誘拐事件
揺れている木々を見ていた。
風は吹いていないのにそこだけが、静かに揺れていた。
「何かって?」
「さあ、わからない。あ!もしかしたら、キリが謝りにきたんじゃない?」
「そんなわけ……」
エリスに突っ込みを入れようとした時だった。
その木々を掻き分けるようにして出てきた。
四足歩行。
垂れた耳につぶらな瞳。
犬だった。
「え、あ。なんか思ってたのと違う」
エリスがそう言った。
「あの犬、ちょっとやつれてない?」
木々から出てきた犬の毛はボサボサだった。
「そうだね。あ、動いた動いた……立ったよアルズ」
「うん。立ったね。二足歩行で」
「あっ。見てみて。犬がネクタイしたよ」
「うん。なんか櫛で毛を整え出したね」
僕はエリスを見たが、一切、疑問や不思議がる様子はない。
だから僕も、犬は二足歩行で歩いてネクタイを着けると思うことにした。
——カサカサカサ……
今度は、犬の背後の真っ暗な茂みが揺れる。
犬はその音に怯え、逃げようとしていた。
「エリス!」
「わかってるよ」
僕たちは犬の元に駆けた。
「ワ、ワンッ!?」
犬は驚いたように吠えた。
「大丈夫。ちょっと後ろのやつ、殺すだけだから」
エリスは青い炎の玉を手に出すと、茂みに投げつけた。
「キュギャァァァッ!!」
虫の鳴き声と、人の悲鳴が入り混じったような鳴き声が響き渡った。
「念の為だよ。ちょっとこっちにおいで」
エリスはじたばたする犬を無理やり翼で包み込むと、僕たちの泊まっている安宿へ連れた。
いつも二人の安宿に犬が一匹増えた。
「エリス……」
「うん。もう大丈夫!」
「エリス。さっきのは何だったの?」
「さあ。でも、この犬が狙われてたっぽいね」
犬の全身には傷があった。
さっきの何かに追われている間についたものだろうか。
犬は僕たちを見ると、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
犬が僕たちに向かって喋った。
「え、犬って喋れるの?」
「ええ。話せますけど……」
犬は当然のようにそう告げた。
「それよりも、先ほどは助けていただき、ありがとうございました」
「どうして病院の近くにいたの?」
エリスが問いかけると、犬は顔を伏せて黙ってしまった。
「話せないなら大丈夫ですよ」
僕はそう言った。
犬は黙ったまま立っていた。
やがて犬は、僕たちを一瞥すると、緊張した息を吐くように口を開く。
「……ワンはあの病院に入院している主へ会いにきたのです」
外の闇に溶けてしまいそうな声だった。
「そんなに傷だらけで?」
エリスのうっすらと光る目は犬を捉えていた。
犬は目を泳がせ、戸惑っていた。
言えない事があるのだと僕は思った。
「僕たちが何か力になれることは?」
僕が聞くと、犬の呼吸が乱れ、瞳孔が大きく開いた。
「大丈夫だよ。こう見えても私、全能の龍だから。アルズもそう言ってるから話してよ」
「で、ですが……」
僕は、その犬の頭を撫でた。
「遠慮はしなくてもいいですよ」
しばらく頭を撫でていると、犬の荒かった呼吸は落ち着き、見開いていた瞳も穏やかさを取り戻した。
犬が落ち着きを取り戻すと、僕たちの周囲を鼻で嗅ぎ、僕とエリスの身体を見渡した。
「……あなた方になら話してもいいですね」
「何をですか?」
僕がそう聞くと犬は深呼吸をした。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
犬はゆっくりと口を動かした。
「我が主とそのご家族は誘拐に遭いました……」
それは、この前、僕たちが耳にした事件と同じだった。
犬は強張った声のまま続ける。
「主は逃げ出し、一命を取り留めました。ですが、ご両親は誘拐犯の手によって……」
犬は足元の床をギリギリと鳴らし、震える息を吐いた。
僕は次に話す言葉が想像できてしまった。
嫌な鼓動の高鳴り。
身体の熱が冷める感覚。
やがて犬は静かに告げる。
——「亡くなりました」
身構えていても、気持ちが乱れてしまう。
これを話してくれる犬の事を考えると、もっと胸が詰まる思いがした。
僕は、何も返事ができなかった。
夜の闇が、すっかりと光を包み込んでしまった。
小さな虫の羽音が、外から微かに聞こえていた。
「ワンは主のご両親との約束を果たすため突き止めたのです」
そう告げる犬の毛は逆立ち、瞳がうっすらと輝いていた。
「犯人を」
犬歯を剥き出しにする犬を前に僕は椅子から起き上がった。
「なら、話は早いね。実は僕、ルーチェさんと知り合いなんだ」
「……」
犬は俯くと黙り込んでしまった。
ふと覗いて見えた首筋のあたりには、虫の噛み傷のようなものがあった。
僕は安易に発言してしまったと気が付いた。
犯人を突き止めたのに、冒険者へ助けを求めていない。
これだけ話題になっている事件の真相に近づいたのに、国王にすら告げていない。
違う。
告げられない理由がある。
「まさか……」
糸目の男の言葉。
エリスが感じていた黒い靄。
病院。
誘拐事件。
「ネロ……」
僕は脳内に浮かび上がった人物の名を口にしていた。
すると、犬は驚いたように顔を上げた。
光を受けたその顔は、感情と疲労の波に攫われ、ひどくやつれていた。
「ど、どうしてそれを」
「これだけ話題になっている事件なのに、冒険者や国に告げないってことは、言えない程の権力者だからですよね?」
僕が指摘すると、犬は観念するように小さな声で語る。
「ご名答でございます……。ネロは、人を攫っておりました。ですが、私一人で乗り込んだ結果、この有様です」
「へえ……。やっぱりネロなのは間違いなかったんだね」
エリスが納得するように頷いた。
「でも、どうしてネロは人を攫ったりしてたんですか?」
僕がそう聞くと犬はまた黙ってしまった。




