ノクティル海 ⑤
第58話 救いの水の剣
次の瞬間、ぐいっと引き寄せられ、茜の額が容赦なくぶつかった。ゴツン、と鈍い音が響き、視界がぐらりと揺れる。頭の芯を叩かれたような痛みが遅れて広がる。
「っ!!」
優の手から力が抜けた。
顔を歪める間もなく、茜はすぐに距離を取った。踏み込みと同時に、迷いなく剣を構え直す。その切っ先が、まっすぐ優へ向けられる。さっき見えた揺らぎは、もうどこにもない。
(なんで……効かなかったの?)
振り下ろされる剣を紙一重でかわし、息を詰めたまま、思わず茜の顔を見る。返ってきたのは、感情のない冷たい視線だけだった。
胸の奥がざわつく。さっきまでの確信が、音を立てて揺らいだ。
(これじゃ助けられないの?)
喉が締めつけられるように苦しくなる。
(どうしたらいいの……ねぇ……目を覚ましてよ)
涙が滲んだ瞬間、皆の笑顔が浮かぶ。
(ダメだ)
優は鼓舞するように自分の頬をぺしりと叩くと、茜を見る。
(ここで私が諦めて死んじゃったら、今度はみんなが殺し合って全滅しちゃう……)
茜は再び剣を構え、地を蹴った瞬間、一気に間合いを詰めて刃を振り下ろす。優はすかさずバク転で距離を取り、その一撃をかわし、なおも突進してくる茜を避けた瞬間、一直線に飛んでくる矢に気づき、とっさに茜を突き飛ばした。
次の瞬間、鋭い痛みが肩を貫いた。
「っ!」
痛みに顔を歪めながら優は茜をキッと見た。
(なら、私は……手が片方なくなろうが)
直後、茜の剣が振るわれ、優は体をひねってそれをかわした。
(片足がなくなろうが、踏ん張らないと)
覚悟を決めた瞬間、茜がさらに斬りかかってくる。
その腕を、優は殴りつけた。
「!」
痛みで顔を歪める茜の足を間髪入れず払うと、茜の体が浮く。優はそのまま押し倒し、上に乗ると首からペンダントを外し、暴れる茜の胸へ押し当てた。
「っ!」
小さく呻くと、濁っていた瞳に、少しずつ色が戻っていく。
その視線が、まっすぐ優を捉えた。
「あ……れ、俺……」
キョトンとした表情を浮かべる茜を見た優は笑みを浮かべる。
(よかった、戻っ……っ!)
ほっとした瞬間、心臓に激痛が走った。体が折れ、息がうまくできない。視界が白く染まっていき、周囲の音が遠ざかっていく。やがてそのまま耐えきれず、意識が遠のいた。
――夢を見る。
馬車の前で、襲いかかってくる男たちと向き合っていた。軽く身をひねって攻撃をかわし、そのまま回し蹴りを叩き込む。
(そうだ……私は……こうやって皆と戦っていたんだ)
振り向くと、皆がこちらを見ていた。
ふと、茜が口を開く。
「優!」
声に引き戻されるように、ゆっくりと瞼を開ける。視界に入ったのは、泣きそうな顔で覗き込む茜だった。
「よかった……大丈夫か?」
体を起こすと、肩に激痛が走り顔を歪め肩を抑える。見ると刺さっていた矢は抜かれていた。
「悪い。沙綾香の見よう見まねだから上手くはないが、止血はしといた」
優は微笑み、“ありがとう”と手話で伝えると、茜も薄く微笑みを浮かべた。
「何があった……かはなんとなくわかった」
そう言って、茜は視線を上へ向ける。
優も見上げると、爆弾や矢が飛び交っていたが、そのすべてを水の幕が弾いていた。
「さて、これからどうすっか……」
困ったような表情をする茜に優は首にかけられたネックレスを茜の胸に軽く押し当てる。
茜は少し考えると優を見る。
「もしかして、そのネックレスで術が解けるのか?」
(さすが茜さん。賢い!)
優はこくこくと頷く。
「そっか。だからお前はずしてたのか。……ありがとうな」
優は小さく笑うと、すっとイルマールが近づくと優に頬に手が触れた。
「我が主を救ってくれたこと、私からも礼を言う」
ひんやりとした感触が、熱を持った体に心地いい。じわりと熱が和らいでいくようで、優は思わず目を閉じた。
(冷たくて気持ちいい……)
その様子を見ていた茜が立ち上がる。
「お前はここにいろ。あとは俺がやる」
優は頭をブンブンと振り、ネックレスを見せて、風妃に視線を向けた。
「それに一人であの人数を相手するのは危なすぎると言っている」
「……お前いけるのか?」
心配そうに見つめる茜にニッと笑いかけると優はまた風妃を見た。
「イルマール。優が頭から水をかけてほしいと言っている」
イルマールは少し驚いた顔をするが俯く優の頭に水をかけた。火照っている体が冷めていく。
(んー!気持ちいい!)
優はブルブルと首を振ると、水飛沫が勢いよく散った。
「わっ!つめてっ」
茜は腕で逸らした顔を庇った。
「……で、いけるのか?」
ムスッと言う茜に優はニッと笑うと親指を立てた。
「グッ!……じゃねぇよ。んなら行くぞ」
茜は、こちらへ殺意を向ける仲間たちを見上げる。優もその視線を追う。
(絶対みんなを……助ける!)
優の表情から迷いが消えた。肩の痛みも、体の重さも、今この瞬間だけは遠い。強く唇を引き結び、正面を見据える。その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。




