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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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十二文の髪紐

 韓家へ来て、ひと月あまりが過ぎた。

 その日の昼過ぎ。


「玉鈴(ぎょくれい)、市へ行くけど、一緒に行くかい?」


 中庭で桂花(けいか)に声を掛けられ、玉鈴は顔を上げた。

 桂花の腕には、大きな買い物籠が掛かっている。


「……市?」

「料理人に頼まれて、調味料を買いに行くんだよ。玉鈴は市へ行ったことある?」


 玉鈴は首を横に振った。


「一度も?」

「……はい」


「あら、それなら行ってらっしゃい」


 回廊を歩いていた春蘭(しゅんらん)が足を止めた。

 玉鈴が戸惑ったように春蘭を見る。


「でも、まだお仕事が……」

「今日はもう十分よ。たまには外を見てきなさい」


 玉鈴は桂花を見て、それから春蘭を見る。


「……よろしいのですか?」

「もちろん」


 少し迷ってから、玉鈴は頷いた。


「……はい」


 玉鈴は一度、部屋へ戻った。

 せっかく市へ出るのだからと、春蘭が仕立ててくれた水色の衣に着替える。

 淡い水色の上衣に、白に近い薄青の裙。袖を通すと、柔らかな布が肌にさらりと触れた。

 黒髪は後ろで簡単に一つに結び、足元には柔らかな布靴を履く。腰には、先日初めて受け取った給金の入った小さな布袋を下げた。


「準備できた?」


 外から桂花の声がする。


「……はい」


 玉鈴は布袋を一度そっと押さえて、部屋を出た。


 ◇


 韓家の門を出てしばらく歩くと、通りの様子が一変した。

 朱塗りの柱を並べた店。軒先から垂れる色鮮やかな布。竹籠いっぱいに盛られた赤や黄色の果実。

 茶葉を量る店の隣では香辛料を詰めた麻袋が口を開け、その向こうでは蒸籠から白い湯気が立ち上っている。


「焼きたてだよ!」

「西域から入った香だ! 見ていっておくれ!」


 あちこちから威勢のいい声が飛ぶ。

 鮮やかな襦裙を纏った娘たち。荷を担いだ男。籠を提げた女。母親の手を引きながら菓子を指差す子ども。

 玉鈴は桂花の半歩後ろを歩きながら、忙しなく目を動かしていた。

 柳家にも、毎日のように品物は運び込まれていた。

 華蓮の部屋には布や簪、菓子や香。厨房には野菜や肉、茶葉。

 けれど、それらがどこから来るのかなど考えたこともなかった。

 目の前では、客が品を手に取っている。気に入らなければ戻す。別のものを見る。欲しいものが決まれば、銭を払う。

 そして、それを持って帰る。


「玉鈴」


 少し先から桂花に呼ばれ、玉鈴は顔を上げた。


「置いていくよ」


 慌てて追いつくと、桂花が笑った。


「珍しいものばっかりだろう?」


 玉鈴は小さく頷いた。


「帰りに少し見ていこうか」


 玉鈴の目が、ほんの少し大きくなった。


 ◇


 料理人に頼まれた買い物を済ませ、二人は来た道をゆっくり戻った。

 さっきまで桂花の後ろをついて歩いていた玉鈴も、今度は時折、店先へ目を向けている。

 色鮮やかな刺繍靴。細工を施した木櫛。小さな陶器の人形。花を模した飴細工。

 それでも足を止めることはなかった。

 やがて、小さな店の前で玉鈴の歩みが止まった。

 髪紐や櫛、普段使いの簪を並べた店だった。金や宝玉をふんだんに使った華蓮のものとは違う。町の娘たちが日々使う、ささやかな品ばかりだ。

 その中に、淡い紅色の髪紐があった。

 先には、小さな白い玉が一つ。

