28. The Breaking Point
三人は何も言わず、奥へ進む。
靴底が金属床を叩く音だけが、細い通路に反響していた。通路を抜けた瞬間──視界が一気に開ける。白い壁と、白い床、白い天井。あまりにも広い空間。ただそれだけの空間。
「……なんだ、ここ」
タカセの声に、グレイが浅い呼吸のまま呟く。
「──研究室から抜けた感じだな」
その時だった。
──カツン。
頭上で硬い靴音が鳴った。セシルが即座に顔を上げる。
二階層分ほど上に突き出した細い通路に、マリアが立っていた。
「......Babyたちを抜けるとはね」
生命を宿した大きな腹部を撫でる。そして聖母のような微笑みを浮かべた。
「──でも、あの無駄に優しいコード・リーパーさんは死んだのね。自業自得」
セシルは反射的に銃を構えると、流れるように発砲した。
しかしマリアは、壁の陰へ身を滑らせるように隠れた。弾丸は壁を抉るだけ。
「妊婦を撃つなんて、酷いじゃない」
上から声だけが落ちてくる。セシルは銃口を下ろさないまま吐き捨てた。
「どの口が言ってる!」
その時、空気そのものが震えた。
タカセが咄嗟に顔を上げる。
直後、耳をつんざく衝撃音と共に、頭上から檻が床へ叩きつけられた。鳥籠のような格子。その内側にいるのは、タカセだけだった。タカセは即座に周囲を確認する。
「タカセ!」
グレイはタカセに駆け寄り格子を見つめると、カンカンと軽く指で弾いた。
「おいおい、捉われのお姫様かよ」
「......俺に構うな、進め」
タカセの視線が上へ向く。その先で、マリアが小さく微笑んでいた。
「進めると思ってる?」
その指先には、カードキー。マリアはタカセに視線を移す。
「戦力を分けたかったの。あなた、今のところ“一番厄介”だから」
グレイは苛つきながら舌打ちする。
「考えてるじゃねぇか……!」
その瞬間だった。檻の中の床の一部が、まるでスライドするように開いた。
その奥から、ぬるりと何かが持ち上がってくる。白濁した質感を引きずりながら、“あの白い異形”が、床下からせり上がってきた。
「……手荒い歓迎だな」
タカセは踏み込む。一体目の頭部にナイフが突き刺さる。
次の瞬間、もう一体が跳びかかる。
タカセは刺さったままの個体を引き寄せ、盾にするように前へ押し出した。
ぐちゃり、と同士討ちの衝撃。
そのまま抜こうとした瞬間──横から別の個体が腕に噛みついた。
「……ッ」
皮膚を裂く感触。だが、タカセは止まらない。そのまま噛みついた個体ごと引きずり、銃を抜く。
乾いた音が響き、白い群れが床へ崩れ落ちる。
・
その光景を横目で確認しながら、グレイとセシルが無言で視線を交わす。
言葉はいらない。次の瞬間──二人の銃口が、同時に上を向いた。
乾いた発砲音が連続で鳴る。
マリアは即座に身体を引き、柱の陰へ滑り込むように隠れる。
「お姉サマ、カードキーだ」
「わかってる」
間髪入れず、二人は弾丸を撃ち込む。その動きに躊躇はない。だが、その最中──
「っ……!」
グレイが片膝をつく。喉の奥から、抑えきれない咳が漏れた。
「グレイ!」
苦しげに片膝をつくその姿を見て、セシルの動きが揺れる。
グレイは口元を押さえた。
「……くそ……」
指の隙間から血が滲む。毒が確実に進行していた。グレイの手は震えている。それでも銃を離さず、視線だけは上層を逃げるマリアを追っていた。
そんなグレイの姿を見てマリアは微笑む。
「あなたも、もう長くないわね」
そう言いながら奥の通路へと後退する。
「逃がすか!」
セシルが即座に引き金を引く。
狙いはマリアの脚。弾が床を裂き、マリアの動きが一瞬だけ崩れる。
「っ……」
マリアの足が止まる。
セシルはほんの一瞬だけ、グレイを見た。
荒い呼吸で片膝をつく姿。指の隙間から零れる血。その光景が、妙に胸の奥をざらつかせた。苛立ちに似たざらつき。
──あんた、ここで死ぬつもり?
