盃の底。
硫黄の匂いが微かに匂う。
湯治で訪れたのは、山間部の隠れ里のような町。
「しばらくは、ここで火傷を治すか。」
鍋蔵は、宿屋に落ち着く。
一人部屋の中。
耳が痛いほどの静寂の中、どうしてもあの火事の日のこと、届かなかった手のことを思い出す。
「このままじゃ気が塞いでしょうがないな。」
誰にともなく呟いて、部屋を出る。
寂れた町の様子を見ながら一人歩く鍋蔵。
「おい、こんなところで何してる?」
振り向いた先には雲海。
「お前どこにでもいるな。」
雲海は、ニヤリと笑う。
「この温泉街はなかなかなもんだぞ、鍋蔵。」
雲海は鍋蔵の手を引いて、近くの建物へと入っていく。
「飯は美味いし、温泉もある。何より女の子が素晴らしい!」
雲海は、勝手知ったるなんとやら、慣れた様子で空いている席へ座る。
「お〜い。」
近くの女中に声をかけると、女中はにこやかに頷く。
「鍋蔵、辛気臭い顔しとるぞ。そんな時はどうしたらいいか知っているか?」
鍋蔵は首を振る。
「酒を飲んで忘れちまうに限る!」
運ばれてきた酒を酌み交わしながら、男二人は今までの旅の話をする。
「わしは、街道沿いに旅を続けてな、なかなか楽しめたな。だがやはり、税が多すぎて皆の生活が苦しいのはどこも同じだな。」
雲海は、酒を飲み干す。
「俺は…。」
鍋蔵は重い口を開き、これまでの経緯を話す。
「それで自信がなくなったってことか。」
雲海は鍋蔵のお猪口に酒を注ぐ。
「まあ、慌てて結論を出す必要もない。酒を飲め。」
二人とも、酒が進み顔が赤くなった頃、一人の女が現れた。
三十路に差し掛かったところだろうか?雪のように白い肌の妖艶な女だ。
「雲海さん、飲みすぎたらダメでありんす。」
言いながら、鍋蔵の横に座る。
鍋蔵は、緊張したのか、座り直す。
雲海が女の手を握ろうとすると、その手を払いのけ
「あちきが売っておるのは、春ではなくて、芸じゃ。」
肝の座った女のようである。
女は夏凛と名乗った。
「主、名はなんと申す?」
「鍋蔵だ。」
「初めてみる顔だの。ここはには来たばかりかえ?」
鍋蔵は頷く。
夏凛は鍋蔵に酒を注ぐ。
「何か悩んでる顔をしとるえ。あちきでよければ、話だけでも聞いてあげるでありんす。」
酔った勢いか、鍋蔵は先日の火事の事を話し始めた。
夏凛は黙って話を聞いている。
「この町一番の美女を独り占めか?やんなっちゃうね。」
雲海は酔った目で二人の様子を眺めている。
ひとしきり話したところで、夏凛が口を開いた。
「主は、目の前のすべての人を助けたいと思っておる。だが、助けることができなかった人のことばかり考えてクヨクヨしてるでありんす。」
夏凛は鍋蔵のお猪口から酒を飲み干す。
「でも助けた人はもっと沢山いるでありんす。何も間違ってはおらん。」
鍋蔵は、空になったお猪口をじっと見つめる。
「主は出来ることをただひたすらにすればいいんでありんす。」
空のお猪口に酒を注ぎ、鍋蔵の前へと差し出す。
鍋蔵は、目の前の酒を一息で飲み干した。
その様子を見ていた雲海が口を開く。
「鍋蔵は全てを抱え込もうとしておる。所詮人間、全ては無理だと悟れ。お前は抱えきれないものを抱えようとしてるただのど阿呆じゃ。」
言い終わった雲海は、床に大の字になり大きなイビキをかき始めた。
翌日も、その翌日も鍋蔵は同じ店で夏凛を相手に酒を飲んだ。
心の中に澱のように溜まった物は吐き出されることなく、沈殿していく。
「ここの温泉は、体の傷は治してくれる。でも心の傷は自分で治すしかないでありんす。」
鍋蔵は酒の表面をじっと覗き込んでいる。
鍋蔵はただ、酒を飲む。
答えを探そうとするかのように。
「主は、あちきの弟とは正反対じゃ。弟は、目の前の一人より、もっと多くを救いたいと考えておる。」
夏凛はため息をつく。
「あやつは便利な道具があれば、民を救えると考えておるのじゃ。」
「最近そんな男に会った。技王という男だ。」
「それが弟じゃ。」
しばしの沈黙ののち、鍋蔵は口を開く。
「技王は、夏凛の弟なのか?」
「そうじゃ。昔からガラクタばかりいじって、世間のことは何も知らん。」
鍋蔵は夏凛の目を見つめて言葉を呟く。
「だが、技王の発明で民は豊かな暮らしができでいる。」
「でも戦さは絶えぬ。もっと上手くやることもできるでありんす。」
「どうやってだ?」
「外交をするなり、技術を売るなり、やりようはいくらでもあるでありんす。」
夏凛はお猪口の酒を飲み干す。
「民を救うための方法は一つではないのでありんす。」
鍋蔵は黙り込む。
「誰にも正解はわからん。わかったらつまらんじゃろ。」
夏凛は黙って鍋蔵のお猪口に酒を注ぐ。
盃に注がれた酒は、ほとんど色を持たない。
だが、灯りを受けたその表面は、ゆるく揺れている。
指先で盃の縁に触れる。
冷たい。
その冷たさが、じわりと指から伝わってくる。
ゆっくりと持ち上げる。
鼻先に寄せた瞬間、柔らかい香りがほどける。
強くはない。
だが確かにそこにある。
炊き上がった米のような、少し湿り気を帯びた甘い香り。その奥に、わずかな果実の気配を感じる。
口に含む。
最初は、ほとんど何も感じない。
ただ、ひやりとした感触が舌を撫でるだけ。
一拍、遅れて。
甘みが、静かに広がる。
押し付けるような甘さではない。
舌の上に、薄く膜を張るような甘み。
そのまま、少しだけ含んでいると、
体温で温められた酒が、ゆっくりと変わる。
ほんの少しだけ長く口に留める。
舌の上で転がすと、
わずかな苦味が顔を出す。
盃を置く。
指先に残った冷たさと、
喉の奥に残る熱。
何もないはずの空間に、
まだ香りだけが残っている。
酒を飲み干した鍋蔵の手が無意識に、夏凛の手にそっと触れようとする。
夏凛は何食わぬ顔で、扇子の先をその指に添えた。
それ以上は、近づけぬように。
「主、酒は飲んでも、寄りかかるものではないでありんす。」
鍋蔵は、伸ばしかけた手を見つめる。
盃の底には、もう何も残っていなかった。




