33. 選別
タカセは巨大な白を見上げた。異様な肉体と歪な四肢。これまで施設で見てきた個体と同じ系統だと、頭では理解できた。だが本能が否定する。
(──違う)
見覚えがあるはずもない、説明のつかない既視感。その濁った瞳と視線が交わった瞬間、タカセの背筋を冷たいものが這い上がった。
「……そいつも、“Hello・Baby”の成れの果てか」
その言葉に、マリアの表情が初めて揺らいだ。笑みが消える。アンナに触れていた指先が、わずかに強く白い皮膚へ食い込む。
「……違う」
今までの余裕も愉悦もない、低い声。その声音だけは異様なほど真剣だった。まるで、大切な誰かの名を汚された時のように。
───────
【flashback】
マリアは、あの時──
パニックに陥り、自分を責め続けるアンナの姿に、一瞬だけ母の面影を見た。
(やめて)
(そんな目でみないで)
どうしてこうなるんだろう。どうして自分が責められるのだろう。母を殺したのに。せっかく殺したのに。なぜ死んでもなお、母は自分たちの邪魔ばかりするのか。
呼吸が浅くなる。激しい怒りに、目の前の景色がぐらぐらと揺れた。
──自分を責めるコイツは、誰だ?
忘れたくても忘れられない、母の声が脳裏に蘇る。
「──こんなの、アンナじゃない!」
気づいた時には、渾身の力でカッターナイフをアンナに振り下ろしていた。
血が飛び散り、手のひらに生温かい感触が広がる。
泣き叫ぶアンナの顔と、醜く歪んだ母の顔が重なった。
──お前のせいだ。お前のせいで。
我に返った時には、目の前が血に染まっていた。
その中に、アンナが倒れていた。
マリアの手が震える。自分の呼吸がやけに荒く聞こえた。胸の鼓動が喉元までせり上がり、頭の中を激しく揺さぶる。
「──アンナ?」
喉がカラカラに乾いていた。
呼びかけに、彼女はピクリとも動かない。
アンナを抱き起こす。
──何とかしないと。何とか、元通りにしないと。
マリアは床に広がった血を必死に両手ですくい、アンナの傷口へ押さ込んだ。それでも、指の隙間から命がこぼれ落ちていく。
いやだ。一人になりたくない。
その時に、唐突に思った。
──そうだよ。
アンナを、もう一度作ればいい。
激しく感情をぶつけてくるアンナではない。優しくて、一緒に痛みを分かち合ってくれる。まるで、二人で一つだったあの頃のアンナを。
理想の命と、理想の愛着関係。
そんな突拍子もない願いが、Hello・Babyの始まりだった。
─────────
「──アンナは僕で、僕はアンナだ。プロジェクトとは関係ないわ」
マリアの呼吸が浅く揺れる。“僕”と“わ”で、言葉が混ざる。
男児として育てられた過去。アンナを失った夜。積み重ねた研究。そのすべてが境界を曖昧にしていた。
自分とアンナ。過去と現在。現実と理想。
どこまでが失った双子で、どこからが自分自身なのか。マリアの中では、もうとっくに区別がつかなくなっていた。
タカセは静かにマリアを見上げた。
「……あなたのお腹には、子どもがいるんだろ」
諭すようなその一言に、マリアの指先がほんのわずかに止まる。
タカセの視線が、その腹部へ落ちた。
─────────
【flashback】
「──不幸な子どもを減らしたい」
表向きのその言葉を、ゼンは信じた。
理想の赤ん坊を迎えるための研究。生まれる前から不幸を防ぐための研究。だから、設備が必要になる。そう説明した。
ゼンは喜んだ。未来の話をしてくれた。僕たちなら救えるかもしれない、と。
その頃にはもう誰にも知られない場所で、別の研究が始まろうとしていた。
優しかった頃のアンナをもう一度作る研究。
胎児のサンプルが必要だった。アンナに近づけるため、できれば双子の胎児が。
親しくもなければ、恨みなど到底抱いていない妊婦の命を、マリアはためらいなく奪った。
メスを手に、マリアは女の腹に刃を入れた。
両手に収まるほどの胎児は、まだ温かかった。
小さな命だった。けれど、そこにある命の重さは、限りなく大きかった。
腕に抱いた小さな身体から体温が失われていく。ひどい分裂感と吐き気に襲われた。──それでも、もう戻れない。
透明な槽の中。二つの鼓動が揃っている。
そうしているうちに、マリアの中にも新しい命が宿った。
ゼンは泣くほど喜んだ。
研究なんかじゃない。理想でも代替品でもない。確かな愛の証だった。
──もう、やめようこんなこと。
そう思えば思うほど、頭の中で声が呼びかける。
──辞めるの? あともう少しでしょう?