一瞬、カムイの顔が脳裏をよぎった。自分のことなど後回しにして、誰かを守ろうとした男。
セシルは奥歯を噛み締めた。
──もう、そんな姿は見たくない。タカセは、まだあんたを必要としているでしょう。
そう思った自分に、セシルは苛立った。
「……チッ」
苛立ちを振り払うように、セシルは舌打ちをする。そして。
「おい……!」
グレイが何かを言うより先に──セシルは動いた。
(──考えるより先)
マリアを逃がせば終わる。タカセは閉じ込められている。グレイはもう限界に近い。
だったら──自分が行くしかない。
(それだけの話よ)
そう自分に言い聞かせながら、セシルは腰の装備へ手を伸ばした。
「──そこ!」
短い呼気とともに、ワイヤーが射出された。
鋭い金属音。
二階層上の手すり状の構造物に、アンカーが噛み付く。次の瞬間、張力が一気に引き上げられる。
セシルの身体が床から離れ、空間を裂くように上層へと跳ぶ。
「セシル!」
グレイの声が追いかける。だがセシルは振り返らない。
風圧の中で、銃を構え直す。
視線の先には、柱の陰から逃れようとするマリア。
(──逃がさない)
距離が詰まる。空中でセシルは引き金に指をかけた。
「ここまでよ!」
──その瞬間。
セシルの背筋を、説明のつかない悪寒が走った。本能が警鐘を鳴らす。マリアではない。もっと別の何かが、この先にいる。
ぬるり、と。物陰の奥で、空間そのものが歪むように揺れた。──マリアの立つ通路の陰から、巨大な白い腕だけが滑り出してくる。
全身は見えない。しかし、伝わる異物感。
セシルの身体が、空中で止まった。
次の瞬間──
「っ……!」
巨大な手が、彼女を掴んだ。
骨の内側に、重い圧が一気に走る。握り込まれた瞬間、関節という関節が悲鳴を上げた。
圧倒的な握力。
指が食い込むたびに、内側で軋む感覚が広がっていき、そして、折れていく。
「──がっ」
呼吸が潰れる。
胸の奥が押し潰されるように収縮する。息が形にならなかった。
・
「セシル!」
グレイは下から銃を構え、引き金を絞るように発砲した。
反動が腕に響く。それだけで、毒に侵された体が一瞬遅れて悲鳴を上げる。
踏ん張りが甘くなり、膝がわずかに揺れる。
それでも引き金を引く手を止めない。
「くそ……」
息を吐くたびに喉が焼ける。呼吸のリズムがもう自分のものじゃなかった。
タカセも檻の中から弾丸を放つ。乾いた破裂音。弾は巨大な腕に命中する。
──だが、止まらない。
手応えはあるのに、結果だけが返ってこない。掴まれたセシルが力なくぶら下がるその光景を見て、タカセの指がわずかに強張る。
(......諦めるな)
もう一発、二発と弾丸を打ち込む。それでも腕は揺るがない。
マリアは、タカセとグレイを静かに見下ろした。そして余裕すら感じさせる表情で微笑う。
「無駄よ」
その時。宙に吊られたまま、セシルは小さく息を吐いた。
「……油断しすぎ」
・
セシルの言葉は静かだった。
次の瞬間──
掴まれたままの身体がわずかに揺れる。
セシルは脚を振り抜いた。靴底に仕込まれていたナイフが、反射的に展開する。
鋭い金属音。
空中で弧を描いた刃が、マリアのすぐそばをかすめた。
「っ──!」
血が飛び散り、マリアの表情が初めてわずかに崩れる。彼女の手元からカードキーが滑り落ちた。
「ぎゃっ」
マリアの短い悲鳴に、反応した巨大な手の力がわずかに緩む。
セシルを掴んでいた指が、反射的に開いた。
「くッ......」
セシルはそのまま床へ叩きつけられるように着地する。しかし着地の形すら整えられず、衝撃が全身に走る。
それでも止まらない。視線はすでに、落ちたカードキーをただ一点に捉えている。
浅い息を繰り返しながら、セシルは迷わず手を伸ばした。指先に金属の冷たさが触れる。
その横で、マリアは血が流れる腕を庇いながら、巨大な“なにか”と共に奥へ消えていった。
