3-2
大盛り上がりとなった体育祭はやり切った疲弊を残して無事終わった。6月も過ぎ、7月の期末テストも済むと夏休みに入る。
将次郎は追い込みの時期に突入して、毎日塾と家の往復。たまに実弦と一緒に家や図書館で勉強することがあったが、ほぼ一日中学習机に向かっていた。
実弦はデザイン系の専門学校を受験する予定なので、将次郎ほどではなかったが、今年の夏はどこにも行かず勉強に力を入れていた。
志乃はバイトに明け暮れていた。父との約束を守れず自費でベースを買うことにしたので、今までの飲食店だけでなく、夏休み限定の短期バイトも入れた。この夏を乗り切れば憧れているベースが手に入る計算になる。因みに髪は長いままで切っていない。父はそれを喜んでいたが、志乃は単に切るのがめんどくさかっただけで毎日ひとつ結びにして放置していた。
夏休み最終週、いつもなら4人集まって勉強会をやるところだが、3年生には夏休みの宿題がほとんど出なかったので、勉強会もなしになった。しかし「暇だからうちに来いよ」と一樹に呼び出され、志乃は彼の家に行った。短期のバイトが終わり、いつもの飲食店のバイトもない、熱暑が纏わりつく午後のことだった。
「あれ?あいつらは?」志乃は一樹の家のクーラーが効いたリビングに上がると尋ねた。一樹が他の2人を読んでいると思っていたが、姿がなかった。
「あいつらツレないんだもん」一樹はヘラっと笑って嘘をついた。「勉強組は忙しいんだって。俺らで遊ぼうぜ」
「ふ~ん」やっぱり進学組は忙しいんだな。
家には菜々美もいたので、彼女の宿題を手伝ったり一緒にゲームしたりして過ごした。外が暗くなると、家の前に出て手持ち花火もした。そのうち一樹の母が仕事から帰ってきたので、志乃はじゃあそろそろ帰るわと一樹の家を出た。
「送るよ」一樹も家を出た。
「は?」志乃は驚く。「いいよ別に。すぐそこだし……。てかなに?」怪しげに見上げる。
「なにが?」首を傾げて志乃を見降ろす。
「あたしを送ったことなんて一度もないじゃん」
「あるだろ。1回くらいは」
「ねえよ」
一樹は気まずそうに耳を掻いた。「まぁ、いいからいいから」と志乃の背を押す。「俺も歩きたい気分だし」
「はぁ?」志乃は押されて歩き出した。「なに?なんかあったの?お母さんとケンカでもしてる?」
「してねーけど?」眉をしかめる。「そんなに変?」
「うん」なんだコイツ。いつもの一樹なのになんだか違う。というより、去年からおかしい。食べ物をくれたり鞄を持ってくれたりするし、イジるような発言もしない。それに今日は一段と変だった。何が変かは言葉にできないけど、とにかく変だった。
「別に何ともねーよ」一樹は中身なくハハと笑った。
それから2人は静かな住宅街の中を歩いた。開けた夜空には雲一つなく、家々と外套の明かりが道を照らしている。2人がダラダラと歩くサンダルの音だけが聞こえた。蒸し暑い気温のせいでうっすらと汗がにじみ、志乃は2人の間に感じる異様な空気とともに何度も鼻の下を拭った。Tシャツの首元をパタパタさせたりして手を忙しなく動かす。
一樹は無意味にポケットに手を突っ込んだり、凝りをほぐすように首をちょっと捻ったりしていた。
「志乃はもう就職きめてんの?」とつぜん一樹はボソッと聞いた。
「いや」話し出してくれて助かった。「そっちは?」一樹を見上げる。
「まったく」ふうとため息をついて暑そうに髪をかき上げた。まだ落ち着かないように見える。
「なんかやりたいことないの?」一樹なら何をやっても上手くいくはず。
「なーんも」つまらなさそうに答える。「将みたいに頭がいいわけでもないし、実弦みたいに才能を持ってるわけでもないし。俺には特技も取り柄も中身もないからさ」乾いた笑い。
「そんなことないだろ」すぐ否定した。ふざけてるわけじゃない一樹の自虐に志乃は内心驚いた。こんな風に弱気になる事は滅多にない。
