29. 置いていく理由
グレイは腕の中のセシルを、そっと地面へ下ろした。崩れないように。もう支える必要もないように。静かに手を離す。
カードキーを握り直すと、タカセが閉じ込められている檻の制御端末へそれをかざした。
認証音が短く鳴る。
──解除。
重い金属音とともに、檻のロックが外れていく。
「……出られるぞ」
タカセはすぐに檻の扉を押し開けた。
二人は一瞬だけ、その場に視線を落とす。セシルはもう動かないまま、そこにいた。
誰も言葉を出さなかった。
そして──
二人はほぼ同時に視線を切ると、何も言わずにマリアの消えた通路へ走り出した。
・
しかし数歩進んだところで、グレイの足が止まった。
「っ……」
乾いた咳。次の瞬間、喉の奥から血が溢れる。
「グレイ!」
タカセは振り返り、グレイに駆け寄る。
グレイは口元を拭うこともせず、銃を握り直したまま前を睨んでいた。
だがその視線は、もう焦点が定まりきっていない。足取りが明らかに遅い。
「……くそ……回りやがって」
低い声は吐き捨てるようでいて、力がない。
タカセはグレイの肩にそっと手を置いた。
「……グレイ、座っててくれ」
「バカか」
即答だった。
「行くに決まってんだろ」
その言葉の直後、グレイは再び咳き込む。今度は抑えきれず膝が折れかける。
「……っ、くそ……」
壁に手をつき、どうにか身体を支える。呼吸が浅い。明らかに、限界が近い。
タカセはその様子を見たまま、言葉を失う。
また同じ光景を見ている、と一瞬だけ思った。もう二度と繰り返したくないはずの。
息が浅くなる。喉がカラカラに乾いていた。指先が無意識に震える。どうしようもなかった。──駄目だ。駄目なんだ。
「……グレイに、死んでほしくない」
口から溢れでた瞬間、自分でも驚いた。こんな言葉を口にするつもりなんて。それでもタカセは自分の気持ちを無かったことにできなかった。それはあまりにも弱くて、幼くて、個人的な願い。
グレイは一瞬だけ動きを止める。
そして、ゆっくりと壁にもたれかかった。そのまま座り込むように崩れる。
「……知るかよ、そんなの」
掠れた声だった。目を開けているのもやっとの状態で、それでも銃だけは手放さない。
タカセは数秒、その場に立ち尽くした。
拳がわずかに震える。指先に力を込めても、それは止まらなかった。
──置いていく。
その言葉だけが頭の奥で反響する。
理屈は分かっている。マリアを追わなければならない。今ここで立ち止まれば、カムイやセシルが命を賭けて繋いだ時間も無駄になる。
それでも足は動かなかった。
目の前にいるのは、戦力ではない。タカセをずっと支えていた仲間だ。ようやく手に入れた、失いたくないものだった。
タカセは唇を引き結んだ。奥歯を噛み締め、そして視線を上げた。
奥へ続く通路。
マリアの気配はまだ消えていない。
タカセは一歩踏み出した。そして、背中越しに短く言う。
「……必ず戻る」
返事は待たなかった。
そのまま一人、闇の奥へと消えていくように走り出した。
・
──ジョウを失ったあの頃は、一人だった。
彼の死の真相を知るために。コード・リーパーになるために。ただ前へ、がむしゃらに進むしかなかった。
一人で生き残ってしまった。どうして俺だけが。どうして俺なんかが。本来、俺が死ぬべきだったんじゃないか。俺よりも生きるべき人はいたんじゃないか──。
俺の命を、ジョウに返したい。そんな感覚だけが、ずっと身体の奥に沈殿している。
生き延びてしまったことに理由が必要だと思った。それ以外の何かを持つことを自分に許したことはない。
──でも、もうあの頃とは違う。
グレイと出会って、イノウエとレインと出会って。
自分には待っている人が、帰る場所がある。そこに戻るために「生きていいんだ」と、そう思いたかった。そう思わなければ、足が止まる気がした。
タカセは走りながら震える指先でインカムに触れる。
──まだ終わっていない。グレイも生きてる。一緒に帰る。そう約束しただろ。だから、まだ終わっていない。
声に出さずに、何度も何度も繰り返す。
通信を開く。
「──イノウエ、聞こえるか」
ノイズが走る。
『ええ。通信障害区域を突破したのね』
赤い部屋では、通信が遮断されていた。イノウエの声が妙に懐かしい。返ってきたその声に、不覚にも目の縁がチリチリと熱くなった。
この地獄みたいな状況の中で、まだ変わらないものが残っている気がした。
だがイノウエが何も察していないはずがなかった。
通信の途絶や交戦時間。共有される情報。ここまで来れば、状況が最悪に近いことくらい分かっているはずだ。
それでもあえて平静を崩さない。多分、こちらのために。その普通さが少しだけ救いになる。
「──戦況がだいぶキツイ」
少しの沈黙。
『……状況は?』
タカセは息を飲む。喉が妙に乾いていた。
数分前まで生きていた。話もしたし、目も合っていた。だが今はもう違う。その事実を口にした瞬間、本当に終わってしまう気がした。
それでも言わなければ前に進めない。一人で抱えたままでは、もう間に合わない。タカセは顔を歪めた。
「……カムイとセシルは死んだ。グレイは毒が進みすぎてる」
ひどい声だった。通信の向こうが静かになる。
イノウエは言葉を探しているのではない。たぶん、受け止めている。聞いた事実を。失われた名前を。
『……解毒剤。解析と生成ができたから。今レインとそっちに向かってる』
イノウエは慰めも励ましもしなかった。代わりに必要な情報だけを伝える。今のタカセに必要なのは、まだグレイを助けられるかもしれないという事実。彼女はそれを理解している。
いつだってそうだった。感情を無視しているわけじゃない。今この瞬間に何が必要なのかを誰より分かっているだけだ。
「……すまん、俺のせいだ」
言った後で、何に対して謝っているのか、もう自分でも分からなかった。
守れなかったことか──それとも“まだ生きている側にいること”か。
だがイノウエは即座に言葉を返す。
『なに謝ってんの。それは違うでしょ』
軽い声だった。それでも、やるせなさ、口惜しさ、悲しみ。抱える感情が、淡々とした声の合間に覗く。
「──危険は侵さないでくれ」
言った後で、それがただの願いだと気づく。今の自分には、それ以上の言葉が出てこなかった。
『いざとなったらレインに手榴弾でも投げてもらうわ』
その一言で、ほんのわずかに空気が緩む。
いつも通りの軽口。それでいい。今ここで声を震わせられたら、たぶん自分も立っていられない。
タカセの口元が、ほんの一瞬だけ動く。笑いにもならない、短い呼気。それでも、確かに生きている感覚が戻ってくる。
「……頼む」
短くそう言って、通信を切る。
タカセは走る。
一人ではないと、もう一度確かめるように。
【continue…】




