21. バーバ・ヤーガの城①
ラボの外は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。夜の乾いた風が教会の尖塔を抜け、遠くの鐘の余韻だけを運んでいく。
その風に当たるようにして、カムイは外階段の踊り場に立っていた。
街の灯りをぼんやりと見下ろしながら、何かを抱えたまま動かない背中だった。
足音が近づく。カムイは振り向かないまま言う。
「……どうした?」
タカセだった。夜風に髪を揺らしながら、カムイの隣に並ぶ。
しばらく、どちらも何も言わなかった。風の音だけが間を埋めていたが、やがてタカセから口を開く。
「任務前にわだかまりがあるのは良くないと思ってな。セシルのことは気にしていない。さっきも言ったが......」
カムイの肩がわずかに動く。タカセは続ける。
「……俺もきっと、この先に地獄を見る」
その言葉は悲観ではなく、静かな確信だった。カムイはようやくタカセを見る。そして小さく息を吐いた。
「……ありがとう。優しいんだな」
タカセは否定せず、視線を街へ向けたまま、続ける。
「カムイは、セシルと組んで長いのか?」
カムイは遠くを見るような目をした。
「……もう、十数年だ。何度も死線を潜って、気付いたらここまで来てた」
タカセは黙って聞いている。カムイは続けた。
「最初は、任務の数だけ覚えてたんだけどな。いつの間にか、数える意味がなくなった」
風が一度だけ強く吹く。カムイは唇を引き結んだ後、静かに息を吐いた。
「俺は……セシルには、もう仕事から降りてほしいと思ってる。でも、それができない世界だってことも分かってる」
言葉の最後は少しだけ笑っていた。諦めと、どうしようもなさが混ざった笑いだった。
タカセはその横顔を見たまま言う。
「好きなのか」
唐突な問いに、カムイは一瞬だけ動揺する。言葉を探して、それから観念したように苦笑した。
「……まぁ、そうなるな」
否定はしない。その代わり、カムイは小さく首を振る。
「でもな、こんな仕事だろ。いつ死ぬかも分からない......特別な関係なんて、持たない方がいいって思う自分もいる」
言葉は冷静だったが、その一つ一つが諦めをなぞっているようにも聞こえた。
タカセは少しだけ考えてから言う。
「……帰る場所があれば、生きて帰ろうと思える。カムイとセシルも、そうなればいい」
カムイは小さく目を細めた。そしてようやく、短く息を吐いた。
「……ありがとう。タカセはやっぱり優しいな」
タカセは何も返さない。ただ、もう一度だけ街を見た。沈黙が少しだけ長く続き、やがてカムイが言う。
「絶対に真相を掴もう。タカセの亡くした仲間のためにも」
その声は、さっきまでとは違う強さを持っていた。
タカセの指先がわずかに動く。一瞬だけ呼吸が浅くなる。それでもすぐに頷いた。
・
少し離れた場所に、セシルは立っていた。
腕を組み、いつもの仏頂面のまま二人の会話を聞いている。
「……帰る場所、ね」
独りごちる。一瞬だけ、指先が腕の内側に強く食い込む。
「くだらない」
吐き捨てるように言う。だが視線は──カムイの背中。
「……バカみたい」
そう言って、ようやく背を向けた。
・
作戦決行前夜──そして夜は、そのまま明け方へと溶けていく。
まだ街が寝静まっている時間。
四人は“バーバ・ヤーガの城”の跡地に足を踏み入れていた。
・
地面の質感が、街とは違っていた。
明け方の空の下、視界の先に広がっているのはかつて“研究所”と呼ばれた残骸だった。
山間に広がる広大な高原。その中央には、かつて城が築かれていたという古い遺跡が残されていた。長い年月を経た石造りの遺構を覆い隠すようにして研究所が建てられ、今ではその建物さえも爆発によって跡形もなく崩れ去っている。
残っているのは、ところどころ地面から顔を覗かせる石壁と、ひしゃげた鉄骨。広い高原には瓦礫がまばらに散らばっていた。
警官として初めて踏み込んだ場所。赤い部屋の光景。爆破と、ジョウの死。
あの時止めたはずの時間が巻き戻されるような錯覚に、タカセはわずかに息を吐く。
(──戻ってきた)
グレイが軽く肩を回す。
「……ほんとに来ちまったな」
冗談のような声だがその奥にいつもの軽さはない。インカムが、ラボにいるイノウエの声を拾う。
『座標一致。ここで間違いないわ』
タカセは視線を上げる。
崩れた“バーバ・ヤーガの城”。あの日から時が止まったように、全てが崩れたままだった。視界の奥に一瞬だけ“別の光景”が重なる。
──その瞬間。
わずかに指先が動いた。視線が指先に落ち、呼吸が浅くなる。
(……違う。今はあの時じゃない)
ほんの一瞬、飲まれかけた瞬間──ゴン、と鈍い音が鳴る。タカセは自分の頬をためらいなく殴った後、深く息を吐いた。
その一連を、グレイは黙って見ていた。
「……おい、いけるか?」
タカセはすぐには答えない。ややあって視線を上げる。
「問題ない」
グレイは一瞬だけ目を細めるだけで何も追及しない。代わりに軽く肩をすくめた。
「なぁ、帰ったら何食う?」
