↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/50

25. 赤い産声



【左ルート──グレイ・セシル】



 ゼンが崩れ落ちた後も、白い空間にはしばらく余韻のような振動が残っていた。それが消え切った瞬間ようやく静寂が戻る。


 グレイはその場に膝をつき、激しく咳き込んだ。


「グレイ!」


 その姿に、セシルはすぐ駆け寄った。手を伸ばしかけたところで一瞬だけ動きが止まる。どう触れればいいのか分からない。

 そんな迷いを振り払うように、そっとグレイの背中へ手を置いた。


「……どうしよう」


 珍しく滲んだ困惑の声に、グレイは少しだけ目を見開く。

 セシルがこんな顔をするのか、と思った。


「……大したことねぇよ」


 息を挟む。喉の奥にまた血の気配が込み上げるのを押し殺しながら、


「まぁ、解毒剤は死ぬほど欲しいけどな」


 軽く笑う。


「……なにそれ」


 セシルは思わず小さく微笑んだ。張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。

 セシルは改めてグレイに向き直った。


「……庇ってくれて、ありがとう」


 グレイは視線を逸らすように軽く笑った。


「別に。あのままお姉サマがやられんのも後味悪ぃし」


 冗談めかした声だが、その呼吸は少し浅い。


「......イノウエなら、どうにかしてくれるかもしれねぇ。お姉サマ、通信できるか?」


「ええ」


 セシルはすぐにインカムを起動する。ノイズの後、落ち着いた声が返った。


『こちらイノウエ。戦況は?』


「無事対処した。でも、グレイが毒に侵されてる」


 その言葉に、わずかに沈黙が落ちる。グレイは苦笑しながら、セシルのインカムへ顔を寄せた。


「……イノウエ、聞こえるか?」


 イノウエは返事をしなかった。正確には──できなかった。


 通信越しに聞こえるグレイの呼吸が明らかに浅い。いつもの軽い声色を作っているのに、その奥にある苦しさだけは隠し切れていなかった。


『……グレイ』


 ようやく返ってきた声は、わずかに硬い。

 グレイは苦笑混じりに息を吐く。


「想定外ってやつだ。解毒できる方法、なんかねぇか……延命でもいい、なんでもいい」


 ややあって、通信の向こうでイノウエが何かを操作する音が走る。


『……あなたたちの装備に、サンプル採取用のシリンジが入ってる』


 返ってきた声は、不自然なほど感情が削ぎ落とされていた。冷静を努めようとしている声色。


『採取するとセンサーが反応して、ラボに情報が送られるようになってる。グレイの血液を採取して』


 イノウエは静かに言葉を重ねる。


『……私が解毒剤を作る』


 それは自分に言い聞かせるような、強い断定だった。グレイは小さく笑う。


「そりゃ頼もしい」


 直後、激しく咳き込んだ。押さえた手のひらから黒い血が滴る。


 通信の向こうで、一瞬だけ息を呑む気配。けれどイノウエは何も言わない。代わりに少しだけ早口で続けた。


『……でも、間に合う保証はない。そっちでも解毒剤を探して』


 セシルはシリンジを取り出すと、グレイの腕にそっと視線を落とした。


「グレイ、動かないで。こういうの慣れてないから」


「……了解」


 セシルは何も言わず針のキャップを外した。


「入れるから、ちゃんとじっとしててね」


「俺は悪ガキか」


「注射、苦手そうだもん」


「誰がだよ」


 セシルは一度だけ息を整えると、針を構えた。針が皮膚に入り、血液がゆっくりとシリンジへ流れていく。赤が透明な筒の中を満たしていく間、空気だけが静かに重くなる。


 グレイは天井を見上げたまま、低く笑った。


「……上手いじゃん」


「それはよかった」


「......案外悪くねぇな、お姉サマに刺されるの」


「冗談言えるなら大丈夫ね」


『......データが送られてきた。グレイ、しっかりしてね。死んだら、ただじゃおかないから』


 ぷつりと通信が切れる。


 セシルは何も言わないまま、ガーゼを当てる。包帯を巻きながら、指先が一度だけグレイの腕に触れた。