喉から血が溢れ、セシルは咳き込む。その反動で、涙が滲んだ。
「......ざまぁ、みろ」
──カムイなら、こんなことは言わないだろう。けれど、私はあの人ほど出来た人間じゃない。
マリアが消えた方へ視線を移し、わずかに息を吐く。
「……その傷……カムイの分だから」
言葉が溢れたその瞬間、二階層から、セシルの身体が崩れるように落ちた。
・
「セシル!!」
グレイは反射で走っていた。
身体はとうに限界を越えている。肺は焼けるように痛み、足に力は残っていない。それでも落ちてくる白い影だけを見て走った。
落下点へ滑り込むように踏み込み、その身体を受け止める。衝撃が腕に伝わり痺れる。それでも離さなかった。
グレイはそのまま膝をつき、セシルを抱え込んだ。
腕の中の体温はまだ残っている。生きている。そう思いたかった。もう誰も、命を落としてほしくない。
「……セシル、しっかりしろ」
セシルは薄く息を吐いた。その手が、ゆっくりと動く。カードキーを掴む指先が、グレイの胸元に触れる。確かめるように、押し込むように。
「……私は、いいから」
途切れた声は、ほとんど息に近い。
「タカセを……出してあげて」
グレイの眉がわずかに動く。
「......じゃないと、あの人が繋いだ意味がなくなるでしょ」
セシルは自嘲するように、かすかに笑った。グレイは唇を引き結んだ後、ゆっくりと口を開ける。
「......諦めるなよ」
絞り出すような声だった。セシルは少しだけ目を細める。諦める。そうかもしれない。──でも、カムイを失ったその先で、私はどう生きればいいんだろう。死にたいわけじゃない。でも生きたいわけでもない。曖昧な境界の中で、自分が選ぶことは一つだった。
──カムイはきっと、私に生きてほしいと思っていた。それぐらい分かるよ。バディだもの。でもね、あなたのいないこれからを、私は想像できない。あなたがいたから、ここまで歩いてこれた。あなたを失って、これから先、私はきっと生きる理由を自分で見つけられない。
だから、あなたと一緒。繋ぐ。ただ、それだけ。
「──グレイ。あの女を止めて。終わらせて、こんなこと──」
自分で言っておきながら、その台詞めいた薄っぺらい言葉に思わず苦笑する。
自分には、カムイのような、タカセのような立派な志があるわけじゃない。この世界に飛び込んだことを後悔して、この世界を否定しながら、ただ毎日を流されるように生きてきた。自分の人生を肯定できているわけでもない。この世界に希望を見いだしているわけでもない。
だから、こんなことをグレイに託すのも、自分の勝手な願いだ。カムイが繋ごうとしたものを、カムイが大切にしてきたことを、自分も繋いだことにしたい。
──ただ、それだけ。
誰かのために行動できることと、自分自身の人生を肯定できることは、必ずしも同じじゃない。
グレイは代わりに、セシルの頭に手を置いた。乱暴ではない、慮るような静かな動きだった。
セシルはふっと息を漏らすように笑う。
──カムイ。もし生まれ変わって、また巡り会えることができたなら──掴まえて、離さないでほしい。今度こそ一人じゃないって言ってよね。
そのまま、力が抜けていく。
呼吸が浅くなる。
一度、二度。
その細い息が、ゆっくりと途切れた。
・
グレイはしばらく手を離せなかった。認めた瞬間、本当に終わる気がした。セシルの目は開いたまま何も映さない。
グレイはしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと手を伸ばしセシルの瞼に触れ、そっと下ろした。
指先に残る体温が妙に鬱陶しい。失ったばかりのものを、嫌でも理解させてくる。
「......おやすみ、セシル」
グレイはセシルの手からカードキーを受け取る。
冷え始めた指がゆっくりと離れた。その金属片は、静かで、小さくて、何よりも重たい。
命一つと引き換えに渡された鍵だった。
【continue…】




