26. crevasse
産声が赤い部屋に響いた瞬間、培養器が一斉に作動音を鳴らした。
──ロック解除。
次の瞬間、透明な蓋が重い音を立てて開く。
──ずるり。
中から、白い異形が這い出してきた。
細長すぎる四肢に形の定まりきらない顔。液体をぼたぼたと垂らしながら、それらは床を滑るように蠢き始めた。
マリアはカムイを刺したナイフを投げ捨てた。カラン。と乾いた音が響く。
「全く……。この施設を嗅ぎつけて来るなんて、コード・リーパーのしつこさには感服するわ」
「この野郎……!」
グレイは即座にマリアへ銃口を向け、発砲する。
だがその直前、培養器から溢れ出た白い群れが、ずるりとマリアの前へ割り込んだ。何体もの異形が重なり合い、壁のように彼女を覆い隠す。まるで母親を守ることだけを刷り込まれているように。
弾丸が白い肉を撃ち抜く。
「……くそ」
グレイは舌打ちをし、視線をカムイに移す。
刺されて膝をついたカムイに、白いものが群がろうとしていた。
「カムイ!」
タカセは即座にGlockを構えると、群がる白に向かって発砲した。
しかしそれだけでは終わらない。白いものが培養器からなだれ込むように、次々と溢れ出した。
タカセはそれらを撃ちながら声を上げる。
「セシル、カムイの処置を!」
「わかってる!」
這ってくる白いものを避けながら、セシルはカムイの元へ駆け寄る。
「カムイ、傷を見せて」
床に膝をつきカムイの背中に手を置くと、刺された腹部へ視線を向けた。
「……っ」
──傷が深い。違う。深さの問題じゃない。刃が入った位置が致命的だった。
──もう、間に合わないかもしれない。
経験が理解より先に答えを出してしまう。
それでもセシルは否定するように、拒絶するように、首を振る。救急キットを漁る。まだどうにかなる。最悪を想像するな。考えるな。考えるな。考えるな……。
「待ってて、カムイ……」
その直後だった。
赤い部屋の入口が重い音を立てて閉じ、機械的なロック音が空間に冷たく響く。
封鎖。マリアの手にはカードキー。
「Babyたち、食べ尽くしていいわよ」
ガラス扉越しのその声はやけに穏やかで、マリアはそのまま通路へと影のように消えた。
・
残された空間には、すぐに異音が満ちた。
──ざり、ざり……
白い異形達は、ただ近くにいるものを壊すためだけに動く機能だけの群れのようだった。そこに意志は感じられない。
壁を擦る音、肉が軋むような湿った気配。空間そのものが埋まっていく。
奥へ消えていくマリアの背中を視界の端に捉えながら、グレイは短く舌打ちした。
「アイツがラスボスかよ……」
「こいつらの処理が先だ」
タカセは言いながら白いものを撃ち抜く。
白いものたちは、撃たれても声を上げなかった。崩れ落ちた個体の上を後続がそのまま踏み潰し、空間そのものがゆっくりと圧縮されていく。
マリアが出て行った反対側の通路。その先にある扉は開いている。
けれど、そこへ向かうまでのわずかな距離は、白いもので埋め尽くされていた。
カムイの傷口を塞ぎながら、セシルが短く舌打ちする。
「出口、見えてるのに……!」
タカセとグレイは射撃しながら後退する。一歩踏み込むたびに、群れが前へ押し返してくる。グレイは低く吐き捨てた。
「冗談きついな……! 手榴弾でも投げるか?」
「全員死ぬぞ」
「わーってるよ! 優等生!」
その時──。
「セシル……もういい、大丈夫だ」
座り込んでいたカムイが、傷口を押さえていたセシルの手を静かに振り払い、ゆっくりと立ち上がった。
腹部から落ちた血が、床に小さな跡をつくる。
「……カムイ?」
セシルの声に応えるように、カムイは一度だけ視線を上げた。
「……道を、作る」
淡々とした声だった。
・
