願い
やがて、躊躇うようにして犬は口を開いた。
「……人体実験のためでした」
「人体実験……?」
その言葉の意味を知っているのに、すぐには理解できなかった。
「殺虫スプレー、ご存じですか」
人体実験。
殺虫スプレー。
僕の理解が進むより先に犬は話す。
「殺虫スプレーには人体へ重大な影響を及ぼす薬品が含まれていました。その成分を、我が主の両親は……」
ここまで話すと、犬は言葉に詰まった。
その沈黙の間に、僕も言葉の意味を理解した。
犬を見ると鼻息は荒く、奥歯を強く噛み締めていた。
まるで、自分の心を痛めつけているみたいだった。
その姿が、昔の僕と重なった。
放ってはおけない。
「もう言わなくても大丈夫ですよ。ねえ、エリス」
エリスはにこっと微笑んだ。
「あなたの名前は?」
犬に手を差し出した。
犬の手は震えていて、僕の手を取ろうとしても引っこめてしまう。
「……」
犬の瞳は迷って揺れていた。
その瞳に、僕も笑顔を向けた。
お姉ちゃんは、こうやって困っていたら笑顔で引き受けただろうから。
犬の瞳に艶が浮かぶ。
小刻みに震える口を動かす。
「わ、私の名前は……ワン、です。どうか、我が主を助けてください」
そう言い終えると、ワンはその場に倒れ込んだ。
けれど、その表情は安心して眠るようだった。
ワンが穏やかな寝息を立て始めた。
部屋には静かな時間だけが流れていた。
窓から差す月明かりが、やんわりと部屋を満たしていた。
エリスは眠るワンを眺めていた。
「ね、アルズ」
エリスはそっと囁いた。
「ん?」
「私。アルズと冒険できてよかったって思えるよ」
どうして急にそんなことを?
そう聞こうとした時だった。
エリスは二階の窓から半身を乗り出していた。
蒼白の月明かりがエリスの身体に触れていた。
——青い宝石が一瞬だけ輝く。
このまま落ちてしまいそうだった。
僕は、気がついたらエリスへ手を伸ばしていた。
「アルズ?」
「え、あれ?」
自分でも、どうしてやったのかわからない。
でも、身体が勝手に動いていた。
「私、こんな高さから降りても死なないからね?何せ、私は伝説の……」
手を伸ばした自分が恥ずかしいと思った。
「ま、でも心配してくれるのは嬉しいよ。ありがとう」
エリスは身体を起こした。
手を伸ばしてよかった。
月明かりの中で笑うエリスを見ていると、そう思えた。
「大丈夫だよ。エリスにはいっつも助けられてるから。ワンが目を覚ますまで、ゆっくりしとこう」
「もっと感謝してもいいんだよ?」
「はいはい」
数時間後。
ワンが眠りから目を覚ました。
「あ、起きましたね」
「お、おや……私、眠って……」
ワンは目を擦った。
「おはよう!改めて、私はエリス。龍だよ」
「左様ですか」
軽く受け流されていた。
僕はワンに白湯を出した。
ワンはゆっくりと飲み干した。
震える身体が落ち着いたところで僕は質問した。
「よくネロが人体実験をしてるってわかりましたね」
「はい。ここ三日三晩、寝ずにネロの住処を調べ、潜入いたしましたので」
「その時に、追手に捕まった訳だね」
エリスが聞くとワンは頷いた。
大きな耳が深く垂れ下がり、負い目を感じているようだった。
「ありがとうございます。僕たちだけじゃ、そこまで辿り着けませんでした」
ワンは困ったように笑った。
「でも、どうしてそこまで危険なことを?」
「……」
ワンは黙って、真正面を見つめた。
その瞳は静かに揺れていて、葛藤しているようだった。
「本音で言えばワンはこの手でネロを殺したいのです……。ですが、殺して我が主の両親の元へは行って欲しくありません」
ワンは結ばれていたネクタイを、さらにきつく締めた。
「ですから、人体実験場を白日の下に晒すのです」
ワンの瞳は薄暗い影の中で、冷酷な光を放っていた。
「わかりました。僕たちも協力します」
僕がそう言うと、エリスが横に座ってきた。
「それだけだったら、今度はワンが捕まるだけじゃないの?」
「無論、そこは問題ありません。不幸なことではありますが、彼の手により犠牲になった数多くの方々がそこに眠っております……。彼らが、数多くの人の目に触れることで、隠蔽を許さず、証明してくれるはずです」
「随分と人間を信じるんだね。人はお金で人を殺す生き物だよ?」
「おっしゃるとおりです。ですが……」
ワンは僕とエリスを真っすぐに見つめる。
その瞳は、輝いていた。
「困っている誰かへ手を差し伸べる人もいます。私は、そんな人がいることを信じていたいのです」
「つまり、願望混じりってことだね」
「エリス」
僕はエリスを止めようとした。
だが、僕の心配は不要だった。
「いいね!願い。私、そういう考え、大好きだ」
僕は再びワンの方を見た。
「このまま向かっても返り討ちですよね」
「なので情報が欲しいのです。特にネロの実験施設についてもっと知りたいのですが……」
ワンは言葉を切り、俯いた。
僕もワンの言葉を反芻した。
実験施設。
それを知る場所……。
「あ……」
ふと、ひとつの場所を思い出した。
それは、僕たちが同じように調べ物をしに行った場所。
物知りな少年と、変わった猫の店主がいるところ。
古書店だ。
「それなら、僕がおすすめの場所を知ってます」
「ほ、本当ですか?」
「はい。明日の朝、僕たちが案内します」




