03. 甘いもの
──聖都市。
石畳を踏むたびに、乾いた音が返ってくる。
どこか遠くで、鐘が鳴った。その余韻に重なるように、礼拝堂から聖歌が流れてくる。
沈黙のまま、グレイとレイヴンは歩いていた。
その時だった。
ふとグレイの腹が鳴った。
聖歌の残響が現実に引き戻される、あまりにも生々しい音だった。
前を歩いていたレイヴンが足を止める。肩越しに振り返り、目を細めた。
「お腹空いたの?」
「……まだ我慢できるよ」
小さく、レイヴンが微笑む。
「ご飯にしましょう。ラボはそのあと」
「今から? いいよ。先に仕事してこいよ」
「空腹のまま連れて行く趣味はないの。育ち盛りなんだから、たくさん食べなさい」
グレイはまた子ども扱いされたように感じで、口を尖らせる。けれど反論は続かなかった。
その顔を見て、レイヴンはもう一度だけ小さく笑った。
・
聖都市のラボ。
グレイはフリースペースの椅子に座っていた。白い空間の中に投げ込まれた一点の色の違う存在のようで、自分の居場所だけが妙に浮いている感覚がある。
視線が刺さる。
通り過ぎる研究員たちは、見ていないふりをしている。それでも一瞬だけ、空気が引っかかる。
「あの子、まだ死んでないのか」
「レイヴン様も物好きね」
声は小さい。でも、わざと届く距離で落ちてくる。
グレイは気づかないふりをした。
天井を見上げる。白い光が均一すぎて、距離感が壊れる。
──早く終われ。
そう思った時だった。
「お待たせ」
聞き慣れた声がして、視線が自然とそちらへ向く。
レイヴンだった。
やり取りが長引いたのか、わずかに疲労の色を滲ませている。それでもグレイの姿を確認した瞬間、その表情だけがふっと柔らかく崩れた。
「やっと終わったわ。さ、帰るわよ」
「──相変わらず話が長いな、condorさんは」
グレイは立ち上がる。
「噂で聞く校長先生ってやつかよ。知らんけど」
軽口のつもりだったが、声の端にはわずかな硬さが残っていた。
レイヴンは周囲を一度だけ見渡した。それだけでざわつきが引き、誰も何も言わなくなる。
「何か言われた?」
「別に」
それ以上聞かれたくなくて、素っ気なく返す。レイヴンはそれ以上聞かなかった。
「──グレイ。何か食べたいものはある?」
「ん? さっき飯食ったばっかりじゃん」
「またそういうこと言う」
「......本当にないよ」
グレイの声に、少し考えてからレイヴンが言う。
「私は甘いものが食べたい」
「じゃあ食べれば?」
「一人は嫌」
「なんで」
「ケーキを一人で食べている女の人って、少し寂しそうでしょう」
「知らねぇよ」
「だから付き合って」
グレイは一瞬固まる。レイヴンはその顔を見て、小さく笑った。
綺麗な人なんだから黙っていればいいのに、とたまに思う。
思うだけで言わない。絶対面倒なことになるからだ。
レイヴンの指先が伸びて、グレイの頬を軽くつまむ。痛みはない。ただ愛おしいものに触れるようなような触れ方。
「......ガキ扱いすんなって」
「ふふっ。グレイは相変わらずね」
レイヴンは手を離し、そのままグレイの頭に
ぽん、と手を置いた。
「──少なくとも。私の前では、あなたは子どもでいいのよ」
グレイは一瞬、固まる。なんて返せばいいのか分からなかった。レイヴンのその言葉は、やけに場違いなほど優しい。
レイヴンはいつもの歩幅で、何事もなかったいに歩き出した。
「ほらっ、行くわよ」
「……待てよ」
慌てて追いかける。
さっきまでの空気が、少しだけ軽くなっていた。
・
夜。
聖都市のホテルは、昼間よりもずっと静かだった。
遮光カーテンの隙間から漏れる街灯の光だけが、薄く床をなぞっている。
机の上には、広げられたままの資料。
整然と綴じられたページの上に、一枚の写真が置かれていた。
一人の少女の顔。
名前は無く、代わりにこう呼ばれている。
【イノウエ】
解析能力・医学能力保有。──ギフテッド。
特別指定保護対象。
レイヴンはしばらく、その写真を見つめていた。
「厄介な任務を回されたわね」
誰に聞かせるでもない声が、部屋の空気に溶ける。
その時、背後のベッドから小さな寝息が聞こえた。
グレイはすでに眠っていた。戦場でも見せることのない、無防備な呼吸。
レイヴンは一度だけ振り返る。そして、ほんのわずかに表情を緩めた。
静かに歩み寄り、ベッドの端に膝をつく。指先が、グレイの髪に触れた。
「……寝顔だけは、本当に子どもね」
数秒だけ、そのまま手を止める。それからレイヴンは、もう一度資料へ視線を戻す。さっきまでの柔らかさは消えていた。
「本当、最悪」
今度の声は、はっきりと冷えていた。
【continue…】