 熱い。毒のせいか、それとも体温か。


 グレイが視線を落とす。


「……セシル」


「なに」


「意外と、優しいよな」


「今さら?」


「いや、もっと鬼かと思ってた」


 セシルは軽く息を吐く。


「失礼な男ね」


 その返事は少しだけ静かだった。包帯の最後の一巻きを締めると、セシルは手を離す。


「解毒剤を探して、早くカムイとタカセに合流したいわね」


「......ゼンみたいなのがウヨウヨいたらたまったもんじゃねぇしな」


 二人は立ち上がった。




・




【右ルート──タカセ・カムイ】



「助けて……!」


 妊婦のマリアは息を切らし、腹を押さえながらその場に崩れそうになった。走ってきたせいか呼吸は乱れ、声の端が細く揺れている。


 カムイはすぐに銃を背負い直し、距離を詰めた。


「大丈夫ですか」


「ええ、大丈夫よ……」


 マリアは息を整えながら顔を上げる。その表情は痛みの中にあっても不思議なほど柔らかく、聖母めいている。


 カムイの緊張がわずかにほどける。

 タカセも周囲を確認しながら銃を下ろすと、マリアへ一歩だけ距離を詰めた。


「……マリアさん。ご主人の話を聞かせてくれますか」


「ええ……ただ、少し休ませてくれないかしら」


 マリアは大きく膨らんだ腹を撫でながら、小さく息を吐いた。

 タカセが言葉を探している間に、カムイは椅子を持ち上げ、マリアのそばへそっと置いた。


「もちろんです。無理しないで」


 マリアは小さく「ありがとう」と微笑んだ。


「落ち着くまで……無理しないでください」


 カムイがそう言って距離を取ろうとすると、マリアがふと、その袖を軽くつまむ。


「優しいのね、あなた」


 カムイは少し困ったように笑うと、そのままマリアの隣の壁に背を預ける。


「放っておけないだけです」


「そう」


 タカセは黙ったまま、マリアを見ている。マリアはその視線に気づくと、ゆっくり顔を向けた。


「妊婦の私を疑ってる?」


「……いえ」


 タカセはそれだけ言うと再び黙り込んだ。ただ、指先が無意識にホルスターへ触れる。理由は説明できない。けれど目の前の女からは助けを求める側の匂いがしなかった。


 彼女は椅子にゆっくりと腰を下ろし、深く息を吐く。タカセはその光景を一歩引いた位置から見ていた。


(…………)


 しばらくして。マリアは腹部を押さえたまま、ゆっくりと周囲を見回した。


「ここ……ひどいわね」


 視線が培養器へと向かう。

 赤い照明の下で、透明な容器の影がゆらゆらと揺れていた。


「こんなこと……許されていいはずがないわ」


 声は静かだが、その奥にわずかな震えが混じっている。


 カムイは短く頷いた。


「あなたのご主人は、どこに?」


 その問いに、マリアの動きがほんの一瞬だけ止まる。ややあって静かに指を差した。


「……奥よ。研究区画の、もっと先。そこにいるはず」


 タカセがその指先を目で追う。


 暗い通路、赤い光の境界線の向こう側。マリアが来た方向と一致している。


 カムイが続けて問う。


「ご主人が何をしていたか、知っていますか」


 マリアはゆっくりと首を振った。


「知らないわ。ただ……最近はずっと、おかしかった」


 その時──ノイズ。インカムの通信が一瞬だけ割れた。


『……セ……カ……聞こえる?』


 グレイからの通信だった。その瞬間、タカセの目が鋭くなる。


「グレイ?」


 通信が途切れる。カムイの表情が引き締まった。


「合流したいな」


 その言葉に、タカセは短く頷いた。


「同意だ」


 マリアはそのやり取りを見て、少し不安そうに目を伏せる。


「……誰か、来るの?」


 カムイは安心させるような声ですぐに答えた。


「大丈夫です。俺たちの仲間です」


 その瞬間──マリアが駆け込んできた暗い通路の奥から、足音がした。



・



 ゆっくりとした、それでも確かな歩行音。三人の視線が一斉にそちらへ向く。赤い光の境界線を越えて二つの影が現れた。


 グレイとセシルだった。


 タカセは一瞬、静止する。それからわずかに息を吐いた。


(……無事か)