 玉鈴は動かなかった。


「玉鈴?」


 桂花も足を止める。

 視線を辿り、髪紐に気づいた。


「気になる?」


 返事はない。ただ、黒い瞳が髪紐を見ている。


「見せてもらえばいいじゃない」


 桂花が店の女主人へ声を掛けた。


「これ、見せてもらっても?」

「もちろん」


 差し出された髪紐を、玉鈴はおそるおそる受け取った。

 淡紅色の紐が細い指の上へ落ちる。白い玉が、陽を受けて小さく光った。


「十二文だよ」


 玉鈴の指が止まった。

 桂花を見る。


「欲しいなら、自分のお金で買えるよ」


 玉鈴の手が、腰の布袋へ触れた。


「……これで?」

「そう。玉鈴のお金だろう?」


 玉鈴は布袋を開いた。

 硬貨を掌へ出す。

 一枚。二枚。三枚。

 ゆっくり数える。

 途中で分からなくなり、もう一度最初から。

 桂花は手を出さなかった。店の女主人も急かさない。

 やがて十二枚。

 玉鈴は掌の銭を見た。そして、もう一方の手にある髪紐を見る。


「それを渡せば、その髪紐は玉鈴のものだよ」


 しばらくして、玉鈴は十二枚の銭を店の女主人へ差し出した。


「十二文、確かに」


 女主人は銭を受け取り、にこりと笑った。


「大事に使っておくれ」


 玉鈴は手の中を見た。

 淡紅色の髪紐。小さな白い玉。

 自分で選んだ。

 自分が働いて得た金で買った。

 誰かに与えられたものではない。

 玉鈴はそれを、そっと両手で包んだ。


 ◇


「まあ、可愛い!」


 韓家へ戻るなり、春蘭が声を上げた。

 玉鈴が包みを開いて見せた髪紐を、嬉しそうに覗き込む。


「自分で選んだの?」

「……はい」


 春蘭の顔がほころんだ。


「つけてみる?」


 玉鈴は髪紐を見る。

 少し迷ってから、頷いた。


「じゃあ、こっちへいらっしゃい」


 春蘭は玉鈴を鏡台の前へ座らせた。

 黒檀の鏡台には、象牙の櫛や銀の簪が整然と並んでいる。

 春蘭は玉鈴の黒髪を手早くまとめ、淡紅色の紐を結んだ。

 白い玉が、黒髪の上で揺れる。


「ほら」


 玉鈴は鏡を見た。

 淡い水色の衣。少しずつ艶を取り戻してきた黒髪。そこに、自分で選んだ淡紅色が一つ。


「似合ってるわ」


 春蘭が笑った。

 玉鈴は鏡を見つめたまま、髪紐の先に触れた。

 白い玉が、小さく揺れた。


 ◇


 その頃。

 皇城では、御典医が華蓮(かれん)の手首から指を離していた。


「脈が乱れております」


 華蓮の顔が曇る。

 寝台の傍らには、飲みかけの茶が冷えたまま置かれている。淡い杏色の襦裙の上に羽織った薄衣は上質な絹だが、その下の肩は以前より細く見えた。


「以前から、心の臓がお弱いと伺っておりますが」

「……ええ。幼い頃は」

「胸が苦しくなることは?」

「あります」

「息苦しさは」

「……それも」


 御典医は静かに頷いた。


「薬を調合いたします。まずはお身体を休めてください」

「治るの?」

「症状を和らげながら、様子を見てまいりましょう」


 華蓮は唇を噛んだ。

 御典医が下がり、扉が閉じる。

 華蓮は胸元を押さえた。

 この苦しさを知っている。

 幼い頃、少し走るだけで息が切れた。夜中に胸が苦しくなり、母を呼んだこともある。

 いつしか、それはなくなった。


 ――違う。


 なくなったのではない。

 玉鈴から気を奪うようになってから、出なくなったのだ。


「……まだなの?」


 控えていた宮女が顔を上げる。


「柳家から、知らせは?」

「本日はまだ何も」

「届いたら、すぐに持ってきて」

「かしこまりました」


 華蓮は目を閉じた。


