25. 赤い産声
【左ルート──グレイ・セシル】
ゼンが崩れ落ちた後も、白い空間にはしばらく余韻のような振動が残っていた。それが消え切った瞬間ようやく静寂が戻る。
グレイはその場に膝をつき、激しく咳き込んだ。
「グレイ!」
その姿に、セシルはすぐ駆け寄った。手を伸ばしかけたところで一瞬だけ動きが止まる。どう触れればいいのか分からない。
そんな迷いを振り払うように、そっとグレイの背中へ手を置いた。
「……どうしよう」
珍しく滲んだ困惑の声に、グレイは少しだけ目を見開く。
セシルがこんな顔をするのか、と思った。
「……大したことねぇよ」
息を挟む。喉の奥にまた血の気配が込み上げるのを押し殺しながら、
「まぁ、解毒剤は死ぬほど欲しいけどな」
軽く笑う。
「……なにそれ」
セシルは思わず小さく微笑んだ。張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
セシルは改めてグレイに向き直った。
「……庇ってくれて、ありがとう」
グレイは視線を逸らすように軽く笑った。
「別に。あのままお姉サマがやられんのも後味悪ぃし」
冗談めかした声だが、その呼吸は少し浅い。
「......イノウエなら、どうにかしてくれるかもしれねぇ。お姉サマ、通信できるか?」
「ええ」
セシルはすぐにインカムを起動する。ノイズの後、落ち着いた声が返った。
『こちらイノウエ。戦況は?』
「無事対処した。でも、グレイが毒に侵されてる」
その言葉に、わずかに沈黙が落ちる。グレイは苦笑しながら、セシルのインカムへ顔を寄せた。
「……イノウエ、聞こえるか?」
イノウエは返事をしなかった。正確には──できなかった。
通信越しに聞こえるグレイの呼吸が明らかに浅い。いつもの軽い声色を作っているのに、その奥にある苦しさだけは隠し切れていなかった。
『……グレイ』
ようやく返ってきた声は、わずかに硬い。
グレイは苦笑混じりに息を吐く。
「想定外ってやつだ。解毒できる方法、なんかねぇか……延命でもいい、なんでもいい」
ややあって、通信の向こうでイノウエが何かを操作する音が走る。
『……あなたたちの装備に、サンプル採取用のシリンジが入ってる』
返ってきた声は、不自然なほど感情が削ぎ落とされていた。冷静を努めようとしている声色。
『採取するとセンサーが反応して、ラボに情報が送られるようになってる。グレイの血液を採取して』
イノウエは静かに言葉を重ねる。
『……私が解毒剤を作る』
それは自分に言い聞かせるような、強い断定だった。グレイは小さく笑う。
「そりゃ頼もしい」
直後、激しく咳き込んだ。押さえた手のひらから黒い血が滴る。
通信の向こうで、一瞬だけ息を呑む気配。けれどイノウエは何も言わない。代わりに少しだけ早口で続けた。
『……でも、間に合う保証はない。そっちでも解毒剤を探して』
セシルはシリンジを取り出すと、グレイの腕にそっと視線を落とした。
「グレイ、動かないで。こういうの慣れてないから」
「……了解」
セシルは何も言わず針のキャップを外した。
「入れるから、ちゃんとじっとしててね」
「俺は悪ガキか」
「注射、苦手そうだもん」
「誰がだよ」
セシルは一度だけ息を整えると、針を構えた。針が皮膚に入り、血液がゆっくりとシリンジへ流れていく。赤が透明な筒の中を満たしていく間、空気だけが静かに重くなる。
グレイは天井を見上げたまま、低く笑った。
「……上手いじゃん」
「それはよかった」
「......案外悪くねぇな、お姉サマに刺されるの」
「冗談言えるなら大丈夫ね」
『......データが送られてきた。グレイ、しっかりしてね。死んだら、ただじゃおかないから』
ぷつりと通信が切れる。
セシルは何も言わないまま、ガーゼを当てる。包帯を巻きながら、指先が一度だけグレイの腕に触れた。
熱い。毒のせいか、それとも体温か。
グレイが視線を落とす。
「……セシル」
「なに」
「意外と、優しいよな」
「今さら?」
「いや、もっと鬼かと思ってた」
