で沈み、三で斜め四十五度に石突を返す』……! 今朝、ロウ先生が『第3講』の最後に歌っていた数え歌と、一言一句同じじゃないか……!!」
カイ、ピノ、ミアの三人は、言葉もなく顔を見合わせた。
自分たちが地下3階の小さな資料室で、穏やかな無天賦の老教官から無料で教わっていた「靴紐の結び方」「松明の八の字」「三点歩法」「三拍子の呼吸」「斜め四十五度の石突打撃」。
それは単なる初心者向けの思いつきなどではなく、三百年前にこの大迷宮『アーク・バベル』を築き、制御していた伝説の【初代迷宮守】の正統武術そのものだったのだ!
さらにピノが、部屋の奥にある古代の換気孔の前にしゃがみ込み、鼻をひくつかせてこんなことに気づいた。
「ねえカイくん、この安全避難室の換気孔……第3層の北水路とは違って、嫌な甘い匂いがぜんぜんしないよ! 壁の中に白い石の粉(魔石灰)と炭の層が埋め込まれてて、外の汚い空気をぜんぶ綺麗に濾過してるんだ! これもロウ先生が『第3講』のおまけで教えてくれた炭袋と同じ仕組みだよ!」
「本当だ……しかも見て、この石櫃の中に入っている保存用の携帯食のレシピが彫られた石板、トカゲや虫の毒腺を抜いて塩苔と香草で燻製にする方法が書いてあるわ……!」
ミアも石櫃の蓋に刻まれた古代の図解を見て息を呑んだ(なお、三百年前の石板に彫られたトカゲの絵は極めて写実的で美しく、ミアの絵本にある『足が六本のジャガイモ画伯のトカゲ』とは似ても似つかなかったが)。
「……す、すまなかった、カイ……っ!!」
その時、後ろで手当てを受けていた『紅蓮の翼』のリーダー・ダンが、松葉杖代わりに槍を支えにして立ち上がり、カイたちの前でボロボロと涙をこぼしながら頭を下げた。
「俺たち、レアスキルを持ってるからって天狗になって、お前たち『灯火』をスキル無しの落ちこぼれだって馬鹿にしてた……でも、いざ第5層で兵隊蟻に囲まれたら、俺の《紅蓮弾》なんか煙で自分の目を潰して仲間を危機に晒しただけで……お前たちが剣すら抜かずに俺たちの命を救ってくれた……っ! しかも、その燻製肉を一切れ食べさせてもらっただけで、蟻の酸を吸い込んだ吐き気がピタッと止まった……なあカイ、お前たちが言ってた『ロウ先生』ってのは、いったいどんな伝説のS級冒険者なんだ!?」
「……ううん、違うよ」
カイは首元の『半分に折れた真鍮の笛』を握りしめ、どこか誇らしげに胸を張って微笑んだ。
「ロウ先生は、スキルを一つも持っていない【無天賦】の教官だ。……でも、この街の誰よりも強くて、誰よりも優しい俺たちの先生だよ。怪我が落ち着いたら、お前たちも一緒に地下3階の資料室へ行こう。『第1講』から順番に見れば、きっと明日からは一人も怪我をせずに帰れるようになるから!」
「……ああっ! ぜ、絶対に行く! 俺たちにも、その『基礎アーカイブ』を見せてくれ!!」
一時間後、外の通路から兵隊蟻の群れが去ったのを換気孔の風で確認したカイたちは、部屋の石櫃の中に残されていた「三百年前の未解読の石板の拓本」と、通路で気絶していた兵隊蟻五匹の無傷の魔石を回収し、ダンたち『紅蓮の翼』の三人に肩を貸して地上へと無事帰還した。
ギルド1階の精算窓口で、カイたちが「第5層の行き止まりの壁が、『第1講』の八の字松明と『第3講』の四十五度打撃で開いて、中に三百年前の安全避難室がありました!」と報告した瞬間、ギルド本部は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。
未発見の古代安全避難室の発見報奨金として、ヴェロニカ査定官から即座に『金貨十枚(銀貨百枚相当)』もの特別ボーナスが『灯火』へ授与され、さらにそのニュースを聞きつけた王立学術院から、一人の異端の天才学者が地下資料室へと駆け込んでくるのは、それからわずか三十分後のことだった。