 ◇


 その柳家では。


「旦那様。韓子昂(かん・しこう)様の一行について、確認が取れました」


 書斎へ入ってきた男の言葉に、柳文徳(りゅう・ぶんとく)が筆を置いた。


「申せ」

「賊を役所へ引き渡したあと、そのまま皇都へ向かわれております。ただ、途中の茶屋で一度、馬を止めております」

「そこで何があった」

「茶屋の者が、韓様を覚えておりました」


 男が一度、言葉を切った。


「娘を一人、抱えていたそうです」


 文徳の顔から表情が消えた。


「……娘?」

「はい。かなり小柄で、衣もひどく汚れていたと」

「顔は」

「そこまでは。ただ、黒髪の娘だったそうです」


 文徳が立ち上がった。

 日が合う。場所も合う。

 そして、負傷した小柄な娘。


「韓殿の一行に、もともと娘はいたのか」

「おりません」

「……皇都へ人を出せ」

「韓家へ?」

「直接訪ねるな」


 文徳は低く言った。


「屋敷の出入りだけ確認しろ。若い娘が増えていないか調べるだけでいい」

「承知いたしました」

「見つけても手を出すな」


 男が顔を上げる。


「私に知らせろ」


 ◇


 数日後。

 皇城の執務室で、蕭景焱(しょう・けいえん)は書状へ目を通していた。

 開け放した窓の向こうには、幾重にも連なる朱塗りの回廊と、陽を弾く瑠璃瓦の屋根が見える。午後の光を受け、龍の意匠を刺した黒い衣の袖が鈍く光っていた。


「以上でございます」


 報告を終えた韓子昂(かん・しこう)が、卓上の書類をまとめる。


「ああ」


 景焱は書状へ目を落としたまま答えた。

 そのまま一枚めくり、ふと思い出したように口を開く。


「そういえば、お前の家に来た、あの娘はどうしている」

「玉鈴ですか?」

「そうだ。お前がだらしない顔で話す、あの娘だ」

「……そのような顔はしておりません」

「している」


 景焱は即答した。

 玉鈴が韓家で暮らすようになってから、子昂は折に触れてその話をするようになっていた。

 仕事をさせろとうるさかったこと。春蘭が衣を仕立ててやったこと。屋敷の者にも少しずつ慣れてきたこと。

 本人にその自覚があるのかは知らないが、玉鈴の話になると、普段険しい顔がわずかに緩む。


「元気にしております」


 そして今も、緩んだ。


「先日は初めて市へ行ったそうで、自分の給金で髪紐を買って帰ってきました」

「ほう」

「淡い紅色の紐に、白い玉が一つ付いたものです。それから毎日のようにつけております」


 景焱は書状から完全に顔を上げた。


「……ずいぶん詳しいな」

「春蘭から聞きましたので」


 景焱は小さく笑い、再び書状へ目を落とした。


 ◇


 それから数日後。


 地方への巡幸(じゅんこう)を終えた景焱(けいえん)は、皇都へ戻る途上にあった。

 龍旗を掲げた騎兵を先頭に、近衛の兵が長い列を作って続いている。本来なら、このまま皇城へ戻るはずだった。


 だが、韓家へ続く道へ差しかかったところで、景焱はふと手綱を緩めた。

 巡幸に出る前にも、子昂(しこう)は玉鈴の話をしていた。

 韓家へ戻るたび、今日はこんなことがあった、あんなことを覚えたと、聞いてもいないのによく話す。普段は滅多に見せないほど嬉しそうな顔で。

 それほど可愛がっている娘とは、いったいどんな娘なのだろう。

 そういえば子昂は、景焱の巡幸中に休暇を取り、今は韓家へ戻っているはずだった。

 景焱は韓家へ続く道へ目を向けた。


「……寄っていくか」


 近衛たちが一斉に顔を上げた。


「これからでございますか?」

「ああ」


 それだけ告げると、景焱は馬首を韓家へ向けた。

