第1話:婚約破棄された特級魔法師
※本作は、主人公エレノアの視点で描かれる物語です。
長年寄り添い、愛していたはずの婚約者。「役に立ち続けなければ愛されない」という呪縛に縛られていた彼女が、身勝手な婚約破棄をきっかけに自分の人生を取り戻していくお話です。
(※別視点で展開する【掲示板編】とも繋がっておりますが、本作単体でも独立した物語としてお楽しみいただけます)
「他に好きな人ができた。だから、君との婚約はなかったことにしたい」
婚約に向けた話し合いの席で、カイル様はどこか酔いしれたような顔でそう告げてきた。
彼の隣には、控えめに身を縮こまらせた小柄な女性——マリアさんが立っている。
「……左様ですか」
私はゆっくりと頷き、深く一礼した。
私の胸に湧き上がったのは、取り乱すような怒りでも悲しみでもなかった。
——ああ、やっぱりそうだったんだ。
すっと胸の奥が冷えていくような、恐ろしいほどの冷めた納得だった。
私の実家は、かつて名門と謳われた特級魔法師の家系だった。
けれど、私が幼い頃、祖父が犯したたった一度の失敗によって爵位も財産も奪われ、一族は没落した。
東の果ての領地に流れ着き、世間から隠れるように細々と暮らす中、両親や親族から毎日呪いのように叩き込まれた言葉がある。
『一度の失敗も許されない』
『我が家の再興はお前の肩にかかっているんだ』
『完璧で、役に立つ人間でなければ、ここにいる価値などない』
幼かった私は、失敗が怖かった。
見捨てられるのが怖かった。
弱音を吐くことも許されず、血のにじむような努力の末に獲得したのが、道具の質を見抜き、使う者の手になじむ魔力を寸分狂わず編み込む「特級付与魔法」だった。
その才能を領主様に見込まれ、私はカイル様の婚約者としてこの領主館に迎え入れられた。
忘れもしない。
かつてのカイル様には、胸が痛むほど愛おしい面影があった。
稽古で傷を作るたび、泣きそうな顔を隠して
『僕、エレノアを守れるくらい強くなるから!』と笑っていた少年。
私が初めて付与魔法をかけた剣を渡した時、
自分のことのように目を輝かせて『エレノアはすごい! 天才だ!』
と跳ね回って喜んでくれた、あのまっすぐな目の輝き。
過酷な環境で育った私にとって、昔の彼が見せてくれた笑顔だけが、唯一の温かな救いだった。
だからこそ、私は彼のために、この領地のために、限界を超えて働き続けた。
けれど……成長し、立場を得るにつれ、彼の態度は変わっていった。
『お前も、俺の役に立って誇らしいだろう』
『もっと付与の効率を上げられないのか?』
『 お前は完璧主義すぎて可愛げがない』
いつしかカイル様は、私が夜を徹して仕上げた付与魔法の成果を「自分の実力」だと錯覚し、増長していった。
私がどれだけ疲弊していても気づきもしない。
身なりを整え、完璧な仕込みをし、成果を出し続けている時だけ、彼は満足そうに私を隣に立たせた。
(役に立ち続けなければ、捨てられる)
時折開かれる領主館の夜会で、カイル様に贈られた綺麗なドレスを着て微笑みながらも、私の心はいつだって恐怖に怯えていた。
彼の都合のいい言葉に応えるため、自分の心を少しずつ削り取って差し出していたのだと、今ならわかる。
「君も分かってくれるだろう? マリアはな、お前と違って守ってやりたくなる愛らしさがあるんだ。それに……彼女も付与魔法が得意でね。お前のように『私が支えてやっている』というような可愛げのない態度も取らない」
カイル様は自分に酔った瞳でマリアさんの肩を抱き寄せ、私を哀れむような目で見つめた。
マリアさんも上目遣いで彼を見上げ、可憐に微笑んでいる。
……私自身には、最初から何の価値もなかったのだ。
新しい彼女が「付与魔法ができる」と言った瞬間に私を捨てる決断をしたことが、何よりの証拠だった。
彼が愛していたのは、私という人間ではなく、領地の繁栄をもたらす「便利な道具」でしかなかったのだから。
その瞬間。
私の中で、長年彼を繋ぎ止めていた情という最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
(……ああ、そうか)
一度の失敗も許されないと、必死に完璧を目指してきた。
捨てられないように、役に立つようにと、息もつかずに走り続けてきた。
けれど——もう、いい。
失敗を恐れて怯える日々も。
「役に立たねば」と自分をすり減らし続ける毎日も。
かつて愛した少年の面影にすがりつく虚しい努力も。
全部、ここで終わりだ。
絶望の底で、驚くほど静かで、胸がすーっと軽くなるような大きな安堵が広がっていく。
私を縛り続けていた「一族の重圧」と「カイル様への執着」という重い鎖が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
「……承知いたしました。どうぞ、お幸せに」
私の声には、自分でも驚くほど一切の迷いも、未練もなかった。
「え……?」
思い描いていたような取り乱しや泣きつきがないことに、カイル様は拍子抜けしたように目を見開いた。
私は背筋をまっすぐに伸ばし、かつて誰もが称賛してくれた完璧な所作で、もう一度深く一礼した。
引き止める言葉も、言い訳を聞く耳も、もう私には必要ない。
私はすっと背を向け、ずっと私を閉じ込めていた部屋を静かにあとにした。
後ろでカイル様が困惑したような声を上げていた気がしたが、一度も振り返ることはなかった。
廊下に出ると、冷たい夜風が静かに頬をなでる。
領主館を出た私の胸にあったのは、まだ晴れやかとまでは言えないけれど、生まれて初めて触れた「自由」という名の、かすかで確かな温もりだった。




