十二文の髪紐
韓家へ来て、ひと月あまりが過ぎた。
その日の昼過ぎ。
「玉鈴、市へ行くけど、一緒に行くかい?」
中庭で桂花に声を掛けられ、玉鈴は顔を上げた。
桂花の腕には、大きな買い物籠が掛かっている。
「……市?」
「料理人に頼まれて、調味料を買いに行くんだよ。玉鈴は市へ行ったことある?」
玉鈴は首を横に振った。
「一度も?」
「……はい」
「あら、それなら行ってらっしゃい」
回廊を歩いていた春蘭が足を止めた。
玉鈴が戸惑ったように春蘭を見る。
「でも、まだお仕事が……」
「今日はもう十分よ。たまには外を見てきなさい」
玉鈴は桂花を見て、それから春蘭を見る。
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
少し迷ってから、玉鈴は頷いた。
「……はい」
玉鈴は一度、部屋へ戻った。
せっかく市へ出るのだからと、春蘭が仕立ててくれた水色の衣に着替える。
淡い水色の上衣に、白に近い薄青の裙。袖を通すと、柔らかな布が肌にさらりと触れた。
黒髪は後ろで簡単に一つに結び、足元には柔らかな布靴を履く。腰には、先日初めて受け取った給金の入った小さな布袋を下げた。
「準備できた?」
外から桂花の声がする。
「……はい」
玉鈴は布袋を一度そっと押さえて、部屋を出た。
◇
韓家の門を出てしばらく歩くと、通りの様子が一変した。
朱塗りの柱を並べた店。軒先から垂れる色鮮やかな布。竹籠いっぱいに盛られた赤や黄色の果実。
茶葉を量る店の隣では香辛料を詰めた麻袋が口を開け、その向こうでは蒸籠から白い湯気が立ち上っている。
「焼きたてだよ!」
「西域から入った香だ! 見ていっておくれ!」
あちこちから威勢のいい声が飛ぶ。
鮮やかな襦裙を纏った娘たち。荷を担いだ男。籠を提げた女。母親の手を引きながら菓子を指差す子ども。
玉鈴は桂花の半歩後ろを歩きながら、忙しなく目を動かしていた。
柳家にも、毎日のように品物は運び込まれていた。
華蓮の部屋には布や簪、菓子や香。厨房には野菜や肉、茶葉。
けれど、それらがどこから来るのかなど考えたこともなかった。
目の前では、客が品を手に取っている。気に入らなければ戻す。別のものを見る。欲しいものが決まれば、銭を払う。
そして、それを持って帰る。
「玉鈴」
少し先から桂花に呼ばれ、玉鈴は顔を上げた。
「置いていくよ」
慌てて追いつくと、桂花が笑った。
「珍しいものばっかりだろう?」
玉鈴は小さく頷いた。
「帰りに少し見ていこうか」
玉鈴の目が、ほんの少し大きくなった。
◇
料理人に頼まれた買い物を済ませ、二人は来た道をゆっくり戻った。
さっきまで桂花の後ろをついて歩いていた玉鈴も、今度は時折、店先へ目を向けている。
色鮮やかな刺繍靴。細工を施した木櫛。小さな陶器の人形。花を模した飴細工。
それでも足を止めることはなかった。
やがて、小さな店の前で玉鈴の歩みが止まった。
髪紐や櫛、普段使いの簪を並べた店だった。金や宝玉をふんだんに使った華蓮のものとは違う。町の娘たちが日々使う、ささやかな品ばかりだ。
その中に、淡い紅色の髪紐があった。
先には、小さな白い玉が一つ。
玉鈴は動かなかった。
「玉鈴?」
桂花も足を止める。
視線を辿り、髪紐に気づいた。
「気になる?」
返事はない。ただ、黒い瞳が髪紐を見ている。
「見せてもらえばいいじゃない」
桂花が店の女主人へ声を掛けた。
「これ、見せてもらっても?」
「もちろん」
差し出された髪紐を、玉鈴はおそるおそる受け取った。
淡紅色の紐が細い指の上へ落ちる。白い玉が、陽を受けて小さく光った。
「十二文だよ」
玉鈴の指が止まった。
桂花を見る。
「欲しいなら、自分のお金で買えるよ」
玉鈴の手が、腰の布袋へ触れた。
