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保険室からはじまる異世界転記  作者: 早暁の空
第2章 風のゆくえ
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ノクティル海 ④

第57話 赤い石と絶望


蓮の刃が空を切った。優はとっさに腰を落とし、体をひねる。次の瞬間、風が頬をかすめた。刃の軌跡が、空気を薄く裂いていくのが分かった。遅れて、冷たい空気が肌を撫でる。

 

(えっ……)

 

考えるより先に体が動いていた。自分でも、今の動きが信じられなかった。どうやって避けたのか、実感がまったく追いつかない。頭が状況を理解しようとするより、体がすでに次の構えを取っていた。

 

(私……避けれた?)

 

優は目を見開いたまま立ち尽くしていた。じわじわと膝が震えはじめる。心臓の鼓動だけがやけに大きく響き、荒い息だけが、静かな空気に溶けていった。 


その時、風を切る音がした。


「——っ」

気づいたときには、目の前にファルベの背中があった。ガキン、と鋭い金属音が響き、矢が弾かれる。破片が宙を舞い、地面に落ちた。優はとっさに目を細め、息を呑んだ。

 

(ファルベ……さん?)

 

思わず手を伸ばす。指先がファルベの背に触れるか触れないかのところで、止まった。しかしファルベは振り返らなかった。ただ、低い声だけが落ちてくる。

 

「早く……逃げ……ろ」

 

次の瞬間、ファルベは片手で頭を押さえ、わずかに顔を歪めた。息が、浅く乱れている。それでも剣を構え直し、ゆっくりと前を向く。その動きは、さっきまでとは何かが違った。しかし、その目はまた内ろでどこか殺意を含むものだった。

 次の瞬間、茜が駆けてきた。その目に、迷いはなかった。

優は反射的に身構える。しかしその瞬間——地面が、鈍い音を立てて揺れた。

 

(えっ)

 

茜の足元が崩れはじめる。砂と土が、音を立てて下へ流れていく。

最初は小さな砂粒が、さらさらと靴底からこぼれ落ちるだけだった。だが次の瞬間、足場にひびが走り、踏みしめたはずの地面がわずかに沈む。


「……っ」


踏み止まろうと力を込めるたびに、逆に足元の崩壊は広がっていく。細かな砂が一気に崩れ、塊ごと足を引きずるように崩落した。ぱらぱらと落ちていた音が、やがて低く重い崩落音へと変わる。


さらに、足場の端が砕け、欠けた地面が遅れて崩れ落ちていく。崩れた先には暗い空洞が口を開け、吸い込まれるように砂が消えていった。


ほんのわずかに体勢を崩しただけで、その一歩が取り返しのつかない崩壊へとつながっていく。

 

(危ない!)

 

考える間もなかった。優は駆け出し、茜の腕を掴む。しかし地面はすでに崩れていた。二人分の重さを支えるものは、もう何もない。

 

「——っ」

 

優は茜の腕を掴んだまま、暗い穴の中へ落ちていった。


 フラフラと立ち上がった茜が、乱れた呼吸のまま優へと襲いかかってくる。

その動きは荒く崩れているのに、そこに迷いだけはなかった。

茜は距離を詰めると同時に腕を振り上げ、殴りかかってきた。

無理に受け止めることはせず、優は相手の腕を払うように外側へいなし、踏み込んでくる力に合わせて体を回転させ、軸をずらしていく。茜の拳は空を切り、その勢いのまま前へと流れていった。


 (……どうする。……どうしたらいいの)


茜の攻撃を受け流しながら、優はさっきのファルべのことが頭をよぎる。


(ペンダントに触れたら……元に戻る?でも……鈴奈さんたちに外すなって言われたし……)


考えがまとまらないまま、視線を上げたその瞬間だった。

茜が一歩踏み込み、鋭く腕を振り抜いてくる。


反射的に体を捻り、優はその一撃をすれすれでかわした。風圧が頬をかすめ、遅れて重い音が背後で響く。地面が踏み抜かれ、砂が弾け飛んだ。


(今の……考えてる余裕はない)


優は茜を見た。


茜が再び地を蹴り、勢いのまま優へと突っ込んでくる。振り下ろされた腕が、そのまま真っ直ぐに迫った。


だが優は避けない。

一歩踏み込み、落ちてくる腕をそのまま掴むと、逃がさず引き寄せた。力を受け止めるのではなく、引く方向へと合わせるように体を回す。引き込んだ勢いに乗せて、そのまま茜の腕を後ろへ回した。


体勢が崩れた茜が、小さく息を漏らす。


「……っ」


その一瞬の隙に、優は距離を詰める。胸元に下げていたペンダントを握り、そのまま茜の背中へと押し当てた。


硬い感触が触れた瞬間、わずかに空気が張りつめる。


 茜の身体がビクンと大きく跳ねた。背中に押し当てたペンダントを中心に、まるで何かが通り抜けたように、痙攣が走る。


「うっ……」


次の瞬間、茜は小さく呻き、力が抜けるように動きを止めた。暴れていた気配が嘘のように消えた。

優が手を伸ばすと、茜はゆっくり顔を上げた。


「……っ、あ……れ……俺……」

 

途切れ途切れにこぼれたその声に、優の胸の奥がわずかに緩む。今のは――戻りかけている。そう感じた瞬間だった。


「っ!」

 

茜は小さく呻き、力が抜けるように動きを止めダラリと腕を下ろし沈黙した。そして次の瞬間、茜は再び剣を構えた。

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