ランドセルを買える
小さな子どもにとって、ただ乗り物に乗っているだけの時間というのは退屈なものである。特に高速道路に乗っているバスの中というのは、窓の外も単調な景色が流れていくだけで、信号で止まるようなイベントすらない。朝方で元気だけは有り余っているのにそれを発散する方法がない子どもたちは、とにかく話し続けることでしか欲求不満を解消できないのである。現に壮士と文弥は過去の『こどもの家』での体験について話し続け、壮士の班の他の子たちはそれに聞き入っている。だがそれに目を輝かせず、あくまで観察者を貫いている例外もいる。
「ごめんね凛ちゃん、外の景色見える? さっきなんとなく窓側に座っちゃって……トイレ休憩のあと、席交換する?」
「大丈夫大丈夫! 外の景色見にくかったら退屈でしょ、全然私は気にしないから!」
だが実は、小夜はほとんど窓の外を見ていない。そもそも小夜にはある種の特殊な経験があって、バスの中というのは外の景色を見て楽しんでよいほど気が抜ける場所ではないと考えている。凛も広い意味ではそうであるが、しかし小夜は自分は普通にやればどこかで失敗することになるという危機感があるから、さらに緊張しているのである。小夜としては、とにかくこの遠足を自分が無事に幼稚園の一員として認められるための試金石と考えているのである。
そうは言っても、小夜はあくまで自分がこの場でなんとかうまくやるためのマニュアルを必死に詰めてきただけであり、班員についてまで知っているわけではない。
「そういえば、凛ちゃんはそろそろランドセルを買ったりしてるの?」
小夜のこの質問に、凛は固まってしまった。意表を突かれたのもあるが、それよりもむしろ、凛は「ランドセルを買う」という行為ができなかったからである。凛は自分の呼吸が急に速くなるのを感じた。小夜は『プレ』の子である、凛のランドセルに関する複雑な境遇について知っているはずがない。そもそもランドセルのことについては、凛も壮士と文弥にしか話していないのだ。
「まだ買ってないよ。たぶんもう少ししたら、買ってくれるんじゃないかな」
凛はそうお茶を濁した。これは凛がいつもすることにしている説明である。こう言っておけば、まず怪しまれることはない。
「そうなんだ。……でも、ランドセルを買うことって、すごいことなんだよね。小学校に行けることが決まったようなものだから。お兄ちゃんがランドセルを買ったとき、パパもママも『この子にランドセルを買えるなんて!』と喜んでたよ」
凛はその無邪気な小夜の返答に、背筋が凍る思いがした。そして「お兄ちゃん」のワードをよく咀嚼して、こわごわと窓の外を見た。彼らの後方から来ているはずの別のバスには、小夜の名字から想像される、例の「お兄ちゃん」が乗っているということに思い至ったからである。凛は直前に小夜にある種のシンパシーを感じてしまったことを後悔し始めていた。結局、凛を理解する人なんているはずがないのだ。「小学校に入る」なんてことは、やはりほとんどの子たちにとっては当たり前のことで、おそらく小夜でさえ、本当に「小学校に行けないかもしれない」とは思っていないのだろう。
だが凛は小夜にそのような屈折した感情を抱きつつも、小夜をひとりの小さな仲間として愛し始めていた。それは小夜の様子に、凛は自分の以前の姿を重ね合わせていたからであった。すべてのことが混乱を巻き起こすという印象の中で、なんとか正常であろうとする試みを、小夜が小さな体で必死に進めようとしていることを感じ取ったのである。
だから凛は一旦自分のことは忘れて、小夜としばらく雑談でもしていようと思ったのだが、そこで凛は後方での会話に耳が留まってしまったのだった。
「さてと祐飛くん、『あすなろ先生』がこっちのバスに乗っていることからして、やはり狙われているようね」
「思った通りだ。今年は『移行』される子がいるから、そっちから来た先生に向こうのバスの対応を任せられるというわけなんだろう。そして、見た感じ、明らかにこっちのバスに『登録』の可能性が高いが、まだ確定ではない子たちが集められている……汐音ちゃん、君の狙いはわかっている。すべてがうまくいけば、明日の朝には『登録』が確定するはずだ。そして僕の狙いもよろしく頼むよ」
「わかってる。とにかく目立たず、ひたすら『できないこと』を明らかにし続ければいいんだから……そして、今回までしか使えない手だけど、『幽霊』は万能だからね」
「はは、巻き込まれるんじゃないぞ? 実はちょっと怖がってるんだろ」
「仕方ないじゃん。最後の仕上げは、私たちがやることになってるんだから」
凛はもう小夜と話すどころではなかった。明らかに『幽霊』が何か大変なことに扱われようとしているという危機感が生じてきたのだった。だが後方の会話だけでは、いったい何が行われようとしているのかまでは思い至らなかった。それが凛の限界であったのだが、しかし祐飛と汐音は完璧に計画を進めつつあった。




