埋め合う日々
私は知っている。この頃のグレイがどれだけ無茶をしていたか。
・
レイヴンが死んだあの日から、聖都市のラボにイノウエは保護されていた。
しかし、正確には保護ではない。condorの監視下に置かれた、研究対象としての隔離。
身体にコードを繋がれ、脳波を測られ、血液を採取される。慣れたと思った頃に、新しい検査が増える。
痛みがある日もあった。眠れない夜もあった。
それでもイノウエは、この場所でしか生きることができなかった。
外に出るという選択肢を、誰も与えてはくれない。与えられたとしても、きっと行く場所などなかった。
研究員たちは彼女を名前で呼ばない。
「ギフテッド」
「対象コード、350」
「350番」
呼ばれるたびに肩書きだけが増えていく。
便利な分類名ばかりが積み重なり、イノウエという作られた名前さえも、置き去りにされていくようだった。
いつからだろう。自分の名前を耳にすることよりも、識別番号を呼ばれる方が自然になったのは。
だから最初に名前を呼ばれた時、少しだけ驚いたのを覚えている。
「イノウエ」
その声に、本から顔を上げた。一瞬、自分のことではないと思った。
それは、白い自室にいた時だった。
検査を終えたばかりの身体は重く、身体の奥にはまだ鈍い痛みが残っていた。
さっきまでのことを忘れてしまいたくて、イノウエは本に意識を沈めていた。文字を追っている間だけは、余計なことを考えなくて済む。
だから、その声が聞こえた時も、最初は空耳だと思った。
「イノウエ!」
今度ははっきり聞こえた。窓の方を見る。そして思わず目を見開いた。
「どうしてそんなところから入って……?!」
白い窓枠の向こうで、グレイが器用に手を振っていた。
ここは高層階だ。普通の人間ならまず立たない場所である。
「ああ、ここの奴ら、俺のこと嫌いじゃん?」
窓を開けながらグレイは言う。
「とやかく言われるのめんどくさいし」
言うだけ言って、そのまま当然のように部屋へ入り込んできた。
イノウエはグレイをしげしげと見つめる。
「だからってそんな無茶苦茶な……」
右腕の包帯が、また増えている。制服の袖には焼け焦げた跡。首筋には薄く擦り傷まで見えた。
それでも本人だけは、戦場帰りだというのに、まるで散歩の途中みたいな顔をして、何事もなかったみたいに歩いてくる。
「相変わらず難しい本読んでるのな」
グレイが本の背表紙を覗き込む。
「……集中できないから、あっち行ってよ」
「寂しいこというなよ。お土産もあるし」
「なに?」
「パン」
あまりにも雑な説明。
「一緒に食おうぜ」
グレイは当然のように隣りへ腰を下ろした。許可を取る気など最初からないらしい。慣れた手つきであんぱんを半分に割ると、片方を差し出した。
イノウエは少しだけ黙る。断ろうと思えば断れた。
けれど結局、差し出された半分を受け取った。もう何度目かも分からないやり取りだった。
「……また、無茶した帰り?」
パンを見たまま訊く。
「してねぇって」
考える間もない返答。そのくせ、頬にはまだ乾ききっていない血の跡が残っている。
イノウエはそれを見ても何も言わない。
言ったところで、きっと同じ答えが返ってくる。
知っているし、この目で見たからだ。
グレイのライセンス取得が特殊な経緯なこと。そのせいで向けられる視線が、決して優しいものばかりではないこと。
そして、仕事が回ってこないなら自分で奪いに行くような生き方をしていることも。
──大丈夫?
そう聞いたところで意味がない。きっと笑って誤魔化すだけ。
だからイノウエは何も言わなかった。
代わりに、あんぱんを一口かじる。不思議なくらい甘かった。
さっきまで口の中に残っていた薬品の味が、少しだけ消えた気がした。
・
それからの日々は、静かに積み重なっていった。
検査があり、研究があり、報告書を書く。そして時々、グレイが窓から現れる。そんな日々だった。
イノウエは研究室に閉じ込められたような生活の中で、外の世界を知る唯一の“窓”としてグレイを見ていた。
今日どこへ行ったのか。
どんな依頼だったのか。
誰と喧嘩をしたのか。
どんな景色を見たのか。
グレイの話は大抵まとまりがなくて、肝心なところが抜けていたけれど。
それでも、イノウエにとっては十分、魅力的だったのだ。
一方で。
グレイは戦場の隙間で、唯一“戦場じゃない場所”としてイノウエのもとへ戻ってきた。
依頼と依頼の合間に。
傷の手当てを終えたあとに。
あるいは、ひどく疲れた顔を隠したまま。
気付けば当たり前のようにここへ来る。
本を読んでいるイノウエの隣でパンを食べて、どうでもいい話をして帰っていく。
ラボの廊下では、いつも誰かが噂していた。
「またグレイが来てる」
「condorの目が厳しくなるぞ」
「そのうち問題になるんじゃないか」
そんな声をイノウエは何度も聞いた。そしてグレイもまた、それを聞いていた。
しかし、気にしたところで、何かが変わるわけではない。
イノウエは研究対象で、グレイは厄介者だった。
今さら他人の評価が一つ増えたところで、何も変わらない。
だから二人は、いつも通りに過ごした。
・
ある日。
イノウエはラボの廊下で、研究員たちに囲まれていた。
専門用語が飛び交い、評価が並べられる。そのどれもがイノウエに対する否定の言葉だった。
「君はまだ理解が浅い」
「理論そのものは優秀だが、視点が限定的だ」
「研究対象としては非常に価値がある。だが──」
その言葉の先に続くものを、イノウエはもう知っていた。
正解。期待。失望。改善要求。
何度も何度も聞いてきた。
だから反論する気も起きず、ただ静かに聞き流していた。言い返したところで、何かが変わるわけでもない。
視線だけを床へ落とした、その時だった。
「おっちゃん達、邪魔」
あまりにも遠慮のない一言が、後ろから飛んできた。
研究員たちが揃って振り返る。そこに立っていたのはグレイだった。
「……何だね」
研究員の一人が不快そうに眉をひそめる。
グレイはイノウエを見て、それから研究員たちを見る。そして。
「昼飯食べるから。そこまでにしといてよ」
そのまま持っていたあんぱんをイノウエへ押し付ける。
「ほら」
「え」
「行くぞ」
研究員の一人が慌てて声を上げる。
「我々は重要な話を──」
「あっそう」
グレイは心底興味なさそうに頷いた。
「じゃあ続きは飯のあとで」
「君──」
最後まで聞かず、グレイはそのままイノウエの腕を掴んだ。少し強引に、けれど不思議と痛くない力加減で。
「ほら」
促されるまま一歩踏み出し、研究員たちの間を抜ける。
イノウエは何も言えないまま、ただグレイの後ろ姿を見つめた。
・
その日から、イノウエは少しだけ分かった気がした。
レイヴンが死んだあの日から、グレイは壊れたまま歩き続けているのではないか。
立ち止まれば、崩れてしまうから。
だから前を見る。傷だらけのまま。何かが壊れたまま。そして、その無茶を止める人間はもういない。
──なら。
その続きを、まだ言葉にはできなかったけれど。
気付けば、グレイが次に窓を叩く日を待つようになっていた。
【continue…】




