27. 無駄死にの定義
白に埋め尽くされたガラス扉の向こう側は、異様なほど静かだった。暗い通路。か細い嗚咽だけが途切れずに落ちる。
「……カムイ、……カムイ……」
もう返事がないことを理解しているのに、セシルは壊れたようにその名だけを繰り返していた。
セシルの姿を見て、タカセの呼吸が浅くなる。喉の奥が乾いてうまく息が通らない。
赤い部屋は、いつだって誰かを奪う。
ジョウの最期。マービンの最期。
そして、今見たばかりのカムイ。
記憶が重なって、視界の奥が一瞬だけ歪む。
グレイの横顔を見る。
彼もまた、毒の影響で表情がわずかに強張っていた。
心臓だけが、やけにうるさい。タカセの指先がわずかに震えた。
──その時。
「カムイの想いを、無駄にはできない」
グレイの声だった。
低く削ぎ落とされたような声。それでもその一言だけは確かに芯があった。
「無駄死になんて言わせねぇ。……ここで終わらせるぞ」
沈黙が一度だけ落ちる。
タカセはゆっくりと息を吸った。
肺の奥まで冷たい空気を入れる。それでも、熱は消えないままだった。
(──やり遂げる)
短く、確かな決意だけが残る。
「セシル。立てるか?」
タカセの声は、優しさというより確認に近かった。セシルはすぐには答えない。しばらく俯いたまま肩を小さく震わせていたが、やがて、袖で涙を乱暴に拭う。
「……立てる」
声は掠れている。ゆっくりと、しかし確かに立ち上がる。その目はもう、さっきまでとは違っていた。
「──あの女」
セシルはガラスの向こうではなく、そのさらに奥を見据える。
「後悔させてやる」
静かな声だった。怒鳴り声よりもずっと重い、確信の温度。
タカセが短く頷く。グレイが銃を握り直す。三人は、暗い通路の奥へと歩き出す。
白に飲まれた区画の記憶を背中に置いたまま。戻れないまま。それでも、進むしかないまま。
・
【選ばれなかった子/ The beginning of everything】
子どもを産んでも、まともに育てられない親がいる。
──例えば、パンダの母親なんかは双子を産んでも、どちらか片方しか育てないことがあるらしい。
その話を聞いた時、マリアはふと思った。
ああ、僕のお母さんみたいだな、と。
「私はね、男の子が欲しかったのよ。それなのにどうして」
「あなたたちなんて、産まなければよかった」
「あなたたちのせいで、私の人生は台無しよ」
母は、男児を望んでいた。
だから、授かった命が“双子の女児”だったことは、きっと母にとって、耐え難い現実だったのだろう。
それでも最初は、母なりに愛そうとしていたのだと思う。
妹には「マリア」。姉には「アンナ」。
祈りの意味を持つ名前を与えた。
あの頃の母は、まだ“母親になろう”としていた。体裁を取り繕うために可愛がって見せる。
──あぁ、可愛い。産んでよかった。産まれてきてくれて、本当に良かった。
母であろうとする気持ちと、発作のように湧き上がってくる激しい憎悪の中で、母は揺れていた。
母は、姉妹を“男児”として扱った。
髪は短く刈られ、スカートを履いたことは一度もない。
女の子らしさは徹底的に否定され、代わりに、“僕”という一人称だけが刷り込まれていった。
それでも、感情が憎しみへと完全に傾くと、その時だけ、姉妹には露骨な差が生まれた。アンナだけを必要以上に可愛がり、マリアは存在しないものとして扱う。
しかし、アンナへのその愛情も、本物ではなかった。マリアへの当てつけのように、アンナを可愛がって見せているだけだった。
まるで、自分よりも劣っている者を見ることで安心する心理のように。母は、マリアに対してそうだった。
マリアに対して、そんな大人気ないことをする一方で、可愛がっているはずのアンナが一度でも女の子らしい素振りを見せると、母はアンナをひどい言葉で罵り、腹を蹴り、頬を叩いた。
全てが薄っぺらい、成熟しきれずに母親になった女。
マリアはいつも、理由もなく裸でベランダに立たされていた。
暗い暗い夜の中。うずくまりながらでも視界に入る街路灯の明かりは妙に綺麗に見えた。
涙で明かりが滲む。
──どうして、愛されないのに産まれてきてしまったんだろう。
淡く灯るあの街路灯の向こうに行くことができるのなら、どんなにいいだろう。自分の足でどこか遠くにいけるなら、どんなにいいだろう。
こんなに憎いのに、マリアは母の元から離れられなかった。どんなに酷い関係でも、マリアにとって母は世界の全部だった。離れるという選択肢そのものを想像できなかった。
子どもはこんなにも無力なのに、どうして大人はこんなにも無責任なんだろう。
マリアは絶望していた。自分を愛してくれる人なんか、自分の存在を認めてくれる人なんか、この世には誰一人いないんだ。唯一の母親から邪険にされ、人間として扱われない。自分の存在を恥ずかしく思った。
そんなマリアに対しても、アンナは優しかった。
「寒いだろうから」と、時々、ベランダに立つマリアと入れ替わってくれた。姉妹に興味のない母は、入れ替わりに気付かなかった。だから、入れ替わっても成立してしまった。
マリアが“アンナ”として扱われる間だけ、マリアは人間でいられた。それはほんの一瞬の夢のようですぐに終わったが、アンナがマリアを慮るそれだけが、マリアの心の拠り所で生きる希望だった。
ある夜。
母は眠っていた。胸が上下するその動きを見ていると、少しだけ不思議な気持ちになった。
──こんな人でも生きているんだな、と。
その胸の上に、ナイフを置いた。
一度だけ、迷いはあったと思う。
でも次の瞬間には、もう迷っていなかった。
だって、必要だったから。この人がいると、自分は救われない。アンナも救われない。愛されない関係を終わらせる。
ナイフをそのまま押し込んだ。
肉を裂く感触。ぶつぶつと血管が切れていく感覚が手を伝った。噴き出る血液は驚くほど温かかった。
アンナは泣いていた。血塗れの母の前で、ただ泣いていた。
責められるかもしれない、と思った。それでも良かった。二人きりになれたから。責められても、罵られても、これから先をアンナと一緒に生きていきたいと思った。でも、アンナの言葉は予想と違った。
涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、アンナは震える声で言った。
「──マリアの気持ち、分かるよ。分かる」
その言葉を聞いたとき、マリアの肩の力が抜けた。安堵。自分の中に渦巻いていたものは、間違いじゃなかったのだと。
マリアが母を殺したその瞬間、アンナはその罪を自分のことのように受け取っていた。マリアが奪われてきたものを、アンナは自分の痛みのように感じていた。
それは同情なんかじゃない。もっと深いところで繋がっているものだった。
アンナはマリアに、子守唄を唄った。
(ああ)
これが“対等”なんだ。どちらかが上で、どちらかが下じゃない。
その時、マリアは思った。パンダも母も、どちらも間違っている。
対等な関係は素晴らしい。愛される関係は素晴らしい。心も痛みも全て分け合う、神秘的で絶対的な絆。
だから、母もパンダも、哀れでバカなんだと、心の底から思った。
────
──それなのに。
白の研究所。最奥の区画には、巨大なモニターと培養器。
「......コード・リーパー。本当に邪魔ね」
マリアは息を吐くように呟いた。
やっとここまで。ここまで完成できた。誰にも邪魔させない。培養器を見つめる。
「──アンナ。どうか僕を守って」
生命を育んでいる腹を撫でながらマリアは微笑んだ。まるで、聖母のように。
【continue…】




