第六話
「な、なにこれ?」
「ごめん。アルズ、一旦村に戻ってて」
エリスは振り向かない。
歪な獣はふらふらとしていた。
「で、でも」
「私は余裕だから」
「こんな時に嘘つかないでよ!」
「いやいや、本当だってば。こんなにも誠実なのに、どれだけ信用がないんだか……」
どの口が、と思った。
エリスと話していると余裕が湧いてくる。
エリスなら大丈夫だと思えてしまった。
「わかったよ。今回は信じる。もし、帰ってこなかったらやっぱり嘘つきってことで縁切るから」
「ぷっ!何それ、女々しいっ!」
エリスはケラケラと笑った。
「う、うるさい!」
「ほらほら、さっさと行って」
「うん。じゃあ、後で!」
メラメラと燃える音と、獣の歪な鳴き声が響き渡った。
背を向け、走る。
エリスを残し、僕は一人で村へ戻っていた。
茂みを掻き分け、進んでいた時だった。
ガサガサ……。
茂みが揺れた。
何か……いる?
トクントクントクン……。
茂みを掻き分ける。
そこにはいた。
少年が。
ほっ……。
「村の話は聞いてる?ここにいたら危ないよ」
「ご、ごめんなさい……」
少年は震えていた。
「どうしても悲しそうなお母さんにお花をあげたくて……」
「そっか。それはまた今度じゃないと駄目かな?」
「……」
目が合った。
やがて、少年は躊躇うように口を開く。
「お父さん……森の王に食べられちゃったんだ」
少年の目は潤んでいた。
ガザガザガザッ!
突如、茂みが揺れた。
木の枝が折れる。
鳥が羽を散らして空へ舞う。
その音と、匂いを僕は知っている。
「急いで村に戻ろう」
「え?」
「お花はその後、探そう」
少年の手を取ったその時。
バキバキバキッ!
一足遅かった。
出てきてしまった。
それは、子分の一匹だった。
口からは、つぅっと何かの赤い液体が滴っている。
「逃げてッ!」
「え、あっ……」
少年は腰が抜けていた。
まずは気を引く。
落ちていた石を投げつけた。
偶然それが真っ赤な一つ目に当たった。
「ぎゃあああああああッ!」
ゾッと寒気がした。
その悲鳴は人間の子どもみたいだった。
少年の身体は震えていた。
何度立ち上がろうとしても、足がもつれてしまう。
「大丈夫?」
「あ、ああ、その……」
すぐには動けそうにもない。
僕は少年に微笑んだ。
「大丈夫。僕、英雄リヴィエラの弟だから」
一つ目の獣は僕へ迫ってきた。
咄嗟に避けたが、その爪が頭を掠った。
たらたらと血が流れてくる。
近くにあった木の枝を手に取る。
それを獣めがけて振り下ろす。
爪で弾かれた。
次の瞬間、その爪が腹を掠めた。
腹部に鈍い痛みが走る。
服越しに腹のあたりが赤く染まっていた。
怖い。
痛い。
でも、両方ともすでに知ってる。
失望される怖さも。
負けて、怪我する痛みも。
「……大丈夫。もう、慣れてる」
傷口をギュッと押さえる。
いつもよりも、ちょっと痛い。
それだけだ。
歪な獣は目の前で口を開けた。
避けようとする。
痛みで動きが鈍ってしまった。
もう、間に合わない。
背後から、少年のすすり泣く声が聞こえる。
僕が倒れたら、この子が食べられる。
「間に合わなかった」じゃ済ませられない。
それだけはさせない。
まだ一つだけある。
試せることが。
それは一度だってまともに使えなかった。
それでも、あの子を守るために他にできることがない。
だったら——。
ぽたっ……。
真っ赤な血が宝石に垂れる。
その石をギュッと握る。
***
——「どうよ、アルズ!この水魔法は?」
昔、お姉ちゃんが僕のために丸い水魔法を頭上に作っていた。
お姉ちゃんは得意げに見せているうちに扱いを間違え、僕たちの頭上で崩した。
僕たちは水浸しになって、ぽかんとした後、笑っていた。
たしか、その水魔法の名前は……。
***
——「……アメシズク」
それは、小さくて、丸い水の塊。
僕の頭上にできていた。
首元の宝石が僅かに発光して見えた。
獣が襲ってくる。
薄れる意識。
鼻を掠める薬品の匂い。
これをぶつけたって、大したことにはならない。
それでも、やれることはやるべきだ。
真っ赤な口が眼前に迫った。
アメシズクが崩れる。
水滴が空へ弾け、ガラス細工のように輝く。
一瞬だけ、水滴が触れた場所が白く見えた。




