エピローグ・生きていく側の音
連日、ニュースや新聞はジェネシスアークの事件を大きく取り上げていた。
【若手コード・リーパー、ジェネシスアーク事件を解決】
【出生選別思想が生んだ悲劇】
【今、注目のダークヒーロー! 市民からの支持が急上昇】
センセーショナルな見出しが踊る。
事件の全容も、地下で失われた命の重さも、都合よく切り取られ、消費されていく。
やがて人々の関心が別の話題へ移れば、残された悲劇も紙面の隅へ追いやられるのだろう。
それでも、世界は回り続ける。
ラボ。
タカセは新聞を静かに折りたたみ、椅子の背もたれに身体を預けて天井を仰いだ。
窓の外は、眩しいほどの晴天だった。
あの地下で見た地獄など、最初から存在しなかったかのように。
世界は今日も、何事もなかった顔をしている。
「こりゃ当分、外に出られねぇな」
ソファに沈み込んだグレイが、新聞を横目にコーヒーをすする。
「──そうだ、レイン。エミリちゃんの店でも行くか。飯くらい、みんなで食おうぜ」
「……さっきまで外に出られねぇって言ってただろ」
レインの呆れた声に、グレイは肩をすくめるだけだった。
いつもの軽口。いつものやり取り。
それが、この部屋に流れる空気を少しだけ軽くしていた。
タカセは何も言わず、窓の外を見つめていた。
その時、扉が開いた。
イノウエが封筒を手に入ってくる。
「タカセ、グレイ。手紙よ」
「ん? ファンレターか?」
「バカ」
即答だった。
グレイが不満げに口を尖らせる横で、イノウエはタカセに封筒を差し出した。
「この前のショッピングモールテロ、覚えてる? あなたたちのバディとしての初陣」
グレイが口を挟む。
「ああ。カートがイカした乗り物に化けたやつね」
「……」
イノウエは一瞬だけグレイを見たが、何も言わずに続けた。
「そこで助けた親子。妊婦さんと男の子がいたでしょう」
「ああ」
タカセは短く答えた。
「その子からよ」
イノウエは封筒を指先で軽く叩く。
「弟が生まれたから、会いに来てほしいって」
タカセの指が止まる。
封筒越しに伝わる紙の感触が、妙に頼りない。
新しい命が生まれた。
たったそれだけのことが、今のタカセにはひどく遠い出来事のように思えた。
脳裏をよぎるのは、地下で見た光景。
守れなかった命と、救えなかった命。
任務は終わった。それでも、あの場所に置き去りにしてきたものが、まだ胸の奥に沈んでいる。
タカセは手元の封筒を見つめた。
「……俺は、いい」
静かな声だった。
それは拒絶では無く、自分から一歩引くような言い方だった。
自分がそこへ行っていいのか。
あの小さな命の誕生を、祝っていいのか。
そんなことを考えている自分にさえ、うまく答えを出せなかった。
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ止まる。誰も、すぐには口を開かなかった。
やがてイノウエが、小さく息を吐いた。
「……何言ってんの」
そして、タカセの肩を軽く叩く。
「行ってきなさい。外の空気でも吸ってきなさいよ」
タカセが顔を上げるより早く、グレイが立ち上がった。
「行くか、相棒」
「……おい」
「ほら、さっさとしろ。せっかくのお誘いだろ?」
グレイは返事を待たず、タカセの背中を押した。
いつもの強引さだった。それでも今は、その強引さがありがたかった。
タカセは小さく息を吐き、封筒を手に立ち上がった。
・
聖都市の産科病院。
白く整えられた廊下には、消毒液の匂いと、行き交う人々の静かな足音が満ちていた。
待合スペースの一角に、小さな影が座っている。
あの時の男の子だった。
二人の姿を見つけるなり、ぱっと顔を輝かせる。
「お兄ちゃんたち! 来てくれたんだ!」
「おう。元気にしてたか?」
「うん!」
グレイは軽く手を上げ、男の子の隣に腰を落とした。
学校のこと。最近あったこと。弟が生まれたこと。男の子は、話したいことが山ほどあるらしい。
