07. 青い覚悟
タカセが目を覚ますと、どこまでも白い天井が広がっていた。壁も、床も、全てが白。
小さな格子窓だけが外の世界と繋がっていて、その向こうでは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。眩しいほどの晴天。
瞬間、記憶がフラッシュバックする。
研究所。隠し部屋とエコー写真。爆発と、そして──。
「ジョウ......!」
身体を起こそうとした瞬間、激痛が走る。肺が潰れたみたいに息が詰まった。
「ぐっ......」
「まだ動かない方がいいわ」
タカセは反射的に声の方を見る。
そこにいたのは、同年代ぐらいの白衣の女だった。亜麻色の髪が無造作に肩へ落ちている。
女はモニターから目を離さず、淡々と告げる。
「バイタルは安定。運がいいのね、あなた」
(運がいい……?)
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。
鼻に残るのはまだ消えない焦げた匂いの記憶。なのに視界は無機質なほど清潔で、あの時の光景が夢だったのではと錯覚してしまう。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……ここは」
タカセはもう一度、しげしげと女を見つめる。
「……医者か?」
「ちょっと違うわ」
女はようやくこちらを見た。大きなアーモンド型の瞳。長い睫毛のせいで、うっすら滲む隈さえも気だるげな美しさに変えていた。
「ここは“ラボ”」
「……ラボ」
知らない人間はいない。
コード・リーパーと選ばれた研究者。そして、ごく一部の人間だけが足を踏み入れる特別な場所。
ラボはただの研究施設ではない。
聖都市の中枢に存在する“本部”を頂点に、コード・リーパーたちが現場で徴収した証拠やデータを保管・解析。必要があれば鑑定に回せるよう設計された特化型の施設だ。
ラボに所属しているのは、コード・リーパーではない。解析、医療、武器開発、情報処理──それぞれの分野に特化した専門家たち。
現場へ出るのはコード・リーパー。
持ち帰られた証拠や情報を扱うのは研究員。
表と裏。互いに役割を分けながら、秩序を支えている。
「私はここの研究員。イノウエ」
イノウエは並びのいい歯を見せ小さく笑った。
「よろしくね、タフガイ」
タカセは一瞬だけ黙る。脳裏に焼き付いているのは、炎と、声と、言葉。
──生き延びろ。
そしてゆっくりと、息を吐く。
「……タカセだ。よろしく」
そう返した。
・
「痛いところ申し訳ないけど、面会を希望している人がいるわ」
「……面会? 俺に?」
タカセは眉をひそめる。家族はいない。友人と呼べるほどの関係も、この短い警察人生にはまだなかった。
心当たりは、ない。
「コード・リーパー最高位の男。通称condorって呼ばれてるわ」
その名前を聞いた瞬間だった。空気がわずかに重くなる。
──ノックはなかった。
大柄で、黒いコートを身にまとった男が病室に入る。たったそれだけで、この場所の温度が変わった。
イノウエは視線を逸らしたまま動きを止めた。
男は、低い声で一言だけ告げる。
「失礼」
タカセは本能的に背筋を伸ばした。
(……こいつが)
国家公認の殺し屋、コード・リーパーの最高位。──condor。
condorはタカセの顔を一度だけ見てから、すぐに本題に入った。
「素直に答えろ。どうしてあの状況で生き延びた」
condorはタカセの全身を一瞥する。冷たい視線だった。
「普通なら死んでいる」
タカセは一瞬だけ目を細めた。
「……俺を疑っているのか」
その声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
condorは表情を変えない。
「可能性の芽を潰す必要がある。それだけだ」
その声には抑揚がなかった。タカセはcondorの顔から目を逸らさずに言う。
「──あのモニタールームの端に、隠し部屋があった。たまたまそこにいて、爆破を免れた」
一瞬、沈黙が落ちる。タカセはゆっくりと息を吐いた。
「中には、写真があった。女性のものだ。……それと、エコー写真みたいなデータ」
その瞬間、condorの視線がほんのわずかに揺れた気がした。
「……それを、どうした」
「見ただけだ。でも、あれはただの記録じゃない。今回の爆破事件に関係してる気がする」
condorがわずかに目を細める。
「……興味深いな」
低い声だった。タカセは真っ直ぐにcondorを見た。
「俺も捜査に加わる」
その言葉の直後、condorは鼻で笑った。
「一警官が扱える案件じゃない。ここから先はコード・リーパーの領域だ」
説得でも警告でもない、境界線の宣言。condorはタカセから視線を外し、病室の出口へと向ける。
「今、お前がここにいる理由はVIP待遇だからじゃない。俺が面会を許可したからだ。それ以上でも、それ以下でもない。勘違いするな、一般人」
「……悔しいでしょうけど、事実よ」
イノウエの声が、静かに割って入る。
「コード・リーパーでも研究員でもないあなたは、condorとの接触が終わり次第、市民病院へ移送される。ラボにはこれ以上留めておけない。そういう規則」
タカセはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
(……追い出される?)