「……これで?」
「そう。玉鈴のお金だろう?」
玉鈴は布袋を開いた。
硬貨を掌へ出す。
一枚。二枚。三枚。
ゆっくり数える。
途中で分からなくなり、もう一度最初から。
桂花は手を出さなかった。店の女主人も急かさない。
やがて十二枚。
玉鈴は掌の銭を見た。そして、もう一方の手にある髪紐を見る。
「それを渡せば、その髪紐は玉鈴のものだよ」
しばらくして、玉鈴は十二枚の銭を店の女主人へ差し出した。
「十二文、確かに」
女主人は銭を受け取り、にこりと笑った。
「大事に使っておくれ」
玉鈴は手の中を見た。
淡紅色の髪紐。小さな白い玉。
自分で選んだ。
自分が働いて得た金で買った。
誰かに与えられたものではない。
玉鈴はそれを、そっと両手で包んだ。
◇
「まあ、可愛い!」
韓家へ戻るなり、春蘭が声を上げた。
玉鈴が包みを開いて見せた髪紐を、嬉しそうに覗き込む。
「自分で選んだの?」
「……はい」
春蘭の顔がほころんだ。
「つけてみる?」
玉鈴は髪紐を見る。
少し迷ってから、頷いた。
「じゃあ、こっちへいらっしゃい」
春蘭は玉鈴を鏡台の前へ座らせた。
黒檀の鏡台には、象牙の櫛や銀の簪が整然と並んでいる。
春蘭は玉鈴の黒髪を手早くまとめ、淡紅色の紐を結んだ。
白い玉が、黒髪の上で揺れる。
「ほら」
玉鈴は鏡を見た。
淡い水色の衣。少しずつ艶を取り戻してきた黒髪。そこに、自分で選んだ淡紅色が一つ。
「似合ってるわ」
春蘭が笑った。
玉鈴は鏡を見つめたまま、髪紐の先に触れた。
白い玉が、小さく揺れた。
◇
その頃。
皇城では、御典医が華蓮の手首から指を離していた。
「脈が乱れております」
華蓮の顔が曇る。
寝台の傍らには、飲みかけの茶が冷えたまま置かれている。淡い杏色の襦裙の上に羽織った薄衣は上質な絹だが、その下の肩は以前より細く見えた。
「以前から、心の臓がお弱いと伺っておりますが」
「……ええ。幼い頃は」
「胸が苦しくなることは?」
「あります」
「息苦しさは」
「……それも」
御典医は静かに頷いた。
「薬を調合いたします。まずはお身体を休めてください」
「治るの?」
「症状を和らげながら、様子を見てまいりましょう」
華蓮は唇を噛んだ。
御典医が下がり、扉が閉じる。
華蓮は胸元を押さえた。
この苦しさを知っている。
幼い頃、少し走るだけで息が切れた。夜中に胸が苦しくなり、母を呼んだこともある。
いつしか、それはなくなった。
――違う。
なくなったのではない。
玉鈴から気を奪うようになってから、出なくなったのだ。
「……まだなの?」
控えていた宮女が顔を上げる。
「柳家から、知らせは?」
「本日はまだ何も」
「届いたら、すぐに持ってきて」
「かしこまりました」
華蓮は目を閉じた。
◇
その柳家では。
「旦那様。韓子昂様の一行について、確認が取れました」
書斎へ入ってきた男の言葉に、柳文徳が筆を置いた。
「申せ」
「賊を役所へ引き渡したあと、そのまま皇都へ向かわれております。ただ、途中の茶屋で一度、馬を止めております」
「そこで何があった」
「茶屋の者が、韓様を覚えておりました」
男が一度、言葉を切った。
「娘を一人、抱えていたそうです」
文徳の顔から表情が消えた。
「……娘?」
「はい。かなり小柄で、衣もひどく汚れていたと」
「顔は」
「そこまでは。ただ、黒髪の娘だったそうです」
文徳が立ち上がった。
日が合う。場所も合う。
そして、負傷した小柄な娘。
「韓殿の一行に、もともと娘はいたのか」
「おりません」
「……皇都へ人を出せ」
「韓家へ?」
「直接訪ねるな」
文徳は低く言った。
「屋敷の出入りだけ確認しろ。若い娘が増えていないか調べるだけでいい」
「承知いたしました」
「見つけても手を出すな」
男が顔を上げる。