「カムイ、無理よ……その傷じゃ──」
セシルの言葉を遮るように、カムイはショットガンを迷いなく引き上げた。
出口の前。折り重なった白いものに向かって弾丸を放つ。
「……ぐっ……」
反動が傷口を抉る。それでも、引き金を引く指だけは止まらない。
乾いた破裂音とともに、白い群れが一瞬だけ裂ける。押し固められていた空間に、無理やり穴が空いた。
「今だ!」
カムイの声に、タカセとグレイは裂け目に身体を滑り込ませるようにして、出口へと突き抜ける。
セシルが叫ぶ。
「カムイも早く!」
しかしカムイはその声を無視する。彼女の背中を出口へと強く押した。
「行け……!」
「カムイ!」
カムイはショットガンを握り直す。
三人の背中を押すように、もう一発撃ち込む。
三人は通路へ転がり込む。白い群れが、すぐに流れを戻す。そして──
気づけば、赤い部屋側に残っているのはカムイだけだった。
・
カムイの腹部から夥しい量の血が流れる。身体の中を巡っていた命が、流れていくみたいだった。
一歩が出ない。まるで地面に吸い付いているかのようだった。
(……重い)
その“出口側”で、溢れ出そうとする群れを無理やり押し留めるように、グレイが白い群れを撃ち続けていた。
「大人しくハウスしてろ……!」
「──道を作る」
タカセはリロードすると、もう一度、空間をこじ開けるように撃つ。
再び生まれる、ほんの一瞬の穴。その間を、タカセが見据える。
「カムイ! 今だ、来い!」
タカセの声が飛ぶ。セシルも、手を伸ばす。
「カムイ!!」
だが──カムイは動けなかった。
頭では分かっている。あの隙間を抜ければいいだけだ。
自分でも、頭から血の気が失せていることがはっきりとわかった。手も足も、全ての感覚が薄い。視界が歪んで映る。
──刺されてはいけないところを刺された。経験で理解する。俺は多分、ここで終わる。
もし、もし仮にここから出られたとして。
その先、手負の自分に何ができる。足手まといになるだけだ。足手まといになれば、仲間が危険に晒される。
タカセも、グレイも。──セシルも。
──俺はここで降りるべきだ。
その時だった。
「こっちに来い、カムイ!!」
思考を殴るようにタカセが怒鳴る。そして出口側から一歩踏み込む。
さらにグレイが叫ぶ。
「こっち来い!!」
「カムイ、お願い! 早くして!」
(……っ)
その姿に目を見開く。胸の奥がひどくざわついた。
──生きて帰ろう。
そう言われている気がした──いや、違う。
自分が生きて帰りたいと思ってしまった。
どんなに見苦しくてもいい、生きたい。生きて帰って、今まで通り、彼女の隣で──。
「傷が痛むのか……待ってろ、今行く!」
タカセが白い群れに割り込もうとする。
「私も行く。グレイ、そのまま射撃援護をお願い」
その光景にカムイの胸がわずかに揺れる。
(……戻ってくる気か)
喉の奥が熱くなる。どうしようもなく嫌な予感。ひどい悪夢を見ているようだった。
──このままでは、三人とも飲まれる。
今にも泣き出しそうなセシルと目が合ったその瞬間。カムイは視線を上げた。
扉脇の制御盤。
赤いカバー付きの、非常封鎖スイッチ。
この部屋に入った時から、最初から気づいていた。外側には解除装置が存在しない。
──中から、切り離すための仕組み。
手を伸ばす。
乾いた金属音が静かに響いた。
「……っ、やめろカムイ!!」
タカセは白い群れを押し退けて踏み込む。だが、一歩遅かった。
重い音とともに、封鎖用の強化ガラスが降り始める。
空間が切り離されていく。
・
振り返れば、迷う。迷えば、止まる。
それだけは、してはいけないと分かっていた。
決戦前夜の、タカセとの会話が頭を過ぎる。
──帰る場所があれば......
