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6月が終わり、7月に入ると期末テストが行われた。将次郎、一樹、実弦の3人は変わらずの出来だったが、志乃は気の緩みが入った。2教科ほど赤点を取ってしまい、夏休みの補習に呼ばれる。
志乃は大学に進学するつもりがなく、補習も受ける気がない。だが母親にこっぴどく叱られたので、補習に参加することになった。
7月下旬の夏休み。うだるような猛暑の中、午前中の2,3時間を使って補習は行われた。1階にある自分のクラスで補習を受けた志乃は、帰ろうと教室を出て廊下を歩いていた。そこに2階から降りてきた袴姿の将次郎と鉢合わせた。
「おう」将次郎は首にタオルをかけており、額や首に大量の汗をかいていた。
「よう」志乃は眉をしかめる。「うわぁ。暑そうだな」
「あぁ。クソ暑いよ」タオルで汗を拭う。「補習か?」
「うん。そっちは?」
「倉庫の鍵もらいに」手に持っていた鍵を見せた。
「大会近いんだっけ?」
「そう。8月の頭にな。見に来るか?」
「行きたいけど、バイト入ってる」志乃はなんとなく気まずく感じて、将次郎から目を逸らす。修学旅行の件もあって、あまり彼と2人きりにならないほうがいいかと考えた。
「残念。最後の大会だから、見に来てほしかったんだけど」少し落ち込んだ声。
「え?」将次郎を見る。「最後?辞めんの?」
「うん」彼は諦めのある悲しげな表情をした。「もともと2年までって決めてたんだ。大会のあとも稽古には参加するけど、年度末にはきっぱり辞める」
「そっか…」志乃も悲しくなった。「やっぱ受験勉強のため?」
将次郎は顔に零れる汗をタオルで拭いながら、ぐもった声でそうだと答えた。「東京の大学に行くつもりだから、3年生になったら勉強漬けだよ」
「ふーん…。大変だな」志乃は労う。
「志乃は?大学行かないの?」将次郎は1歩だけ志乃に近づいた。
「行けるわけないだろ」志乃は体を揺らして顔を背ける。「今なにしに学校に来てると思ってんの?」
「専門とか行けばいいのに。音楽の」
「もういいんだ。あたしのは趣味だから」首を小さく振ると、壁に背を預けて立った。「ベース歴が長いってだけで、上手いわけでもないし」
ベースを弾くことは好きなのだが、いつの間にか始めた頃に抱いていた感情は消え失せていた。今さら必死になって上を目指そうという気にもなれない。
「そうか」志乃の未練なさそうな顔に将次郎は頷いた。
蝉の合唱に混ざって、グラウンドの方から掛け声が微かに聞こえてくる。
「東京かぁ…。そこまで遠くないけど、ついにジョージとは離れちゃうな」志乃はしみじみと言った。
「志乃も東京で就職したら?仕事ならたくさんありそうだし」軽く誘うようにふっと笑う。
「うーん…」具体的になんの仕事をしたいかは決めていない。地元にいたい気もするし、遠くへ行きたい気もする。
開け放っている窓から生ぬるい風が入ってきて、志乃の胸元まで伸びた髪を陰湿に弄んだ。
「ちっ」志乃は舌打ちをして髪を耳にかける。
「髪が伸びたよな」将次郎はマメのある手をゆっくりと伸ばし、志乃の髪にそっと触れた。「もうショートにはしないんだろ?」
志乃は奇妙さを感じた。「いや。もう切ろうかと思ってる。父さんとの約束も破ったし」
髪を伸ばし、赤点を取らずにいたらベースを買ってもらう予定だった。でももう破綻してしまったので、髪も切ってしまおうかと考えていた。
将次郎は寂しそうに微笑む。「長いの似合ってるよ」
「どうした?」志乃は再び違和感を覚えた。
「なにが?」流石にまずかったかと手を降ろす。
「いや…。なにかあったのかなって」いつもの将次郎ならこんな風に触れてきたりしない。
「なにもないよ」首を傾げる。
