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30. 死なせない理由


 眩しいぐらいの晴天。湿った風がイノウエとレインの頬を撫でる。


 視界の先に広がっているのは、かつて“城”と呼ばれた残骸。瓦礫が折り重なり、黒く焼けた鉄骨が地面から突き出している。


「……派手に吹き飛んでんな」


 肩には追加弾倉のベルト。片手には無骨なアタッシュケース。大型の装備バッグを背負ったまま、レインが周囲を見回す。


 本来、ラボの研究員が現場に足を踏み入れることは滅多にない。その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。


「俺ら研究員が現場に来るとはな」


「反省文確定よ。タカセとグレイに書いてもらうんだから」


 イノウエはタブレットモニターに視線を走らせながら、手慣れた様子で操作を続ける。


 タカセ。グレイ。カムイ。セシル。


 四人の生体反応と移動履歴を繋ぎ合わせ、簡易的に再構築された地下マップ。不完全な構造図だが、読むには十分だった。


「入口……ここね」


 瓦礫の隙間。爆破で半壊した通路の奥に、かろうじて生きている搬入口が見える。


 レインが背負った装備バッグを下ろし、周囲を警戒する。その横で、イノウエは電磁パルス発生器を取り出した。重いロックが解除される。


「行くわよ」


 二人は暗い通路へと足を踏み入れた。



・


 施設内部は不気味なほど静まり返り、足音だけが長く響いていた。


「……コード・リーパー組が通ったルートとは違うみたいね」


 イノウエが周囲を見回す。壁にも床にも、銃痕ひとつ、血痕ひとつ見当たらない。


「ラッキーと思えばいいか?」


 レインが軽く肩をすくめる。しかし、その視線は常に周囲を警戒している。


 奥へ進む。


 暗い通路を抜けた先、ひとつの区画へ辿り着いた瞬間だった。


 レインの足が止まる。何かが視界の端に引っかかった──人影。


 壁際に崩れるように座り込んでいる。乾いた血痕と、見覚えのある黒い戦闘服。


「……グレイ!」


 声が勝手に出ていた。


 床には大量の血。その跡が、乾きかけて黒く滲んでいた。呼吸は──ほとんど分からない。胸の上下が、かろうじて動いている程度。


「おい、相当やばいぞ」


 自分でも驚くくらい声が低かった。状況には慣れている。死体だって何度も見てきた。それでも仲間が倒れている姿だけは慣れない。慣れたくもなかった。


 レインの声に、イノウエの呼吸が一瞬だけ浅くなる。


 視界の奥が嫌な音を立てた。遅かった──その言葉だけは認めたくなかった。まだ呼吸はある。心拍も残っている。なら終わっていない。終わったことにするな。


(──絶対、間に合う)


 イノウエはすぐに膝をつき、アタッシュケースを開いた。


 内部には、イノウエが作った解毒剤。まだ完全とは言い切れない。臨床だって終わっていない。それでも、今はこれしかない。


「グレイ、聞こえる?」


 返事はない。グレイの首筋に指を当てる。消えそうなほど、小さな命の音。


 イノウエは解毒剤を取り出し、手早く注射器に移した。グレイの腕を取る。指先で血管の位置を確かめ、慎重に針を刺した。


 息を吐く。指先だけは震わせない。震えた瞬間に終わる気がした。だから考えない。成功率も、副作用も──間に合わなかった場合も。


(──震えるな)


 自分に言い聞かせながら、イノウエは薬液を注入した。


「……死ぬんじゃないわよ」


 その声だけが、ほんの少し掠れていた。


 

・



 深い水の底に沈んでいるようだった。身体が自分のものじゃないように、重い。


 このまま微睡んでいたい。そう思った時、遠くで誰かの声が聞こえた気がした。


 何度も何度も名前を呼ばれている。その声があまりにも必死で切実で。グレイはその声を探して辿る。


 その先に、消えそうなほど小さな光が見えた。


 意識がゆっくり浮上する。浅く息を吸い、ゆっくりと目を開けた。


 薬品の匂いと、冷たい床。耳の奥で、小さく電子音が鳴っていた。胸元には剥がれかけたバイタルセンサー。それから、誰かの手。


 滲んだ視界の先にいたのは──


「……イノウエと、レイン?」


 掠れた声しか出なかった。


「……なんで」


 レインがその顔を見て、ようやく息を吐いた。


「お前が死にかけてたからだろ」


 呆れたような声だが、その奥に張り詰めていたものがわずかに滲む。


 グレイはぼんやりしたまま視線を動かす。


 その隣で、イノウエが顔を伏せていた。肩が小さく震えている。


「……ほんと、大嫌い」


 声が掠れる。怒っているのか泣いているのか。そのどちらも近かった。間に合わなかった未来が、ほんの少し前まで目の前にあったから。


 グレイは数秒だけ黙った後、小さく笑った。


「……ごめんな」


 イノウエは答えなかった。ただ、乱暴に目元を拭う。


 グレイはそんな彼女の頭に、そっと手を置いた。それから壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。


「……タカセのところ行ってくる。一人で戦わせるわけにはいかねぇからな」


 レインが眉をひそめる。


「おい、起きたばっかだぞ」


「知るか」


 グレイは短く返す。その目は、もう死にかけの人間のものではなかった。


 レインは小さく舌打ちすると、背負っていたケースを床へ下ろした。ロックを外す。内部には、整備済みの武器が並んでいる。


「ほらよ」


 レインが放ったのは、銀色の回転式拳銃。調整済みのChiappa Rhino。タカセ用に、レイン自身が細部まで改良を重ねた一挺だった。


 グレイが片手で受け取る。


 続けて、レインはもう一つを取り出した。黒い鞘の中に収まっていたのは、短刀より一回り長い戦闘用ブレード。


「今回の相手、ナイフじゃリーチ足りねぇだろ」


 レインが投げ渡す。


 グレイは受け取ったまま、ゆっくり刃を抜いた。鈍い銀色。重さを確かめるように軽く振る。


「……かっこいいじゃん」


「そこ、かなり頑張ったからな」


 レインは小さく鼻を鳴らす。


 その横でイノウエは何も言わない。開いたアタッシュケースへ、使用済みの医療器具を静かに戻していく。手元だけを見たまま、最後までグレイと目を合わせない。


 レインはその様子を一瞬だけ見て、小さく息を吐いた。


 助かった。その事実に安心している自分がいる。だが同時に腹も立っていた。──人の寿命を縮めやがって。本気でそう思った。


「イノウエの代わりに言っとく」


 レインの声に、グレイが視線だけ向ける。


「お前もタカセも、死んだら許さねぇぞ」


 数秒の沈黙の後。グレイは刃を鞘へ戻した。


「おーけい」


 軽い返事。けれど今度は、不思議と不安定には聞こえなかった。


 ──待ってろ。一人になんかさせないからな。


 そして、グレイはタカセを追うように暗い通路の奥へ走り出した。




【continue…】


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