天下無双を捨てた男。
風が止んでいる。
小高い丘を登る道は曲がりくねってどこまでも続いている。
小太朗は額の汗を拭う。
「技王のところまで、後どのくらいですか?」
街道を出てから一週間ほど。旅は順調に進んでいる。
「後、二週間はかかるんじゃない。」
桜が小太朗に答える。
「大人の足では二週間だな。」
侍は二人に告げる。
「飯にするか?」
侍は程よい広場を見つけ、荷を下ろす。
小太朗と桜も手際よく食事の準備を始める。
「今朝採った、野草と味噌で鍋にする?」
「そうだな。」
「もう飽きちゃった。」
話しながらもそれぞれ手を動かしている。
焚き火が爆ぜる音。
立ち昇る味噌の香り。
湯気は天に吸い込まれていく。
「妙だと思わない?」
桜はお椀を覗き込みながら言う。
「…美味しいよ。」
「そうじゃなくて、鳥の声が全然聞こえないんだけど。」
言われてみれば確かに。
この丘では、鳥の囀りや動物の鳴き声など聞いていない。
「…妙だな。」
侍は腕を組む。
「腹が減っては戦はできぬって言うでしょ。あったかいうちに食べようよ。」
小太朗は二人のお椀に汁を注ぐ。
ザッザッと足音がし、三人は振り向く。
足音を隠すつもりもないのであろう。
堂々とした立ち姿の男が立っていた。
「やっと見つけたぞ、兄者。」
「…。」
侍は無言で立ち上がる。
「こんなところで何してるんだ…。」
侍は男の言葉を手で制する。
侍は男の目を見据えながら答える。
「今の俺は、鍋野鍋蔵だ。」
「…かっこわる。」
桜が呟く。
「俺は気に入っているぞ。」
「姿を消したからどうしたのかと思えば、旅をしながら鍋だと。」
男は腰の刀に手を伸ばす。
「天下無双の名が泣くぞ。」
陽の光を受けて男の刀が光を放つ。
「昔の話だ。」
侍が木刀を構える。
ただならぬ様子に危険を感じた桜が小太朗の手を引き、二人から距離を取る。
いつのまにか、風が吹き始めている。
草の揺れる音が、五月蝿い。
睨み合う鍋蔵と男。
「武虎。腕を上げたな。」
ジリジリと間合いを詰める二人。
二人の気迫に、小太朗は固唾を飲む。
気勢と共振り下ろされる武虎の剣。
鍋蔵はするりと身を躱し、武虎の剣は空を斬りそのまま地面に大きな裂け目を残す。
呼吸を整える武虎。
武虎の刀が光を受けて煌めいた時思った刹那、鍋蔵はヒラリと身を躱し武虎の側面へ。
鈍い音をたてて武虎の刀が地面に落ちる。
いつのまにか風は止んでいた。
「まだまだだな。」
鍋蔵は言いながら、倒れ込んだ武虎に手を差し伸べる。
「兄者を倒せば天下無双の名が手に入るのに…。」
「そんなものいくらでもくれてやる。」
鍋蔵がニヤリと笑う。
武虎は悔しそうに顔を歪める。
「おっさん、意外とやるわね…。」
「お師匠さんは滅茶苦茶強いんだ!」
小太朗は、グッと胸をそらす。
「俺は兄者を倒して、天下無双になる。」
侍は肩をすくめる。
「天下無双の称号があれば、我らの一門末代まで安泰だ。」
「さっきも言った。称号なんてくれてやる。」
「兄者がそんなだから、親父もお袋も苦労してるんだ。大人しく家に帰って仕官しろ。」
「それは出来ない相談だ。お前が代わりに家を継げ。」
「そのためには、兄者を倒さねばならん。」
「もっと修行してこい。」
「くそっ。」
あっけに取られている小太朗と桜。
その様子に気がついた鍋蔵は二人に説明する。
「コイツは俺の弟の武虎だ。見ての通り滅茶苦茶強い。俺はコイツに家のことを任せて飛び出してきたんだ。」
侍は武虎を鍋の前に座らせる。
「お前も食え。」
言いながらお椀を渡す。
小太朗は恐る恐るお椀に汁を注ぐ。
桜は小太刀に手を伸ばしたまま、その様子を見ている。
「畜生、美味えじゃねえか。」
武虎は一気に平らげる。
空いたお椀に小太朗は再び汁を注ぐ。
「全く料理の腕を上げやがって。」
武虎は次も一気に平らげ、小太朗に向けてお椀を突き出す。
「三杯目はそっと出すもんだろ。」
侍の手が武虎の頭を叩く。
その様子を見て桜は、小太刀からやっと手を離した。
「ご馳走様でした。」
食後にしっかりと手を合わせる武虎。
こんなところは兄弟だと小太朗は思う。
「俺は武者修行だ。次は俺が勝つ。」
言いながら武虎は背を向ける。
その背中を見ながら、侍がかすかに笑っているのに、桜は気がついていた。