「あんた何でもできんじゃん」
「うーん…」一樹は否定しなかった。「なんか…。どれも真剣になれなくてさ」
「そっか…」志乃は眉を寄せる。「まぁ…。人付き合いできるから、どこ行っても大丈夫だと思うけどね?」
「そうかなぁー」不服そうに唸る。「志乃はなんかやりたいことあんの?」
「いや…。ないけど」
「ベースは?」
志乃は首を振った。「ベースだけじゃ生きていけないだろ。上手い奴なんていくらでもいる」
一樹は少し寂しく思った。志乃のベースを弾いている姿が好きだった。これからはそれも減るのか。志乃がプロになりたいと言ったことはないけど、上達するために何時間も真面目にベースに向き合ってた。その気持ちに軽々しさは微塵もなかったはず。少なくとも一樹にはそう見えていた。
「なんかそこまで頑張れそうにもないし」志乃はため息交じりで言った。「もう…。別に生きていければそれでいいかなって。それなりに働いて、それなりにベース弾けてたらいいかなって」
「そっか…」
「あんたもそこまで固く考えなくていいんじゃない?人生賭けるくらいの勢いじゃなくて、仕事辞めるために就職するくらいでさ。会社にとっちゃ迷惑だろうけど、正直大抵の人がそうだろうし」
「あぁ…。なんか言えてる」腑に落ちるものがあった。「俺らみたいなのはそんな感じで生きるほうが合ってるのかもな…。てかお前、たまに現実的なのか変なのか分かんない」
「はぁ?」志乃は一樹を睨む。「なにそれ。せっかく真面目に話してやったのに」
一樹はふふっと笑った。「ま、志乃だもんな」
「ほんと、なに言ってんの?」変になったりいつも通りになったりしているのはそっちだろと言いたくなった。
不意にまた2人の間に沈黙がやってきた。今度の沈黙は先ほどより楽だった。友達の間で会話が止まっても苦にならないタイプのもの。
志乃の家まであと少し、角を曲がれば見えてくるという所で突然、一樹のサンダルの音が止んだ。
「俺たち付き合わない?」
「は?」志乃も立ち止まる。聞き間違えかと振り返る。「なんて?」
「だから…」一樹は恥ずかしそうに耳を掻いた。「付き合わないかって」
「どこに?」
あぁもうと肩を落とす。「そういう意味じゃなくて!彼氏彼女として付き合わないかってこと!」
「え?」志乃は顔を引きつらせた。「なんの冗談?」
「冗談じゃねーよ」一樹は志乃をまっすぐに見つめる。「本気で言ってんの。俺の彼女になってよ」
志乃は両手をギュッと握った。一樹の表情を見れば冗談ではないことが分かる。でもどうしても信じられなかった。冗談であって欲しいと願う気持ちすらあった。
「マジで言ってんの?」声が高くなる。「付き合ってって…。え?あたしとあんたが?」
「そう」一樹は恥ずかしさをその顔に示した。
「そんな…。え?罰ゲームとかじゃなくて?本気で言ってんの?あたしのこと好きだってこと?女として?」混乱して矢継ぎ早に尋ねる。
「そうだよ」言わなきゃよかったと少し後悔を声に滲ませた。「マジで言ってる」
三度目の沈黙。やけに大きな波の音が聞こえてきた。
それが自分の呼吸の音だと気付いた志乃は魚のように口をパクパクさせる。「だって…。そんなの…。あんた、前に好きな人とかいないって言ってなかった?」
「あんなの嘘だよ」志乃が動揺しているのを見て、一樹は一歩近づいた。「俺は小学生の時からお前が好きだった」
志乃は息を止めて固まった。心臓の打つ音が響き渡る。目の前にいる一樹は幼稚園の頃から見てきた一樹だった。でも全くの別人にも見えた。一樹の皮を被った誰か。
空気を求めて息を吸う。将次郎のときにも似たような感覚を覚えた。本当に、本当にあたしたち変わっちゃったんだ…。
「なに言ってんの…?」ひ弱な声で志乃は尋ねる。
「いいから答えろよ」痺れを切らして一樹はまた近づいた。「俺のこと、男として見れない?」