ここから? まだ何も終わっていない。
爆発の理由も、隠し部屋の意味も、何ひとつ掴めていないのに。
condorは振り返らないまま出口へ向かう。その背中を見たまま、タカセは声を落とした。
「……目の前で、たくさん死んだ。俺の仲間もだ。マービンも」
声がわずかに揺れていた。こびりついた焦げた匂いはまだ消えていない。思い出そうとしなくても、あの時の光景が勝手に蘇る。
警察官では、一般人では、仲間が死んだ理由を探せないと言うのなら。
──コード・リーパーは、一人死ねば一人補充される。きっちり五十人という枠で管理される。
タカセは息を吐いた。
「……空いたんだろ。なら俺が入る」
静寂が落ちた。イノウエがわずかに目を細め、同時にcondorが初めて振り返った。
そして──笑った。乾いた短い笑い声だった。
「……俺が入る、か。そうか」
その言葉を転がすように繰り返す。
「随分と都合のいい発想だな」
タカセは目を逸らさない。
condorはゆっくりとタカセに歩み寄る。その距離が詰まるほど、病室の空気が薄くなるようだった。
「一つ教えてやる。コード・リーパーの枠は空いたから入るなんて安いものじゃない。消耗品の席取りゲームだ」
condorの静かな視線がタカセを刺す。
「死ぬのは前提だ。名誉もなければ、弔いも薄い。運が悪ければ無駄死にで片付く。それでもやる連中だけが、ここに残る」
タカセの表情がわずかに揺れたのをcondorは見逃さない。
「そのヒヨッコみたいな正義感で、この世界に足を踏み入れられると思うな……話は終わりだ。一般人」
言い終えると、condorは踵を返す。
そして、病室を出た。
・
残された空間に白い静けさだけが戻る。扉の向こうに去っていった気配も足音も、もうどこにも残っていない。
タカセはしばらく動けなかった。それでも視界の奥に、あの時の光景が焼き付いている。
──自分は、間に合うと思っていた。
これまでの現場でもそうだった。だから今回も同じだと思っていた。
間に合う、と。
自分なら、間に合わせる、と。
だが──現実は違った。
圧倒的な暴力。追いつかない力の差。間に合うと思っていたのは、自分だけだった。
そして気づく。
自分の立場も判断も、覚悟も──その場では何の意味も持たない状況がある。
救いたいかどうかではない。救えるようにできていない世界がある。その事実が喉の奥に落ちてくる。
自分だけが残った。たまたま。偶然。位置が違っただけで。
その偶然が、意味を持たないといけないような気がして怖かった。
目を閉じると、ジョウの声がよみがえる。
──生き延びろ。
言われた通り生きている。それだけなのに、それだけでいいはずなのに、なぜか許された気がしなかった。
(生き残ったのは……俺が正しかったからじゃない。たまたま、生きただけだ)
胸の奥に消えないものが残っている。それは怒りでも悲しみでもなくて、もっと曖昧で、名前のつかない熱。
あの写真。あの部屋。あの爆発。そして、何も知らないまま死んでいった仲間たち。
全部がまだ、終わっていないままだ。
タカセはゆっくりと息を吐いた。
(もう、届かない側にはいたくない)
喉の奥で、言葉が形になる。
「……やってやるよ」
自分はただ生き残ったわけじゃない。そう思いたかった。理由があるはずだと。意味があるはずだと。その答えを探さなければ、このままでは立っていられない気がした。
タカセはゆっくりと目を開ける。
白い天井は、もうただの天井ではなかった。
どこか、知らない世界への入口みたいに見えていた。
【continue…】




