11. 空白
重い腹を抱えて走る。
足元で砂利が跳ね、裸足の裏に小さな石がいくつも刺さる。
でも今は、そんなことはどうでもいい。──逃げなければ。
夜の湿った匂いが肺に入り込む。息が続かず苦しい。それでも止まれない理由があった。
草が太ももを擦っていく。
「……たす、けて……」
声にならない。
背後の気配だけが、ずっと追ってくる。
次の瞬間、首筋に焼けるような衝撃。
視界が白く弾けた。
──おんぎゃあ。
遠くで、何かが鳴いた気がした。
風の音に混ざって泣き声が聞こえる。小さくて温かくて、確かな音。
「お母さん、元気な女の子ですよ」
優しい声だった。
(ああ、よかった)
産まれた。
無事に、産まれてくれた。
抱きしめたい。早く、その子を──
来ない。
遠くで泣き声は聞こえるのに、どれだけ待っても、来ないのだ。
──どうして?
意識が、ゆっくりと浮かび上がる。
「──夢?」
ぼやける視界の隙間に葉の影が揺れている。月明かりが、細く差し込んでいた。
腕にロープが食い込んでいることに気付くと、一気に頭が冴えた。
背中や太ももが、暖かく濡れている。草むらに押し付けられているせいで、地面の冷たさが遅れて伝わる。
慌てて視線を落とす。
ジャキン。
ジャキン。
森の中で、金属が鳴る音がやけに響く。
理解が、追いつかない。
次の瞬間。腹が開いた。
「ぁ──……」
声が出ない。
痛みが遅れてやってくる。背中や太ももを濡らしているのが、自分の血液だと今更ながらに理解する。
赤い。
全部、赤い。
「いや……やめて……お願い……」
草の匂いが濃くなる。夜の森がぐらりと傾く。
見えてしまう。自分の中から、外に出てくるのを。
──赤ちゃんを、返して。
そう願った瞬間、ぐちゃり。と、何かが引きずり出された。
意識が沈む。
最後に見えたのは、木々の隙間から覗く月と。取り出した赤ちゃんを覗き込む影。
「──Hello、Baby」
優しい声だった。
子守唄みたいに、柔らかくて。
私から奪ったその子に、歌っているみたいだった。
・
ラボのフリースペースはいつも通り白かった。
塗りつぶされたような白の中に、観葉植物と色とりどりの花だけが意図的に生命として置かれている。
どこか遠くで、鐘の音が聞こえる。
研究員達が行き交う中。フリースペースの端にタカセは座っていた。
手元のタブレット。その画面上に並んでいるのは断片化された事件データ。
──マービン殉職事件。
研究施設でのデータの回収任務。そして爆発。
「......ジョウ」
タカセの指がモニターの上でわずかに止まる。あの日の熱も、音も、まだ消えていない。
タカセはグレイとバディを組み任務を重ねる傍らで、密かにこの事件を追い続けていた。
だが──
「……やっぱり、何もない」
小さく、吐き出す。
ログ。現場記録。任務計画。コード・リーパーとラボにしか許されない領域まで潜っても、核心に繋がる情報だけが綺麗に抜け落ちている。消されたのか、最初から存在しないのか。判別すらできないぐらいの空白だった。
静かな空調音だけが、やけに長く響く。
その時。
「やっぱここか」
グレイが、いつの間にかそこに立っていた。
手には二人分の紙カップのコーヒー。ラボの空気には不釣り合いな、安っぽい匂いが広がる。
「あの事件か?」
「……まあな」
グレイは適当に椅子を引き腰を落とす。タカセの前にコーヒーを置くと、タブレットを横から覗き込んだ。
数秒、視線だけが画面をなぞる。やがて小さく息を吐いた。
「……報告に上がっていないってことは、難儀してるな」
タカセの指がぴたりと止まる。グレイはカップを軽く揺らしながら続けた。
「マービンさんが回収し損ねたデータの中身も情報も不明……で、引き継ぎは──」
一瞬だけ視線が沈む。それから肩をすくめた。
「condorさんか。珍しいな」
名前が落ちた瞬間、空気がわずかに沈む。
タカセは目を細めた。
「……あの人か」
「そう」
グレイは一口コーヒーを飲む。
「condorさんが首突っ込む案件って時点で、ろくでもない。……こっちに情報が回ってくるのは諦めた方がいい」
「なんでだよ」
タカセは間髪入れずに返す。グレイは少しだけ視線を外した。
「あの人、かなりの秘密主義でさ」
「秘密主義?」
「持ってても出さない。そういうことが普通にある。厄介だろ?」
「厄介どころか、タチが悪すぎる。何だあのオッサン」
至って真剣に答えるタカセの一言にグレイは吹き出した。
「お前、言う時言うよね。最高」
・
タカセがタブレットを閉じたその直後だった。廊下の奥からパタパタと足音がする。
イノウエだった。
白衣の裾が揺れ、呼吸がわずかに乱れている。普段の気だるい雰囲気はなく、明らかに走ってきた人間の顔だった。
グレイが片眉を上げる。軽く椅子にもたれたまま、カップを揺らす。
「どうした。お前が走るなんて珍しいな」
イノウエは一瞬だけ息を整えると、即座に言った。
「──私だって走るわよ。冗談はいいから、二人とも私の部屋に来て」
タカセの手が止まる。
「どうした?」
「任務よ」
短く言いきり、そして続ける。
「condorから直々」
その名前が出た瞬間、グレイの表情から軽さが消えた。カップを持つ手だけがわずかに静止する。
「……直々、ねぇ」
タカセはゆっくりと立ち上がった。椅子が静かに音を立てる。
「何の任務だ」
イノウエはすでに踵を返している。
「来れば分かるわ」
そのまま彼女は廊下へ走り出す。グレイが小さく息を吐いた。
「……あの人が直々って言うのは、ろくなことじゃないぞ」
タカセはすでに歩き出していた。
「いい加減に立て。早く行くぞ」
グレイは重い腰を上げて立ち上がる。
「はいはいっと。了解、相棒」
その声は、いつもより少しだけ真面目だった。
白い廊下に二人の足音が重なる。それは静かに奥へと消えていった。
【continue…】