ゆっくりと体を後ろに引きながら、志乃は井浦の言葉を思い出していた。『男女の友情なんて成立しないよ」
耳元でバラバラと何かが崩壊する音が聞こえた。今まで固い石だと思って積み上げてきたものは、中身のない段ボールのように軽く薄いものだったんだ。
「なんで…」喉が締め付けられ、上手く言葉が出ない。
「なに?」一樹は耳を傾ける。
「なんで…?」眼球が小刻みに揺れている様に視界が歪んできた。「あ…。無理だよ…」
「どうして無理なんだよ」一樹の表情は硬くなった。
「だって…。友達だったじゃん。ずっと…。それじゃダメなの?」
「友達でよかったらこんなこと言ってないだろ」少し怒ったように言う。
「ずっとそう思ってあたしと接してたの?」声が震えてくる。
「そうだよ。なんで断るんだよ。何が理由?」一樹は眉間にシワを寄せた。
「あんた…。あたしのこと、好きじゃないじゃん」志乃も不快感がこみ上げてくる。
「は?」
「いっつも、いっつも、あたしのことからかってたじゃん!」口調を強める。「それで好きとか可笑しくない?」
「そんなことしてねーよ」売り言葉に買い言葉。つい言い返した。
「からかってた!イジってバカにしてた!」
「それは!仕方ないっていうか、」心当たりがあったので動揺する。「ついそうなっちまって、」
「はぁ?」志乃は怒鳴った。「ふざけんなよ。今まで散々言ってきたくせに今さら。そんなん好きでもなんでもないじゃんか」
「俺の気持ち勝手に決めんなよ!」小学生の時から抱いていた大切な気持ちを否定され腹が立った。
「あたしの気持ちはどうでもいいのかよ!」志乃は目を赤くさせる。「あたしのこと、ブスだって言ったくせに」
「言ってねーよ!」一樹は面食らった。「俺がいつそんなこと言った?」
「小学生のとき!それで小学生の時から好きだったとか、ふざけてんだろ。なに考えてんの?」
「言ってない」全く身に覚えがなかった。「俺は顔だけでお前を好きになったわけじゃないし。それに例え言ってたとしても、そんな昔の話…。いつまで引きずってんだよ」
志乃は大木で殴られたようにショックを受けた。今の志乃だけでなく、小学生の時の小さな志乃まで一緒に傷ついた。2度も同じ相手から。
一樹は彼女の表情を見て、しまったと自覚した。昔の俺は本当にそう言ったんだ。それから今も志乃の気持ちを無視している。
「いや、その…」慌てて弁明の言葉を探すが、今さら繕えるものでもなかった。
「あたしはずっと引きずってんだよ!」志乃は叫んだ。嫌でも目に涙がにじむ。「あんた頭おかしいんじゃない!?ずっとイジってた相手に告って上手くいくとか、どうやったらそう思うわけ!?」
「小学生のガキが言うことになんてなんの意味もないだろ!」自分の全てを否定された気分になり、一樹は荒く言い返すことしかできなかった。
「違うだろ」いま小学生の一樹を責めてるわけじゃない。「マジでなんも分かってない」
「なんだよ。じゃあ分かるように言ってみろよ」
「そんな風に言ってるうちは尚更ムリ。マジで、ジョージと付き合ったほうがマシだわ」
雷のような衝撃が一樹を貫いた。自分の中にある大きな幹が真っ二つに裂ける感覚。分かってる。将次郎の方がいいのは分かってる。分かってるから余計に腹が立つ。
「あぁ。そうかよ」裂けた傷口からメラメラと炎が噴き出てくる。「じゃあ将次郎と付き合えばいいじゃん。優しくて真面目な将次郎くんと!お前と付き合うとか、俺がどうかしてたわ」
志乃は奥歯を噛みしめた。将次郎の名前を出すと一樹が怒ると分かっていた。傷つけたくなかったけど、どうしてもやり返さずにはいられなかった。
「一人で帰れよ」一樹は背を向けて歩き出した。
志乃も背を向けて歩く。家まで数メートル。ひとつになったサンダルの音が響く中、志乃の歩く道には雨が降っていた。