「そうか…?」言葉にできない気持ちが志乃の中に沸いた。
将次郎の様子がおかしいことには気付いている。修学旅行の時だけじゃなく、2年生になってから彼の言動には変化があった。今までより優しく、まるで壊れ物を扱うかのように接してきている。それがなぜなのか。
うっすらとした影が自分の方へ伸びてくるように、志乃はじわじわとそれを実感していた。
「あのさ、あたしが言えたことじゃないけど、」志乃はそれでも気付かないふりをした。「剣道、続けたいなら続けなよ。ジョージにも訳があるのは分かってるけどさ。やりたいことやるべきだと思う」
将次郎はまたいつものやつか?と警戒した。「いや。剣道に未練があるわけじゃない」
「じゃあ大学?行きたくない大学なのか?それとも親父さんに何か言われた?」志乃はまっすぐに立った。
「高校受験のときはジョージのせいじゃないだろ?そのせいで大学受験のことも親父さんに何か言われてんなら、あたしたちが説得してやるよ。ジョージの人生なんだから、ジョージがしたいようにするべきだ。あたしはジョージが望むことを応援したい」
将次郎はじっと志乃を見つめた。もう全てを投げ捨ててしまおうかという気が湧いてくる。
確かにこれが本当に自分のしたいことなのかと悩んだことはあった。剣道を辞め、受験に集中し、東京の大学へ行く。父さんからそう指示されたわけじゃないけど、父さんの目がそう言っていた。
景一兄さんもそうしていた。東京の高校に通って、部活も2年で辞めた。東京の大学へ進んで、今まさに就職活動に乗り出しているところ。父さんも兄さんもそこに集中していて、誰も俺のことなど気にしていない。
気にしていないのに、自分もそうしなくてはいけないと思い込んでいる。そういう空気を感じている。
俺は父さんが望むように生きてるだけじゃないのか。本当の自分など空っぽなのではないか。そうやって迷うことは、自分の弱さから来るものだ。だから誰にも見せてこなかったのに、そんな悩みを志乃はいとも簡単に見つけてしまう。だから…。
「違うよ」将次郎は穏やかに言った。「剣道を辞めることも、東京の大学へ行くことも俺は納得してるし、自分でもそうしたいと思ってる」
それでも隠そう。弱さを隠して、隠して、隠し続けて、それでもなお志乃に見つけてもらいたい。
「じゃあなんで?」将次郎の心の底を覗くように、志乃は彼を見つめる。
「……志乃が東京に来ないかなって」将次郎はややかすれ気味の声でヒントを出した。
志乃は肩を撫でられたように感じた。しかしその撫でられた手を、掴むことができなかった。
「……呼んでくれたら遊びに行くよ?」ためらいがちに応える。彼が何かを求めていることには気付いているのに、その正体を知るのが怖かった。
やっぱり。いつものやつだ。と将次郎は思った。だが志乃の表情が修学旅行の時とは違っていたので、着実に間合いは詰められていると感じた。
「そうじゃねーよ」仕方ないなと首を振る。まだもう少し時間がかかりそうだ。「…もう行かないと」と志乃に鍵を見せる。
「あぁ…」志乃は少しホッとしている自分に気付いた。「頑張ってな」
「おう」将次郎は去ろうとした。「あ」と言って立ち止まる。
「なに?」
「宿題どうする?」
「あぁ」幼馴染4人で夏休みの最後に宿題を見せ合う勉強会のことだ。「そうだな…」
「俺の家くる?見せてやるよ」
「うん」志乃は頷く。「じゃあいつも通り、一樹と実弦にも声かけとく」
やっぱり2人じゃダメか、と将次郎は小さくため息をついた。「分かった。また連絡する」
「うん。じゃあな」志乃は歩き出した。将次郎の口ぶりから、2人だけで勉強しようと聞こえた。でもやっぱり2人きりになるのは気が引けたし、一樹や実弦にも悪い気がした。あの2人を仲間外れにするのはどうしても嫌だった。