「私に知らせろ」
◇
数日後。
皇城の執務室で、蕭景焱は書状へ目を通していた。
開け放した窓の向こうには、幾重にも連なる朱塗りの回廊と、陽を弾く瑠璃瓦の屋根が見える。午後の光を受け、龍の意匠を刺した黒い衣の袖が鈍く光っていた。
「以上でございます」
報告を終えた韓子昂が、卓上の書類をまとめる。
「ああ」
景焱は書状へ目を落としたまま答えた。
そのまま一枚めくり、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、お前の家に来た、あの娘はどうしている」
「玉鈴ですか?」
「そうだ。お前がだらしない顔で話す、あの娘だ」
「……そのような顔はしておりません」
「している」
景焱は即答した。
玉鈴が韓家で暮らすようになってから、子昂は折に触れてその話をするようになっていた。
仕事をさせろとうるさかったこと。春蘭が衣を仕立ててやったこと。屋敷の者にも少しずつ慣れてきたこと。
本人にその自覚があるのかは知らないが、玉鈴の話になると、普段険しい顔がわずかに緩む。
「元気にしております」
そして今も、緩んだ。
「先日は初めて市へ行ったそうで、自分の給金で髪紐を買って帰ってきました」
「ほう」
「淡い紅色の紐に、白い玉が一つ付いたものです。それから毎日のようにつけております」
景焱は書状から完全に顔を上げた。
「……ずいぶん詳しいな」
「春蘭から聞きましたので」
景焱は小さく笑い、再び書状へ目を落とした。
◇
それから数日後。
地方への巡幸を終えた景焱は、皇都へ戻る途上にあった。
龍旗を掲げた騎兵を先頭に、近衛の兵が長い列を作って続いている。本来なら、このまま皇城へ戻るはずだった。
だが、韓家へ続く道へ差しかかったところで、景焱はふと手綱を緩めた。
巡幸に出る前にも、子昂は玉鈴の話をしていた。
韓家へ戻るたび、今日はこんなことがあった、あんなことを覚えたと、聞いてもいないのによく話す。普段は滅多に見せないほど嬉しそうな顔で。
それほど可愛がっている娘とは、いったいどんな娘なのだろう。
そういえば子昂は、景焱の巡幸中に休暇を取り、今は韓家へ戻っているはずだった。
景焱は韓家へ続く道へ目を向けた。
「……寄っていくか」
近衛たちが一斉に顔を上げた。
「これからでございますか?」
「ああ」
それだけ告げると、景焱は馬首を韓家へ向けた。
当然、後ろに続く一行もそのままついてくる。
ほどなくして、韓家の門前に龍旗を掲げた一団が現れた。
突然の皇帝の来訪に、門番が目を見開く。
「へ、陛下……!?」
景焱は馬を降り、後ろを振り返った。
近衛たちが当然のようについてこようとしている。
「ここで待て」
近衛たちの足が止まった。
「全員、でございますか?」
「屋敷の中まで、この人数で入るつもりか」
近衛たちは顔を見合わせたが、命じられた通り門の外に整然と並んだ。
龍旗を掲げた騎兵と近衛がずらりと門前を固める光景に、韓家の使用人たちが何事かと次々に顔を出す。
その騒ぎを聞きつけ、屋敷の奥から一人の男が駆けてきた。
「陛下!?」
休暇中だった側近は、景焱の姿を見るなり目を剥いた。
「何をなさっているんですか!」
「見れば分かるだろう。寄った」
「寄ったって……!」
側近が門の外を見る。
そこには、巡幸帰りの近衛たちがずらりと並んでいる。
「その人数でですか!?」
「置いてくるわけにもいかぬだろう」
景焱は何でもないことのように答え、そのまま屋敷へ入っていった。
韓家の門をくぐり、白壁に沿った回廊を進む。庭では柳の細い枝が風に揺れ、石を組んだ小さな池の水面に影を落としていた。
突然の来訪にもかかわらず、春蘭はすぐに客間を整え、茶を運ばせた。
「せっかくの休暇に邪魔をしたな」
