17. 繋がる線
ラボに戻る頃には、街はすっかり静まり返っていた。
明かりの落ちた建物の中へ入り、フリースペースを抜ける。いつもなら誰かしらいるはずの場所も今は無人だった。
そのまま奥へ進む。イノウエの部屋の扉を静かに開けた。
薄暗い室内。ソファに、無造作に身体を預けたままのイノウエがいた。ヒールも脱がず片腕を目元にかけたまま、小さく寝息を立てている。
タカセとグレイはしばらくイノウエを見つめ、そっと視線を外した。
「……フリースペースに戻るか」
踵を返しかけた、その時。
「おかえり」
低く掠れた声。イノウエだった。目元を覆っていた腕をゆっくりと下げ、半分だけ開いた目で二人を見る。
「……大丈夫。解析、必要でしょ?」
グレイは一瞬だけ肩をすくめる。
「寝てろって言っても無駄だな」
ポケットから煙草を取り出し、一本抜く。それをイノウエの唇に軽く咥えさせた。イノウエはわずかに口元を緩める。
「……ありがと」
火はつけないまま。それでもどこか満足そうに目を細めた。
・
イノウエはタブレットに視線を落としたまま、涼しげに言う。
「condorにも通信を繋げるわ。彼直々の出動命令だったからね」
グレイが露骨に顔をしかめた。
「はぁ〜……憂鬱だな。報告、必要?」
「必要でしょ」
イノウエは煙草をくゆらせながら短く返す。
数秒後、通信が繋がる。
スクリーンに映し出されたのは、大柄な男──condor。無言のまま、こちらを見下ろしている。
その沈黙を破ったのは、タカセだった。
「潜入先、株式会社ジェネシスアークの“Hello・Baby”プロジェクトについて報告する」
ごく短い沈黙を経てタカセは続ける。
「性別、胎児数、発育傾向を妊娠前段階で制御する医療技術……いわば“妊娠の設計”だ」
発した言葉に胸が重たくなる。condorはその先を急かさず無表情のまま、ただ静かに続きを待っていた。タカセは深く息を吐く。
「──技術開発長はウィルソン夫妻。妻は現在妊娠中。新薬の使用有無は不明」
グレイが片眉を上げる。
「怪しいのは旦那の方っぽかったが断言はできん……そもそも、“妊娠を設計する”ってのは表向きの顔かもしれねぇ」
その声は自分自身の思考を口に出しているだけのようだった。イノウエが視線を上げ口を挟む。
「表向き?」
グレイは肩をすくめた。
「勘だよ」
タカセは話を戻す。
「地下に未登録の区画を確認──そこには、女性の写真とエコー写真が大量に貼られていた。全員別人。年齢も国籍もバラバラだ」
イノウエがすでに別の画面を開いている。
「あんた達が撮ったデータ。さっきレインから送られてきたわ。解析済みよ」
スクリーンに名前のリストが並ぶ。
「写真の女性たちは、全員──妊婦殺害事件の被害者と一致」
空気が沈む。誰もすぐには言葉を出さない。イノウエはそのまま続けた。
「そして、エコー写真……全部、双子ね」
わずかに沈黙が落ちる。グレイが低く吐き出した。
「……奪った胎児で実験か。単胎じゃなく双子ってのは、母体一人でサンプル数を増やすためか?」
「妊娠を設計するだなんて、一朝一夕で出来ることじゃないものね」
タカセの視線が、わずかに揺れた。
「もう一つある。研究室に、地図に載っていない部屋があった。その部屋は──マービン殉職事件で発見された部屋と似た構造だった」
ややあって、タカセは言い直す。
「……いや、完全に同一だ」
それまで無表情だったcondorの目が、わずかに細くなる。
グレイは小さく息を吐き、腕を組んだ。
「マービンさんは、その“証拠”に辿り着いて殺された」
一瞬だけ、気遣うようにタカセへ視線を向ける。それでも言葉は止めない。グレイは続けた。
「同行していた警察部隊も、巻き込まれたってことか」
静寂と重さだけが、部屋に残る。