──生きて帰ろうと思える。カムイとセシルも、そうなればいい
腹部から熱がじんわりと広がる。押さえる指の間から血が溢れ出る。息が浅い。視界が霞む。
足元にはもう、白いものが触れている。
あと数秒で、飲まれる。
それでも不思議と恐怖は薄かった。代わりにあったのは妙な静けさだけ。
──自分は、ここで死ぬ。なら、あとは繋ぐだけだ。
三人が無事に抜けた。セシルが生きている。それだけで、この選択にはきっと意味がある。
セシルがガラス扉を叩く。
「カムイ、お願いだから! 開けて! こっちに来て!」
その音が、背中に直接ぶつかってくる。
痛いほどに、重い。
── 一人にして、ごめんな。
周りから見れば、冷静で、合理的で、感情を切り捨てて動ける彼女。
だがカムイは知っていた。彼女はそうしないと前に進めない人間だということを。
──泣かせて、ごめんな。
彼女が泣いている。自分勝手だが、彼女が自分のために涙を流していることが、少しだけ救いだった。
──最期に、ちゃんと気持ちを伝えるべきだったか。
言葉が喉まで上がる。けれどそれを飲み込む。
言えば、戻りたくなる。生きたくなる。
自分はどうなってもいい。心の底から思う。死んでしまってもかまわない。自分の全部を投げ出して、彼女に捧げる。だからお前には、少しでも長く、生きていてほしい。
この仕事に就きながらもそう思うのは、おかしいことだろうか。
・
涙が溢れる。息が苦しくて頭が痛い。息が止まるんじゃないかと、セシルは思う。
カムイの姿が、ガラスの向こうに隔てられる。
距離は数メートルしかないのに、もう一生届かない場所みたいに遠い。
セシルの手が、冷たく何も返ってこないガラスに触れた。
「カムイ……!」
声が遅れて出た。
白い群れが、空間そのものを埋め尽くしていく。その間も、タカセとグレイが強化ガラスの扉に弾丸を撃ち込んでいた。
「割れないのか、これ……!」
銃弾が強化ガラスに叩きつけられ、乾いた破裂音だけが返ってくる。
その向こう側。
白いものが肩。胸。腕へと一気に跳ね上がる。カムイの身体が飲み込まれていく。
セシルの頬を、熱いものが伝った。
「嫌だ! カムイ、戻ってきなさいよ!」
セシルは作戦前夜の夜を思い出していた。
カムイとタカセの会話。
──こんな仕事だろ。いつ死ぬかも分からない......特別な関係なんて、持たない方がいいって思う自分もいる
──帰る場所があれば、生きて帰ろうと思える。カムイとセシルも、そうなればいい
喉の奥が遅れて熱くなる。「バカみたい」と切り捨てたあの言葉は、意味のない、ちっぽけな強がりだった。
怖かった。
帰る場所なんて作ってしまえば、失った時、前に進めなくなる。
だからセシルは、ずっと先に線を引いてきた。踏み込ませないように、自分も踏み込まないように。そうすれば、自分の心は守れると思っていた。
そう思っていたのに、隣にいることが当たり前だと、当たり前すぎて気付かなかった。死と隣り合わせの仕事。自分は覚悟が出来ている側の人間だと、本気で思っていた。
それなのに、大切な人の死の予感を目の前にするとこんなにも脆い。
こんな未来を迎えるのなら。もう少し素直になれていたら、何か違っていたのだろうか。
とめどなく溢れてくる後悔が涙と一緒に溢れ出す。まだ、なんとかなる。まだ……そう思わなければ、とても息を吸っていられなかった。
カムイが振り返る。その一瞬だけ、視線が重なった。
(……カムイ)
自分に向けられていた優しい視線を思い出す。
こんなのおかしい。まだ、何か手があるはずだ。私とカムイはこれから先を生きていくんだ。いつものように話をして、仕事をして、たまに言い合いになりながら、それを繰り返しながら。私たちは……。
「……一人にしないで……」
ガラス扉の向こう。カムイは銃を握り直した。その銃口を、自身へ向ける。
瞬間。
白の中で、乾いた音がした。
──銃声。
「……っ!!」
声にならないまま、空気だけが漏れる。
その意味を理解できなかった──いや、理解したくなかった。
空気がひどく薄い。息が上手く続かない。胸の奥がひび割れていくようだった。信じたくない。嘘だと言って、戻ってきて。お願いだから。セシルは膝から崩れ落ち、泣き叫んだ。
グレイが駆け寄る。
「セシル!」
ガラスの向こう。白いものがゆっくりと満ちていく。
まるで最初から、そこに誰もいなかったかのように。
セシルの手が、ゆっくりとガラスから離れる。
誰も帰って来ないガラスの向こうは、もう白しか見えなかった。
【continue…】