セシルは軽く息を吐く。
「失礼な男ね」
その返事は少しだけ静かだった。包帯の最後の一巻きを締めると、セシルは手を離す。
「解毒剤を探して、早くカムイとタカセに合流したいわね」
「......ゼンみたいなのがウヨウヨいたらたまったもんじゃねぇしな」
二人は立ち上がった。
・
【右ルート──タカセ・カムイ】
「助けて……!」
妊婦のマリアは息を切らし、腹を押さえながらその場に崩れそうになった。走ってきたせいか呼吸は乱れ、声の端が細く揺れている。
カムイはすぐに銃を背負い直し、距離を詰めた。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫よ……」
マリアは息を整えながら顔を上げる。その表情は痛みの中にあっても不思議なほど柔らかく、聖母めいている。
カムイの緊張がわずかにほどける。
タカセも周囲を確認しながら銃を下ろすと、マリアへ一歩だけ距離を詰めた。
「……マリアさん。ご主人の話を聞かせてくれますか」
「ええ……ただ、少し休ませてくれないかしら」
マリアは大きく膨らんだ腹を撫でながら、小さく息を吐いた。
タカセが言葉を探している間に、カムイは椅子を持ち上げ、マリアのそばへそっと置いた。
「もちろんです。無理しないで」
マリアは小さく「ありがとう」と微笑んだ。
「落ち着くまで……無理しないでください」
カムイがそう言って距離を取ろうとすると、マリアがふと、その袖を軽くつまむ。
「優しいのね、あなた」
カムイは少し困ったように笑うと、そのままマリアの隣の壁に背を預ける。
「放っておけないだけです」
「そう」
タカセは黙ったまま、マリアを見ている。マリアはその視線に気づくと、ゆっくり顔を向けた。
「妊婦の私を疑ってる?」
「……いえ」
タカセはそれだけ言うと再び黙り込んだ。ただ、指先が無意識にホルスターへ触れる。理由は説明できない。けれど目の前の女からは助けを求める側の匂いがしなかった。
彼女は椅子にゆっくりと腰を下ろし、深く息を吐く。タカセはその光景を一歩引いた位置から見ていた。
(…………)
しばらくして。マリアは腹部を押さえたまま、ゆっくりと周囲を見回した。
「ここ……ひどいわね」
視線が培養器へと向かう。
赤い照明の下で、透明な容器の影がゆらゆらと揺れていた。
「こんなこと……許されていいはずがないわ」
声は静かだが、その奥にわずかな震えが混じっている。
カムイは短く頷いた。
「あなたのご主人は、どこに?」
その問いに、マリアの動きがほんの一瞬だけ止まる。ややあって静かに指を差した。
「……奥よ。研究区画の、もっと先。そこにいるはず」
タカセがその指先を目で追う。
暗い通路、赤い光の境界線の向こう側。マリアが来た方向と一致している。
カムイが続けて問う。
「ご主人が何をしていたか、知っていますか」
マリアはゆっくりと首を振った。
「知らないわ。ただ……最近はずっと、おかしかった」
その時──ノイズ。インカムの通信が一瞬だけ割れた。
『……セ……カ……聞こえる?』
グレイからの通信だった。その瞬間、タカセの目が鋭くなる。
「グレイ?」
通信が途切れる。カムイの表情が引き締まった。
「合流したいな」
その言葉に、タカセは短く頷いた。
「同意だ」
マリアはそのやり取りを見て、少し不安そうに目を伏せる。
「……誰か、来るの?」
カムイは安心させるような声ですぐに答えた。
「大丈夫です。俺たちの仲間です」
その瞬間──マリアが駆け込んできた暗い通路の奥から、足音がした。
・
ゆっくりとした、それでも確かな歩行音。三人の視線が一斉にそちらへ向く。赤い光の境界線を越えて二つの影が現れた。
グレイとセシルだった。
タカセは一瞬、静止する。それからわずかに息を吐いた。
(……無事か)
「セシル、グレイ!無事だったか!」
カムイの声に、セシルが頷く。
「生きてるわよ」
その声はいつも通りだった。だが、タカセにはどこか張り詰めているように聞こえた。その横でグレイが軽く手を上げる。
