14. 赤い部屋
製薬会社ジェネシスアークの地下研究所前。
社員の男は欠伸を噛み殺しながら長い廊下を歩いていた。ここ数日、まともに眠っていない。
──今日こそは帰って寝たい。
ぼんやりと考えていた時だった。研究室の扉の前に知らない男が立っていた。目が合うと男は困った表情を浮かべた。
「すみません、迷ってしまって」
黒縁メガネの男。整った顔立ちで場違いなほど落ち着いた立ち姿。
──パーティの参加者か?
社員の男は軽く頭をかいた。
「ああ……ここ、広いから迷うよな。地上に上がるには──」
言いかけて、止まる。
違和感。この地下フロアは関係者以外立ち入り禁止で、そもそも外部の人間が簡単に辿り着ける場所ではないはずだ。
「……あんた、どうやって──」
最後まで言えなかった。首筋に鋭い衝撃が走り一瞬で力が抜ける。崩れ落ちる視界の端で、黒縁メガネの男がわずかに笑った。
「悪いな」
意識が暗転する。
・
社員の男を物陰に移動させると、タカセは男の胸ポケットからカードキーを抜き取った。変装用の黒縁メガネを外し短く息を吐く。
「カードキー、手に入ったな。研究室へ入れる」
グレイは気絶した社員の男を眺めながら苦笑した。
「……これ、大丈夫だよな。任務のためだが、俺たち逮捕されない? これ」
タカセは返事をしないままインカムを耳に装着した。カチ、と小さな電子音が鳴る。それに少し遅れてグレイも同じようにインカムを耳に当てた。
「……ったく」
カチ、ともう一つ音の音が重なる。
タカセはそのまま無駄のない動きでホルスターの留め具を指で確かめると、ぽつりと呟いた。
「さっきの逮捕のくだり」
「ん?」
「死んでないから大丈夫だ」
「……お前、そんな理論感でよく一回警官になれたな」
タカセは軽くインカムの位置を直しながら、レインへ通信を開く。
「こちらタカセ。聞こえるか」
レインが即座に応じる。
『聞こえてる。入れそうか?』
「カードキーが手に入った。今から潜入する」
短い間が落ちる。レインの声色は変わらない。
『何か見つかるといいけどな』
グレイはインカムを軽く指で弾きながら笑った。
「何もなかったらただの不審者だよ、まったく」
一瞬の沈黙。
『了解。表は俺が見る。変な動きがあったらすぐ引き返せ』
「不審者のくだり、否定しろよな」
・
地下研究所内は、白い廊下がどこまでも続いていた。
『右だ』
インカム越しに、レインの声。
『……三メートル先、角。人感反応なし』
タカセは足を止めずに曲がる。グレイがその後ろをついて歩く。
「便利すぎるだろ、それ」
『体温センサー拾ってるだけだ。万能じゃない』
レインの淡々とした指示を聞きながら、グレイは小さく舌打ちする。
「にしてもさ。何もねぇな。“証拠があるかもしれない”ってだけで潜らされて、これかよ」
その声には明確な苛立ちが混じっていた。
白い廊下は変化がない。扉も同じで空気も同じで何も引っかからない。
『巡回は今いない。だが奥に二人。距離は……二十メートル。別ルートを使え』
タカセは一瞬だけ足を止め、周囲を見渡す。
「……見る限り、ここの社員は普通の人ばかりだ。胎児収集の噂がデマだといいが」
「それもそうだな」
『左の非常通路を使え』
「了解」
左手に曲がった瞬間、妙な違和感を覚えた。タカセの足が止まる。
「どうした?」
グレイは小声で問うが、タカセは答えない。まるで地面に足を縫い付けられたかのように、その場で固まっていた。視線だけが廊下の奥を捉えている。
──赤い。
白い廊下の中に一つだけ、扉の隙間から赤い光が滲んでいる。
「……レイン」
タカセは低い声で呼ぶ。
「その先、部屋があるはずだ。中の反応は?」
珍しくレインの返答が遅れる。
『……待て。入手した地図には載ってない』
「載ってない?」
レインの声に、グレイが眉をひそめる。
「実際に部屋があるのに?」
『……機器上はそう出てる』