景焱が茶器を手にすると、子昂は何とも言えない顔をした。
「そう思われるのでしたら、まっすぐ皇城へお戻りください」
「もう来てしまった」
「……左様でございますね」
子昂は諦めたように息をついた。
景焱は気にした様子もなく茶を口にした。
しばらく子昂と巡幸先の話などを交わしていたが、ふと屋敷の中へ目を向ける。
子昂から散々聞かされていた娘の姿が、まだ見えない。
「今日は、あの娘はいないのか?」
春蘭が目を瞬いた。
「あの娘?」
「玉鈴だ」
「あら。陛下、玉鈴をご存じなのですか?」
「知っているというほどではない。子昂が、でれでれした顔で話すから、どんな娘なのか少し気になってな」
「陛下」
子昂の低い声が飛ぶ。
「何だ。事実だろう」
「事実ではございません」
すると春蘭が、ぱっと顔をほころばせた。
「とても可愛い子なんですよ!」
景焱は春蘭を見る。次に子昂を見る。
二人とも、よく似た顔をしていた。
「……お前たち夫婦、同じ顔をして同じことを言うな」
「本当に可愛いんですもの」
「春蘭」
「あなたもいつも言っているでしょう?」
子昂が黙った。
景焱は小さく息を漏らした。
「それで、その可愛い娘は?」
「今日は桂花と市へ出ております。もうじき戻ると思いますけれど」
「そうか」
景焱は茶器を置いた。
しばらくして、景焱は席を立った。
春蘭と子昂に見送られ、庭を抜ける。
池の水面には午後の光が揺れ、柳の細い枝が風にそよいでいる。軒下の風鐸が、ちりん、と鳴った。
門まで来たところで、景焱の足が止まった。
「陛下?」
子昂が声を掛ける。
景焱は振り返った。
白壁に黒瓦。風に揺れる柳。軒下の風鐸。
何ということもない屋敷のはずだった。
なのに、なぜか足が進まない。
もう少し、ここにいたい。
理由の分からない思いが、胸の奥に残っていた。
「……妙だな」
「何がでございますか」
景焱はしばらく屋敷を眺めた。
「いや。何でもない」
門を出る。
数歩進んだところで、胸の奥にあった穏やかさが、少しずつ遠のいていく。
景焱は足を止めた。
もう一度、振り返る。
閉じられた韓家の門を、しばらく見つめた。
◇
それから、さほど経たないうちだった。
「ただいま戻りました」
門の向こうから桂花の声がした。
春蘭が顔を上げる。
開いた門から、買い物籠を提げた桂花が入ってくる。
その後ろには、淡い水色の衣を纏った玉鈴がいた。
黒髪には、自分で買った淡紅色の髪紐。先についた小さな白い玉が、歩くたびに揺れている。
「……ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
春蘭が笑う。
「今日は何を買ってきたの?」
玉鈴が答えようとして、ふと顔を上げた。
微かに、何かが香った。
花でも、香でもない。
けれど、知っている。
玉鈴が大きく瞬きした。
柳家の宴で感じた、あの匂いだった。
玉鈴は辺りを見回した。
今はもう薄い。風に残った香のように、消えかけている。
「玉鈴?」
春蘭に呼ばれ、ようやく顔を向ける。
「どうしたの?」
「……いえ」
「ああ、そういえば。さっきまで陛下がお見えになっていたのよ」
玉鈴が、もう一度大きく瞬きした。
「……陛下?」
「ええ。旦那様に御用があったみたい。ほんの少し前にお帰りになったわ」
玉鈴は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと門を振り返る。
あの宴で感じた匂い。
あれは――。
風が吹いた。
黒髪に結んだ淡紅色の髪紐が揺れる。
玉鈴は、もう誰もいない門の向こうを、しばらく見つめていた。
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