イノウエが静かに口を開く。
「──つまり、“Hello・Baby”は、すでに人体実験段階にある可能性が高い」
グレイは舌打ちをし、後頭部をかいた。心底うんざりしたように肩をすくめる。
「最悪だな」
・
その時、condorが口を開いた。スクリーン越しの視線はひどく冷たく、何の感情も窺い知れない。
『研究員が一人、負傷したと報告がある』
グレイの表情がわずかに歪む。“レインの負傷をもう知ってるのか”とでも言いたげな目。
『研究員が狙われるのは、お前らの実力がなってないからだ』
グレイの舌打ちが喉の奥で潰れる。ほんの一瞬だけ、視線が落ちる。
その隣でタカセは無意識に拳を握りかけて──止める。
どちらも言い返さない。condorが言っていることが事実だからだ。空気が重く沈む。
『証拠とデータの回収、実行犯の特定と処理。どれも完了していない。潜入捜査の失敗は、死んで取り返せ。──任務は継続だ』
何の感情も込められていない、起伏の無い声だった。そして通信は一方的に切れた。電子音だけがやけに軽く響く。
静寂。イノウエは小さく息を吐き、端末を下ろした。
グレイは天井を仰ぐ。
「……相変わらずムカつくな、あのハゲ」
イノウエはわずかに目を細め、タカセとグレイへ視線を向ける。
「condorが動いてる案件に、並行して介入できるのは稀よ。認められてる証拠」
グレイが即座に返す。
「ツンデレかよ」
「そう思えるなら、まだ余裕あるわね」
だが、そのやり取りにタカセは反応しなかった。──石畳に倒れたハウンドが、脳裏に一瞬だけよぎった。唇を引き結び、奥歯をきつく噛む。宙を睨む一瞬の間の後で低く告げる。
「……続行したい」
命令は出ている。それでも、あえて口にした。従うのではなく、自分の意思で進むために。
空気が止まる。タカセは一度だけ、言葉を選ぶように間を置く。
「赤い部屋の意味を掴める可能性がある……ジョウの件もだ」
その名前が出た瞬間、イノウエの表情からやるせなさが滲み出る。タカセは続ける。
「爆破事件の真相に近づけるかもしれない」
ほんのわずかに呼吸が浅くなった。それでも言葉を重ねる。
「……ここで切る理由はない」
グレイは珍しく口を閉じ、タカセから目を逸らす。その奥にあるものに気づいたからだ。
イノウエは静かにタカセを見つめた。ややあってからいつも通りの調子で言った。
「……理由としては十分ね」
グレイはしばらく黙っていた。タカセの言葉を測るように聞いていたが──やがて、肩をすくめる。
「……ま、ここまで来たら降りる理由もねぇか」
イノウエは端末を操作しながら涼しい声で言う。
「condorに死ぬ気で取り返せって言われてるしね」
グレイが即座に顔をしかめた。
「辛辣ぅ〜」
いつも通りの、くだらない冗談。タカセを気遣うような言葉も、無理に何かを働きかけることもしない。タカセはゆっくりと瞬きをした。胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。
グレイはタカセの肩を叩いた。
「ほら。しけたツラすんな。今日は飯食ってしっかり寝るぞ」
イノウエは小さく息を吐いてから、並びの良い歯を見せて笑った。
「景気付けに肉でも食べるわよ。ほら、そこ片付けて」
「イノウエが散らかしたんだろー」
「グレイも共犯でしょ?」
二人のやり取りを見て、タカセの肩からふっと力が抜けていった。脱力してはじめて自分が緊張していたことに気付く。
裏路地で抱えた葛藤は完全には消えない。それでも、事件のことや自身の覚悟のことをたった一人で抱える感覚だけは、少しだけ薄れた。
タカセは小さく笑って、視線を前に戻す。その目には、迷いを抱えたまま進む覚悟が宿っていた。
【continue…】