「よっ」
軽い、いつも通りのふざけた声。だが──タカセはすぐに違和感に気付いた。
足取りがわずかに重い。そして、血の気の薄さ。タカセの目が細くなる。
「……グレイ」
「ん?」
「どうした」
グレイは軽く笑った。
「まあな。ちょっとしたおまけ付きだ」
「私を庇って、毒を受けた」
セシルの声に、カムイがすぐに顔をしかめる。
「ちょっとじゃないだろう、それ」
セシルが短く補足する。
「進行性。イノウエが解毒剤を作ってる」
タカセはグレイに一歩近づく。その距離の詰め方がいつもよりわずかに早い。
「……座れ」
「いや、そこまで重症じゃ──」
「座れ」
グレイは一瞬だけ黙り、それから肩をすくめてその場に腰を下ろした。
タカセはその横にしゃがみ込むと、グレイの腕に巻かれた包帯を見る。布の隙間から黒く変色した血がわずかに滲んでいた。
(……毒)
タカセの眉がわずかに動く。その反応は怒りではなく、焦りに近いものだった。
カムイが声を飛ばす。
「おい、それ……大丈夫なのか?」
セシルは視線だけをグレイの腕に落とし、淡々と言った。
「応急処置はしてる。解毒剤はイノウエが作っているけど、こちらでも探すしかない」
「まだイケるって......それよりも、なんだこの部屋。趣味が悪すぎるな」
無理やり話題を変えようとするグレイを見て、タカセは目を細めた。
「……無理をするな」
その声にグレイは一瞬だけ黙る。そして、わずかに笑った。
「お前さ」
「なんだ」
「犬みたいだな」
「……意味がわからない」
二人のやり取りに、カムイが吹き出す。
「いや、今のはちょっと分かるぞ」
「......カムイまで」
タカセはため息を吐いた。
セシルが周囲の構造を確かめるように呟く。
「さすが、元は城だっただけのことはあるわ。ルートが細かく分岐されている」
セシルの視線がカムイへ向く。そしてその隣に座るマリアへと移り、最後に大きく膨らんだ腹部へ落ちた。
「その人は?」
「マリア・ウィルソンだ。ゼン・ウィルソンの妻」
カムイの答えに、セシルはわずかに眉をひそめた。
「ゼンは異様な状態になっていた。……彼女も、研究対象だった可能性があるわね」
「どういうことだ?」
タカセが顔を上げる。
「交戦中で詳しくは掴めていない。でもイノウエが、事件の核までは解析してくれた。“培養遺伝子”の研究──」
セシルが言い切る前に。
「──ゼン。仕留め損なったのね」
ぽつりと声が落ちた。
マリアの声。空気が冷える。
──殺気。
タカセの反応は誰より早かった。思考が追いつくより前に、身体が動く。
「カムイ、その人から離れろ!!」
タカセの鋭い声が飛んだと同時に──カムイの腹部に、何かが触れた。
熱い衝撃。
次の瞬間、内側から熱が噴き上がる。
「……え?」
視線を落とす。
カムイの腹に、ナイフが沈んでいた。
「──カムイッ!!」
セシルが叫ぶ。
しかし、その声よりも早くマリアはナイフを引き抜いた。
血が一筋、空中に散り、カムイが膝をつく。
「っ……な……」
セシルはマリアに向かって即座に銃を構えた。
「動くな!」
その声は低く、鋭い。だがマリアは怯えた様子すら見せなかった。
「せっかくゼンにも投与したのに、無駄使いだったわね──まぁ、いいわ。どちらにせよ、あなたたちはもう帰れない」
大きな腹を撫でながら、まるで何事もなかったかのように穏やかな微笑みを浮かべる。マリアは軽く指を鳴らした。
乾いた音が、赤い部屋に小さく響く。
「Baby──起きなさい。食事の時間よ」
──静寂。
その瞬間。
赤い部屋の奥で、何かが脈打った。
培養器の液面が揺れる。照明が呼吸みたいに明滅する。
そして──
一つ、二つ、三つ。
どこからともなく、産声が響く。
培養器の中で赤子が泣き始めていた。
けれど、それはあまりにも低く、あまりにも湿っている。背筋を這うような、不快な産声。
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