軍鶏鍋。
小太朗と桜は早い時間に宿を出たようだ。
宿屋の部屋が広く感じる。
侍は傷の具合を確かめる。
痛みもだいぶ引いている。
そろそろ体を動かさないと鈍ってしまいそうだ。
襖が開き、女中が顔を出す。
「あら、起きたんですね。ご飯にします?」
侍は無言で頷く。
女中が準備のために台所へ向かうと、侍は部屋の片付けを始めた。
三人旅には少ない荷物。
これからの旅には色々と買い足さなければいけない。
そんなことを考えていると、女中が朝飯を運んできた。
麦飯と味噌汁に漬物の質素な飯。
味噌の香りが、侍の目を覚ます。
女中は食後のお茶を啜る侍に話しかける。
「坊ちゃん達が、読み書きを習うのに必要なものを買いに行くって言ってましたよ。」
侍は、意外に思う。
「…そうか。」
侍の口から出たのは、短い言葉だけだった。
屋台を閉めてから数日が経った。
路銀を確保できたので、二人はそれを有効に使うことに決めたようだ。
女中が出て行った後、侍は身支度を整える。
少し散歩でもしてみるか。
外は相変わらず賑やかで、様々な人々が行き交っている。
味噌の焼ける匂いにふと足を止めた侍は、元祖!屋台に気がついた。
行列ができている。繁盛しているようだ。若い男が、しっかり元を取ろうと商売熱心に大声を張り上げている。
その様子を見ながら腕を組んでいた侍に、声をかけたのは小太朗。
「お師匠さん、もう動いて大丈夫なんですか?」
見れば、小太朗と桜は両手に荷物を抱えている。
侍は無言で頷く。
「若くないんだから、無理しないでよね。」
小太朗は元祖!屋台に気がつき、ムッとしたように頬を膨らませる。
「僕が2度焼きを考えたのに…。」
「どうせ人真似だから、長くは続かないわよ。」
桜は小太朗の前だから落ち着いて言葉にしたが、内心穏やかではないようだ。着物の袖を握りしめている。
「お買い物で疲れちゃった。どこかで一休みしようよ。」
桜は気分を変えるように言う。
侍は頷き、小太朗を促す。
三人は街を散策し、軍鶏鍋の看板の前で足を止める。
店に入ると、雲海がいた。
三人を手招きする。
「お主どこにでもいるな。」
侍が口を開く。
「この街は俺の庭だ。それより軍鶏鍋一緒に食べよう。」
雲海は大声で追加分の注文をする。
四人は言葉少なく、鍋を見つめる。
「よし、頃合いだ。」
雲海が蓋を開ける。
鍋の蓋をずらした瞬間、ふわりと湯気が立ち上る。
濃い醤油の香りに、甘く溶けた脂の匂いが重なり、鼻の奥をじわりと刺激した。
思わず喉が鳴る。
鍋の中では、軍鶏の肉がゆっくりと煮えている。
締まった身は崩れず、噛みごたえを残したまま、出汁の色をしっかりとまとっていた。
桜は箸でひと切れ持ち上げる。
照りのある肉から、じわりと脂が滴る。
口に運ぶ。
…硬い。桜はゆっくりと噛み締める。
桜の目に涙が浮かぶ。
「やっぱり屋台の事は、悔しい…。」
「もう、済んだことだ。」
侍が答える。
四人は無言で箸を進める。
噛めば噛むほど、濃い旨味が滲み出す。
鶏とは思えぬ力強い味が、舌の上で広がった。
小太朗は無言でお椀を見つめる。
そして、飯をかき込む。
熱い麦飯が、鍋の旨味を受け止めてくれる。
鍋に戻る。
今度は葱。
くったりと煮えた長葱は、とろりと甘い。
軍鶏の脂を吸い、口の中でほどける。
そこへ、山椒をひと振り。
香りが立つ。
再び肉を口へ。
小太朗の目にも涙が。
「お師匠さん、僕は助けてもらわなくてもいいようになる。」
絞り出すように言葉を出す。
…山椒の辛味と香りが、濃厚な旨味を一気に引き締めた。
侍は三人を見渡し口を開く。
「そろそろ、旅に戻ろうと思う。」
四人の間に沈黙が流れる。
それぞれの想いを、鍋の残り香が包む。
侍は空になった鍋に目を落とし、唇を噛み締める。
手の届かなかった鍋の記憶が、胸の奥で静かに燻っていた。
桜は鍋から目を上げる。
「私は、悔しい思いをしなくていいように、もっと強くなる。」
雲海が湯呑みを持ち直しながら喋る。
「わしも旅に出る。見ておかねばならん事があるようだ。」
空っぽの鍋を囲み、それぞれの夜が更けていった。