──幸せになるの? 僕のこと、殺したくせに。
──たくさんの命を奪っておいて、戻れるわけがないよね。
その声は、アンナのものなのか私のものなのか、もう分からなくなっていった。
会いたかったんだ。どうしようもなく、ただ会いたかったんだ。
身代わりになって肌でベランダに出てくれたアンナ。母を衝動的に殺した時も、肯定してくれたアンナ。
母と面影が似ている。それだけで大切だと思っていたアンナを、自分の手で殺してしまった。そんな惨めで無様な自分の気持ちは、誰にも分からない。「いつか会える」という夢想を支えに生きてきた。
──アンナを返してほしい。
──殺したのは自分なのにね。
母が憎かった。自分を取り巻くすべてが憎かった。どこにぶつければいいのかも分からない、静かな憤りと痛み。
それを、罪のない妊婦と赤ん坊にぶつけた。
アンナに会うため。理想の命を作るため。
だから、これは正しい──。
「Hello, Baby」
祝福の言葉を添える。これは正しい、やめたい、正しい、やめたい正しいやめたい正しいやめたい……
コード・リーパーが、研究に目をつけたのはその頃だった。人間兵器に転用可能なレベルの遺伝子培養。──ふざけるな。人間兵器なんかに興味なんてない。
私はただ。
会って、謝りたかっただけなのに。
──────────
「……お腹に子どもがいるんだろ」
タカセのその一言に、マリアの指先がほんのわずかに止まる。
そこには確かに命がいる。研究でも実験体でもない、誰かの代わりでもない。まだ顔も知らない、一人の赤ん坊。
「その子のために、戻ろうとは思えないのか」
説得とも非難とも違う種類の声だった。
数秒、沈黙が落ちる。白い空間がやけに静かだった。
マリアは何も答えない。無表情のまま、タカセを見下ろしている。その瞳は冷たく見えるのに、どこか遠くを見ているようでもあった。
やがて、マリアはゆっくりと口を開く。
「……アンナ」
白い巨大な存在へ、そっと触れる。
「あいつを始末して」
マリアの声に反応し、白い巨体──アンナが降下し、タカセの眼前へ着地する。
床が砕け、衝撃波が爆風となって周囲へ吹き荒れた。
「......つ!」
タカセは目を細めた。
マリアは再び、タカセを見る。
・
アンナは巨大な腕を振り上げる。
白い掌が天井近くまで持ち上がり、影がタカセを覆った。
次の瞬間、轟音と共に、その腕が振り下ろされる。
タカセは地を蹴り、爆風を背に受けながら駆ける。
巨大な掌が床を叩き潰した瞬間、砕けた破片が雨のように降り注ぐ。
「──クソッ」
「あなた、他人にもそうだけど。あなた自身にも同じことをしてるって、気づいてる?」
タカセの眉がわずかに動く。
「コード・リーパーの制度に踏み入れた時点で、あなた、自分の命を選別してるのよ。“いつ死んでもいい側”に、自分を置いてる」
タカセは何も答えない。──答えられなかった。
ジョウの顔が浮かぶ。カムイ。セシル。
マリアはそんなタカセを見つめたまま、静かに言った。
「せっかく生き残れたのにね?」
その瞬間、タカセの身体は凍りついたように、そこから動けなかった。頭上で微笑むマリアの姿を捉えたまま、身体から体温が下がっていくのを感じていた。
「なんて……」
自分の声が、まるで他人のもののように聞こえる。
マリアは小さく笑った。愉快そうに、まるで秘密を知っている子どもみたいに。
「あら。気づいてなかったの?」
嫌な予感がする。理由は分からない。だが、本能だけが警鐘を鳴らしていた。──聞きたくない。それでも、アンナの腕を避けている今、耳は塞げない。
「あの時の生き残りがコード・リーパーになってるなんて、想定外だったわ」
鼓動が跳ねる。頭の奥で、何かが軋んだ。
「あの時……?」
ひどい声だった。問い返しても、答えなんてもう半分わかっていた。
マリアの口から洩れる笑い声は段々と大きくなる。可笑しくてたまらない、そういう笑い方だった。
「コード・リーパーのマービンだっけ? 警察部隊と一緒にここへ来た、間抜け共」
タカセの呼吸が止まる。自分でも顔から血の気が失せていることがはっきりとわかった。
炎と焼けた鉄の臭い。崩落と耳鳴り──そして、最後に見たジョウの笑顔。
記憶が勝手に蘇る。封じ込めていたはずなのに、ゆっくりと確実に、傷口をこじ開けられるみたいだった。
「……お前」
タカセの声が低く沈む。その表情を見て、マリアの唇がゆっくりと歪んだ。
「爆破を起こしたのは、私。当たり前じゃない。研究を嗅ぎ回っていた連中を消すことぐらい」
世界から音が消える。あの日の爆発も、ジョウの死も、自分だけが生き残った理由も。全部目の前の女が始めたことだった。
マリアは穏やかな仕草で腹を撫でた。慈しむように、守るように。その手がジョウたちの命を奪った人間のものだという事実が、タカセにはうまく結びつかなかった。
まるで子どものように、マリアが無邪気に笑う。
「生命って、本当に儚いわよね。ボタンひとつで、面白いほど簡単に消し飛ぶ」
その瞬間、タカセの中で何かが切れかけた。怒りも後悔も憎悪も。助けられなかった記憶も。全部が一気に押し寄せる。
ジョウの声が、脳裏で蘇る。
──タカセ。
──生き延びろ。
「……っ」
タカセの指先が震え、銃口が揺れる。
(──クソッ)
その一瞬の遅れが、確かに“死”へ繋がると理解しているのに、身体が追いつかない。
瞬間、アンナの巨体が動き、その腕が持ち上がる。空気が軋んだ。
(──まずい)
その時。甲高い金属音が響いた。
振り下ろされようとしていたアンナの腕に、一閃のブレードが走る。
白い腕に火花が散り、アンナの動きが一瞬だけ止まる。
何かが頭上を横切った。白い光に溶けるような黒い影。
タカセは反射的に視線を上げる。逆光で、顔までは見えない。
だが──
「──タカセ!!」
声が落ちてくる。誰だと問う必要はなかった。分かってしまう。この間で割り込んでくる人間は、一人しかいないと。
──グレイだった。
【continue…】




