第2話:折れた剣と、届かない通信
領主館の重々しい扉を抜けると、冷たい夜風が静かに私の頬をなでた。
手に持っているのは、着替えを入れた小さな鞄ひとつだけ。
かつてカイル様から贈られた装飾品も、
カイル様の色のドレスも、すべてあの部屋に置いてきた。
私自身の力で買ったもの以外は、何一つ持ち出すつもりはなかった。
見上げれば、雲の切れ間から静かな月光が降り注いでいる。
「……あたたかい」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
吹きつける風は冷たいはずなのに、首元を締め付けていた見えない重圧が消え去った胸の奥は、不思議なほど心地よく温かかった。
私は一度も振り返ることなく、暗がりの中をまっすぐに歩き出した。
◇
乗合馬車に揺られて隣領へ向かい、静かな町に着いたのは翌日の昼過ぎのことだ。
長年私を縛り続けていた「失敗してはならない」というプレッシャーから解放されたせいか、小さな宿屋でとった昼寝は、驚くほど深く穏やかだった。
——そして、その日の夕方のことだ。
宿の食堂で温かいスープをいただいている時、激しく明滅する『魔導水晶』に気づいた。
これは連絡用の通信魔導具で、かつてカイル様や領地の手配師とやり取りするために使っていたものだ。
水晶の表面に浮かび上がった光の数字を見て、私は思わず目を丸くした。
『着信:29件』
……たった一日、家を空けただけなのに。
通知の山をひとつタップすると、カイル様の声が焦りを含んで再生された。
『エレノア! どこにいる、早く戻って——』
「……気持ち悪い」
ゾワリと肌が泡立ち、私は思わず水晶を伏せそうになった。
最初は上から目線の命令、途中からは悲鳴と泣きつき。
さらに録音の終わり際には、こちらの返答を強要するかのように、
カイル様の荒く乱れた息遣いだけがねっとりと残されていた。
その無言の圧力すらも自分勝手で心底不快だ。
文字や声、そしてその見苦しい息遣いを聞くだけで吐き気がしそうなほど、
彼がパニックを起こしているのが痛いほど伝わってきた。
昨夜、私が領主館を静かに立ち去ってから、わずか一日。
それだけで領地の業務と騎士団の装備管理は完全に破綻したらしい。
(……マリアさんの付与魔法は『見せかけ』だったのね)
見た目だけを少し華やかに装う程度の初級魔法。
使う者の癖を見抜き、強度と伝導率を極限まで高める私の「特級付与」とは、比べるべくもなかったのだ。
カイル様は、私が陰でどれほどの仕込みをし、どれだけの時間をかけて領地の武具や道具をメンテナンスしていたのか、何一つ理解していなかった。
私が成果を出し続けている時だけ「自分の実力」だと誇り、
私という存在そのものは「取り替えの利く便利な道具」程度にしか思っていなかったツケが、一気に回ってきたのだ。
これ以上、彼の声や見苦しいメッセージを再生させるのも、視界に入れるのすら心底不快だった。
私はメッセージの続きを読むことなく、履歴もろともすべて一括削除した。
さらに、登録されていたカイル様との回線そのものを完全に遮断・消去する。
これで、本当に終わり。
昨夜、冷たい夜風の中で決別を誓った私にとって、
水晶の向こうで醜く取り乱す彼の存在は、もはや関わる価値すらないものだった。
食堂の窓から外を見ると、街並みが綺麗な茜色に染まっていた。
街を行き交う人々は誰も私を知らないし、「完璧な特級付与魔法師」であることを求めてもこない。
明日からは、この街で小さな工房を探そう。
誰かの自慢や飾りになるためではなく、目の前の人が喜んでくれるような、優しくて温かい付与魔法をかけるために。
昨夜頬を撫でた夜風よりもずっと柔らかい夕暮れの風を感じながら、私は残りのスープをゆっくりと口へ運んだ。