グレイもまた、適当な相槌を打ちながら、その話に付き合っていた。
何でもない会話。
どこにでもある、ありふれた光景。
それなのに、タカセにはひどく眩しく見えた。少し離れた場所で、二人の様子を見つめる。
廊下の奥から、柔らかな光が差し込んでいた。
病室の向こうでは、誰かが生まれたばかりの赤ん坊をあやしているのだろう。かすかな泣き声が聞こえてくる。
まだ名前も知らない、小さな命。
タカセは、無意識に自分の手のひらを見つめた。
何かが残っているような気がした。けれど、そこには何もない。
あるのは、これまでと変わらない自分の手だけだった。
「おい」
グレイの声に、タカセは顔を上げた。
グレイは男の子の隣に座ったまま、こちらを見ている。
「こういうの、苦手か?」
「……別に」
「だよな」
それだけ言って、グレイは男の子に向き直った。少しの間、他愛のない会話が続く。
やがてグレイは、何でもないことのように口を開いた。
「でもさ」
視線は前に向けたまま。
「お前が『いい』って言ったところで、あっちはもう勝手に大きくなるんだよな」
男の子が、不思議そうに首を傾げた。
「勝手に育つし、勝手に会いに来るし。……厄介だよな」
「えー? なんで?」
「さあな」
グレイは、からかうように笑った。
それから、ようやくタカセへ視線を戻す。
「だからまあ、逃げても意味ねぇんじゃね?」
軽い口調だった。
「罪悪感だの何だの、抱えてるのは勝手だけどさ。向こうは向こうで、自分の人生を生きてんだろ」
グレイは男の子の頭を軽く撫でた。
「お前が何を抱えてようが、あいつらの人生まで決めることはできねぇよ」
タカセは黙っていた。
グレイは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、男の子が勢いよく顔を上げる。
「ねえ、お兄ちゃんたちって、すっごく強いんでしょ?」
「ん? まあな」
「僕も大きくなったら、コード・リーパーになりたい!」
「やめとけ、やめとけ」
グレイは即座に手を振った。
「こんな仕事、なるもんじゃねぇぞ」
「えーっ!」
「本当だって。報告書は山ほど書かされるし、上司は怖ぇし、相棒は面倒くせぇし」
「誰のことだ」
タカセが口を挟む。
「さあ?」
グレイは、しれっと笑った。
男の子が声を上げて笑う。
つられるように、グレイも笑った。
その笑い声が、白い廊下に響いていた。
タカセは二人を見つめる。
失ったものは戻らない。あの日のことも、地下で見た光景も、なかったことにはできない。これから何を背負って生きていくのかも、まだ分からない。
それでも、目の前では誰かが笑い、誰かの誕生を喜び、何でもない明日の話をしている。
誰かに決められた理想ではなく、それぞれの人生を生きている。
ただ、それだけのことだった。
病室の奥から、かすかな声が聞こえた。
母親が、赤ん坊に語りかけている。
その声は、やがて子守唄へと変わった。
──こんにちは、赤ちゃん。私がママよ。
タカセの呼吸が、ほんのわずかに止まる。
記憶の底に沈んでいた声が、今、目の前の命と重なった。同じ言葉なのに、聞こえ方は違っていた。
あの時、マリアが何を思っていたのか。もう、確かめることはできない。
それでも今、ここにあるのは、生まれたばかりの命を祝福する声だった。
何者になるかを決めつけず、誰かの代わりにすることもなく。ただ、生まれてきたことを喜ぶための歌。
それは、確かに──生きていく側の音だった。
タカセは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、ようやく前を向く。
【end.】
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
現在はスピンオフに加え、ゴシック×テクノロジーの色をさらに強めたシリーズ第二弾、「偽りの天使は、君を夢に見る」も連載中です!
次なる物語も、どうぞよろしくお願いいたします!




