22 瘴気
残るは一匹。
魔犬が狙うのはシルヴァーノだった。
シルヴァーノはゆっくりと隠していたペンダントを引き出した。
ペンダントの瘴気は勢いを増していた。
「やはりこれに引きつけられていたのか…」
シルヴァーノは再びその瘴気を押さえつけようとしたが、近づく魔犬に影響されているのか、さっきのように容易には収まらない。
そこへ、短剣が投げつけられ、ペンダントの鎖を切った。
ペンダントの石は鎖から離れ、シルヴァーノのすぐ足下に転がり落ちた。
「王弟殿下、裏切るのか」
短剣を投げたのは、スドヴェストの副団長、イーヴォだった。
すぐにイーヴォは同国の騎士団員に捕縛された。
「…元々兄を裏切るつもりはないんだよ。君たちには悪いがね」
魔犬を前にして、シルヴァーノは魔犬から目を背けることなく、イーヴォに語りかけた。魔犬の気を立たせないようにその声はあくまで穏やかだ。
ゆっくりとかがんで、石を拾う。
牙をむき出しにしてうなり声を上げる魔犬を手懐けるかのように、拾った石を掌にのせ、ゆっくりと魔犬に向けて差し出した。
シルヴァーノが呪文を唱えると、石はまっすぐ縦に割れ、中の瘴気が一気に吹き上がり、やがて魔犬へと姿を変えた。
ここにきてまた魔犬が増えるのか、と騎士団員達に緊張が走った。しかし、それは徒労だった。
石から出てきた魔犬は既に弱り果て、横たわったまま立ち上がることもできなかった。
「魔犬達をおびき寄せるために、仲間をこの中に閉じ込めたのか…。さて、どうしたものか。こうして仲間を返したところで、彼の怒りは収まりそうにない」
哀れむような目で魔犬を見るシルヴァーノ。グイドは荒ぶる魔犬の背後に立ち、剣を抜いた。
「ノルドとしては、これ以上魔犬の被害を出す訳にはいかないのでね」
「ご協力に感謝する。ここは貴殿の国だ。貴殿の国の判断に任せよう」
シルヴァーノもまた、剣を抜いた。剣が青い魔法をまとい、ゆっくりと振り上げようとしたその時、横たわる魔犬のそばにルーチェがいた。歩いてここまで近寄ってきた筈なのに、その気配は全く感じられなかった。
弱っている魔犬に手を当て、もう反対の手を怒る魔犬に伸ばす。
魔犬が手に噛みついても表情を変えることなく、ただじっと魔犬を見つめていると、やがてゆっくりと魔犬が口を開いた。そしてただの大きな犬のようにルーチェの前に座り、ルーチェが頬に手を伸ばしても大人しくしていた。
ルーチェを介して二匹の魔犬がつながると、座る魔犬から横たわる魔犬へ、何かが流れていった。瘴気ではなく、魔力でもなく、かすかに光を伴いながら目には映らない何かが横たわる魔犬に注がれる。
グイドにもシルヴァーノにも、ルーチェが何をしているのか判らなかった。だが、魔犬から害意がなくなったので、そのまま様子を見ていると、やがて横たわっていた魔犬が小さく尾を振った。ゆっくりと生気を取り戻してはいたが、その姿は抜けていく瘴気と共に少しづつ小さくなっていく。同時に、座っている魔犬も徐々に小さくなり、寝ていた魔犬が起き上がり、座る魔犬にすり寄る頃には、二匹とも瘴気をなくしたただの小さな子犬になっていた。
「ル…、ルーチェ?」
「一体何だ、この子は…」
グイドとシルヴァーノが剣を手にしたまま、あっけにとられてルーチェを見ていたが、ルーチェは二人と目を合わすことなく、生き返った二匹の子犬を見ても笑いもせず、二匹を繋ぐ手を離した途端、その場に背中から倒れ込んだ。
階段席を下るように倒れたルーチェを支えたのは、ヴァレリオだった。
自身の瘴気が抜けきる前に駆けつけたせいで、息は上がり、声もうまく出なかったが、ルーチェを受け逃すことはなかった。
グイドとシルヴァーノが剣を納めたその時、捕らえられ、運ばれようとしていた副団長イーヴォが突然苦しみだした。
「や、やめろ、…俺は、まだ、……」
苦しむイーヴォを拘束していた腕が緩んだ。その隙にイーヴォは袖に隠し持っていた短剣を取り出した。しかし短剣を持つ手は逆手で、刃先は自身に向けられていた。
「い、嫌だ、嫌だあっ…! 死にたくない!」
そう叫びながら、その言葉とは逆に自らの心臓に剣を突き刺し、すぐさま引き抜いた。
その裂け目からはじけるように吹き出した血と瘴気は、瓶の中にいた魔犬と同じだった。
すぐにヴァレリオが風魔法を起こし、同時に魔法騎士団の数人が浄化の魔法を放つが、魔犬よりも更に濃厚な瘴気は拡散し、イーヴォのそばにいた数名が倒れた。
グイドが浄化魔法を発動するまでの数秒の間に広がった瘴気で、グイドもヴァレリオも、シルヴァーノも、魔犬だった子犬も、軽く咳き込んだ。しかし、泡でもはじけたかのような軽い音が響いた後、突然周りの瘴気が弱まり、浄化の魔法が瞬時に効き目を発した。
同じように観客席のあちこちでランダムに次々とはじける音がし、音源を中心に瘴気が薄まっていくと、効きの悪かった浄化の魔法が効果を現し、徐々にイーヴォの放った瘴気は消えていった。
イーヴォを捕らえていた者は濃い瘴気を大量に吸い込んでいたが、すぐに浄化と治癒の魔法を受け、徐々に回復していった。
その傍で、血と瘴気を出しきったイーヴォは、目を見開いたまま事切れていた。
中で一番状態が悪いのは、ルーチェだった。
瘴気の影響はさほど受けていなかったが、意識を失い、グイドが治癒の魔法をかけてもルーチェの傷は全く塞がる気配がなかった。
シルヴァーノも試したが、骨折も、歪んだ指も、背中の裂傷にも効かない。
救護室に移動する最中も魔法騎士団の治癒魔法を使える者が何人か入れ替わりながら治療に当たったが、向けた魔法がことごとくルーチェの体になじまなかった。傷は深いものもあったが命に関わるほどではなく、治癒魔法で全快できる傷であるにもかかわらず、どうすることもできない。
「この子、魔法使えないんじゃなかったっけ…」
ことごとくはじかれる治癒魔法を見て、誰かがつぶやいた。
回復薬も含ませたが、全く反応がない。
こうなると、街の一般の病院のように、本人の治癒力による回復を待つしかない。
傷の手当てを受ける間もルーチェは眠ったままで、痛みに顔を歪めることも、苦痛に声を発することもなかった。