「セシル、グレイ!無事だったか!」


 カムイの声に、セシルが頷く。


「生きてるわよ」


 その声はいつも通りだった。だが、タカセにはどこか張り詰めているように聞こえた。その横でグレイが軽く手を上げる。


「よっ」


 軽い、いつも通りのふざけた声。だが──タカセはすぐに違和感に気付いた。

 足取りがわずかに重い。そして、血の気の薄さ。タカセの目が細くなる。


「……グレイ」


「ん?」


「どうした」


 グレイは軽く笑った。


「まあな。ちょっとしたおまけ付きだ」


「私を庇って、毒を受けた」


 セシルの声に、カムイがすぐに顔をしかめる。


「ちょっとじゃないだろう、それ」


 セシルが短く補足する。


「進行性。イノウエが解毒剤を作ってる」


 タカセはグレイに一歩近づく。その距離の詰め方がいつもよりわずかに早い。


「……座れ」


「いや、そこまで重症じゃ──」


「座れ」


 グレイは一瞬だけ黙り、それから肩をすくめてその場に腰を下ろした。


 タカセはその横にしゃがみ込むと、グレイの腕に巻かれた包帯を見る。布の隙間から黒く変色した血がわずかに滲んでいた。


(……毒)


 タカセの眉がわずかに動く。その反応は怒りではなく、焦りに近いものだった。


 カムイが声を飛ばす。


「おい、それ……大丈夫なのか?」


 セシルは視線だけをグレイの腕に落とし、淡々と言った。


「応急処置はしてる。解毒剤はイノウエが作っているけど、こちらでも探すしかない」


「まだイケるって......それよりも、なんだこの部屋。趣味が悪すぎるな」


 無理やり話題を変えようとするグレイを見て、タカセは目を細めた。


「……無理をするな」


 その声にグレイは一瞬だけ黙る。そして、わずかに笑った。


「お前さ」


「なんだ」


「犬みたいだな」


「……意味がわからない」


 二人のやり取りに、カムイが吹き出す。


「いや、今のはちょっと分かるぞ」


「......カムイまで」


 タカセはため息を吐いた。


 セシルが周囲の構造を確かめるように呟く。


「さすが、元は城だっただけのことはあるわ。ルートが細かく分岐されている」


 セシルの視線がカムイへ向く。そしてその隣に座るマリアへと移り、最後に大きく膨らんだ腹部へ落ちた。


「その人は?」


「マリア・ウィルソンだ。ゼン・ウィルソンの妻」


 カムイの答えに、セシルはわずかに眉をひそめた。


「ゼンは異様な状態になっていた。……彼女も、研究対象だった可能性があるわね」


「どういうことだ?」


 タカセが顔を上げる。


「交戦中で詳しくは掴めていない。でもイノウエが、事件の核までは解析してくれた。“培養遺伝子”の研究──」


 セシルが言い切る前に。


「──ゼン。仕留め損なったのね」


 ぽつりと声が落ちた。


 マリアの声。空気が冷える。


 ──殺気。


 タカセの反応は誰より早かった。思考が追いつくより前に、身体が動く。


「カムイ、その人から離れろ!!」


 タカセの鋭い声が飛んだと同時に──カムイの腹部に、何かが触れた。


 熱い衝撃。


 次の瞬間、内側から熱が噴き上がる。


「……え?」


 視線を落とす。


 カムイの腹に、ナイフが沈んでいた。


「──カムイッ!!」


 セシルが叫ぶ。


 しかし、その声よりも早くマリアはナイフを引き抜いた。


 血が一筋、空中に散り、カムイが膝をつく。


「っ……な……」


 セシルはマリアに向かって即座に銃を構えた。


「動くな!」


 その声は低く、鋭い。だがマリアは怯えた様子すら見せなかった。


「せっかくゼンにも投与したのに、無駄使いだったわね──まぁ、いいわ。どちらにせよ、あなたたちはもう帰れない」


 大きな腹を撫でながら、まるで何事もなかったかのように穏やかな微笑みを浮かべる。マリアは軽く指を鳴らした。


 乾いた音が、赤い部屋に小さく響く。


「Baby──起きなさい。食事の時間よ」


 ──静寂。


 その瞬間。


 赤い部屋の奥で、何かが脈打った。


 培養器の液面が揺れる。照明が呼吸みたいに明滅する。


 そして──


 一つ、二つ、三つ。


 どこからともなく、産声が響く。


 培養器の中で赤子が泣き始めていた。


 けれど、それはあまりにも低く、あまりにも湿っている。背筋を這うような、不快な産声。




【Next : Chapter】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。