レインの声に空気が冷える。タカセは扉の前に立った。隙間から漏れる赤い光が足元を染めている。
脈打つような、鈍い赤。
「……開けるぞ」
タカセは返事を待たず扉を押した。
・
扉が軋む。ゆっくりと開いた先──部屋の中はすべてが赤かった。
天井からぶら下がる裸電球はガラスもカバーもなく、剥き出しの赤い光がそのまま空間を染めている。
赤がベッタリと貼り付いた壁には、年齢も国籍もばらばらな女性たちの写真が貼られていた。
その隣、大量に並ぶのは白黒の“影”の写真。
顔のようにも見える。だがその確信は次の瞬間には崩れる。見るたびに位置がずれ、目だったはずの場所が今はただの影に見えた。
「……おいおい……これ……」
グレイが一枚の写真を剥がし、しげしげと見つめる。
「エコー写真か?」
『おい。何か見つけたならデータ送れ』
インカム越しにレインの声が飛ぶ。
「はいはいっと」
グレイは軽く撮影し、タブレットを操作しながら続けた。
「これ、まだ“何か”って断定できねぇが普通じゃなねぇな……まぁ、無駄足にならなくて良かったな──」
そこで、ふと気づく。グレイの視線がタブレットからタカセに移った。
「……タカセ?」
呼びかけても返事がない。タカセは部屋の壁を凝視していた。
「おい、どうした」
グレイのその声も届いていない。タカセの視界には、別のものが重なっていた。
赤い光。壁一面に貼られた写真。
記憶の奥が軋む。
爆発音と崩れ落ちる天井。焦げた匂い。そして──“あの部屋”。
「──ジョウ……」
零れ落ちた声はひどく掠れていた。
あの時の赤い部屋。空気もそこに漂う異常な気配も、似ているなどという生温いものではない。全く同じだった。
心臓の音がうるさい。タカセの指がわずかに震えたその瞬間、彼は自分の頬を思いきり殴った。鈍い音が響く。
あまりにも唐突な出来事にグレイは目を見開いた。
「おい、何してんだよ!」
乱れた呼吸を押し込めるようにタカセは息を吐いた。目を瞑り震える指先でホルスターに触れる。
(……戻れ。ここはあの時じゃない)
もう一度深呼吸をすると、指の震えは治った。そしてゆっくりと目を開ける。
「……大丈夫だ」
タカセの言葉にグレイは眉をひそめる。大袈裟に声は上げないが、表情には心配が滲んでいた。
「今の顔、大丈夫じゃなかったぞ」
「……悪い。もう戻った」
タカセの視線が再び赤い壁に向くと、グレイが息を吐く。
「大丈夫だって言うなら、それでいいけどさ」
グレイの声色には、さっきまでの軽さが消えていた。
「……無理そうなら言えよな」
グレイはそう言って、一歩だけタカセと距離を詰めた。
「……すまん。ありがとう」
「謝るか礼を言うか、どっちかにしろよな」
その時だった。インカムにノイズが走る。
『……グレイ、タカセ。聞こえるか』
レインの声が途切れ途切れに入る。
『すまない、気付かれた。対象は二人、追跡されてる』
荒いノイズが走る。会場を出たのか、通信越しに街のざわめきが混じっていた。
『俺はコード・リーパーのライセンスを持ってない。殺しはできない。一旦、会場を出る』
グレイが舌打ちする。
「了解、すぐ行く。人混みに入れ。撹乱しろ」
『……やってる』
通信が切れると、グレイは短く息を吐いた。
「雇うもん雇ってやがるな。こりゃビンゴかぁ?」
「急ごう」
タカセは最後に一度だけ部屋を見た。赤い光の中で命の断片が無言で並んでいる。
そして二人は、赤い部屋を背にして走り出した。
・
【diary】
月にいちど、お兄ちゃんは僕をどなった
その顔が、お母さんと同じに見えた
やめて、やめてって思った
そんな目で見ないでって思った
気づいたら、お兄ちゃんは血の中にいた
僕の手にはカッターナイフがあった
何回もさしていたみたいで、刃がぼろぼろになっていた
お兄ちゃんをころしてしまった
そう思ったとき、僕から血が出た
──これ、お母さんのせいだ
【continue…】