「今それ聞く必要あるか」
「大事だろ。早く帰んなきゃいけねぇんだから」
「……肉」
「被ったわ。気が合うな俺ら」
グレイの声に、タカセは口の端をわずかに上げる。もう一度だけ拳を開く。震えは収まっていた。
カムイは爆発の跡地を見渡す。
「ご丁寧に扉を用意してくれているわけないかぁ」
『地下に通ずるならなんでもいい。下水道とか空気口も見てちょうだい』
ノイズが走る。
『城の地下の正確な地図は無い。センサーで割り出しておくから、何かあったら連絡ちょうだい』
通信が切れる音。それが合図になった。
タカセは視線を下ろした。
崩れた瓦礫の下。そこに、格子状の金属がわずかに覗いている。瓦礫をどけると鈍い音を立ててそれは姿を現した。
地下へと続く通気口だった。隙間を抜ける風がかすかに湿っている。
グレイが覗き込む。
「お、ビンゴじゃん」
そう言って靴先で格子を軽く叩いたところで、横からカムイが一歩前に出た。
「俺がやってみよう」
次の瞬間、カムイは迷いなく踏み込んだ。
足裏で格子を押し潰すように体重をかけると、限界を超えた格子が鈍い音を立てて崩れ落ちた。その先に暗闇がぽっかりと口を開ける。
グレイは軽く拍手する。
「さすがゴリラ!」
カムイは少し笑って降下口を覗く。
「さぁ、降りられるかな」
その間にセシルがしゃがみ込み、蓋の周囲を指先でなぞる。
「ここ、垂直に降下できる。距離は約十メートルってとこかしら」
タカセが視線を落とす。
「安全は?」
「保証はない」
即答。セシルは立ち上がると、崩れた壁の一部に取り付けられていたワイヤーを確認する。
使えるかどうか一瞬で判断し、迷いなく引き抜いた。
「でも“今よりマシ”」
それだけ言って、腰の装備から小型のフックユニットを取り出した。固定点にワイヤーを打ち込むと、カチ、と乾いた音が小さく響く。
グレイが目を細める。
「それ便利そうだな」
「あなたには貸さない。壊しそうだから」
「俺へのイメージ悪くない?」
セシルはすでに縁に立っていた。そして迷いなく、暗闇へ飛び降りる。
ワイヤーが張り詰め、彼女の身体を制御するように速度を落とす。着地音はほとんどしなかった。下から短く声が返る。
「問題なし」
グレイは上から覗き込みながら、軽く手を広げる。
「お姉サマ、俺のこと受け止めてよ」
返事はない。次にタカセが降りようとした時──ワイヤーが一本、下から投げられる。
「それ使って降りて」
グレイがすかさず言う。
「なら最初から貸してくれよそれ!」
「壊しそうだから無理。タカセが使ってるところ、ちゃんと学習しなさい」
・
地下は、空気が最初から違っていた。
湿度が高く、重くぬるい。石と土の匂いではない。もっと曖昧で、もっと生々しい──
カムイがライトを照らす。
白く切り裂かれた視界の先。壁面には水滴が滲み、どこかで何かが脈打つような錯覚すらある。
グレイが小さく鼻を鳴らす。
「……気持ち悪いな」
冗談めかした声だったが、いつもの軽さは薄い。
タカセは周囲を見渡す。どこか先の方で、かすかな明かりが漏れている。
「……奥だな」
カムイが短く言う。全員が数歩進むと、やがて視界の奥にそれは現れた。
足元に埋め込まれた鉄格子。
格子の向こうにはさらに下へ続く空間。階層状に沈み込んでいく構造だった。
カムイが一歩前に出る。
「……なるほどな」
低く呟くと両腕を格子にかける。軋む音。次の瞬間、鉄格子が引き剥がされた。ぽっかりと空いた穴。その向こうにあるのは暗闇ではなかった。無機質な白い空間。
タカセの視線がわずかに止まる。
そこは部屋ではなく、どこまでも伸びる直線的な通路だった。壁はステンレス。床は光を反射するほど滑らか。
グレイが小さく息を吐く。
「……まるでサイバーパンクのゲームだな」
タカセは、白く伸びる通路の奥を見つめた。
【continue…】
背中に熱い衝撃が走って目が覚めた。
天井は無機質な白で埋め尽くされている。薬液の匂い、鉄臭さ、消毒液。それらが混ざり合い、鼻の奥に残る。
ここはどこなんだろう。
確か、街の外れで大きな荷物を持って一息ついていて──
──大変ですね。妊婦さんなのに。持ちますよ?
そう、声を掛けられた。
──何周目ですか?
そこから記憶が飛んでいる。
何が起こっているのか分からないけど、逃げなければ。と本能が告げる。
痛い。
熱を持った背中に、恐る恐る手をやる。
べったりとした感触が指の間を埋める。それが血液だと認識するまでやけに時間が掛かった気がした。
嘘でしょう? どうしよう、こんなに血を流したら。どうしよう。赤ちゃんは、私の赤ちゃんは……。
腹に手を当てる。命の鼓動が手に伝って、確かに生きているとそう応えてくれる。
それなのに、目の前には赤いナイフを持ったその人がいた。
熱い息を吐き出しながら、懸命に声を振るわせる。
「……お願い、助けて」
懇願も虚しく。喉に沈む感覚。次に引き裂かれる感覚。痛みがまともに襲う。
滲む視界のその向こう側で、返り血に濡れたその人は笑う。
「──Hello、Baby」
愛おしそうに、そう洩らす。