 当然、後ろに続く一行もそのままついてくる。


 ほどなくして、韓家の門前に龍旗を掲げた一団が現れた。

 突然の皇帝の来訪に、門番が目を見開く。


「へ、陛下……!?」


 景焱は馬を降り、後ろを振り返った。

 近衛たちが当然のようについてこようとしている。


「ここで待て」


 近衛たちの足が止まった。


「全員、でございますか?」

「屋敷の中まで、この人数で入るつもりか」


 近衛たちは顔を見合わせたが、命じられた通り門の外に整然と並んだ。

 龍旗を掲げた騎兵と近衛がずらりと門前を固める光景に、韓家の使用人たちが何事かと次々に顔を出す。


 その騒ぎを聞きつけ、屋敷の奥から一人の男が駆けてきた。


「陛下!?」


 休暇中だった側近は、景焱の姿を見るなり目を剥いた。


「何をなさっているんですか!」

「見れば分かるだろう。寄った」

「寄ったって……!」


 側近が門の外を見る。

 そこには、巡幸帰りの近衛たちがずらりと並んでいる。


「その人数でですか!?」

「置いてくるわけにもいかぬだろう」


 景焱は何でもないことのように答え、そのまま屋敷へ入っていった。

 韓家の門をくぐり、白壁に沿った回廊を進む。庭では柳の細い枝が風に揺れ、石を組んだ小さな池の水面に影を落としていた。

 突然の来訪にもかかわらず、春蘭(しゅんらん)はすぐに客間を整え、茶を運ばせた。


「せっかくの休暇に邪魔をしたな」


 景焱が茶器を手にすると、子昂(しこう)は何とも言えない顔をした。


「そう思われるのでしたら、まっすぐ皇城へお戻りください」

「もう来てしまった」

「……左様でございますね」


 子昂は諦めたように息をついた。

 景焱は気にした様子もなく茶を口にした。

 しばらく子昂と巡幸先の話などを交わしていたが、ふと屋敷の中へ目を向ける。

 子昂から散々聞かされていた娘の姿が、まだ見えない。


「今日は、あの娘はいないのか?」


 春蘭が目を瞬いた。


「あの娘?」

「玉鈴だ」

「あら。陛下、玉鈴をご存じなのですか?」

「知っているというほどではない。子昂が、でれでれした顔で話すから、どんな娘なのか少し気になってな」

「陛下」


 子昂の低い声が飛ぶ。


「何だ。事実だろう」

「事実ではございません」


 すると春蘭が、ぱっと顔をほころばせた。


「とても可愛い子なんですよ!」


 景焱は春蘭を見る。次に子昂を見る。

 二人とも、よく似た顔をしていた。


「……お前たち夫婦、同じ顔をして同じことを言うな」

「本当に可愛いんですもの」

「春蘭」

「あなたもいつも言っているでしょう?」


 子昂が黙った。

 景焱は小さく息を漏らした。


「それで、その可愛い娘は?」

「今日は桂花と市へ出ております。もうじき戻ると思いますけれど」

「そうか」


 景焱は茶器を置いた。

 しばらくして、景焱は席を立った。

 春蘭と子昂に見送られ、庭を抜ける。

 池の水面には午後の光が揺れ、柳の細い枝が風にそよいでいる。軒下の風鐸が、ちりん、と鳴った。

 門まで来たところで、景焱の足が止まった。


「陛下?」


 子昂が声を掛ける。

 景焱は振り返った。

 白壁に黒瓦。風に揺れる柳。軒下の風鐸。

 何ということもない屋敷のはずだった。

 なのに、なぜか足が進まない。

 もう少し、ここにいたい。

 理由の分からない思いが、胸の奥に残っていた。


「……妙だな」

「何がでございますか」


 景焱はしばらく屋敷を眺めた。


「いや。何でもない」


 門を出る。

 数歩進んだところで、胸の奥にあった穏やかさが、少しずつ遠のいていく。

 景焱は足を止めた。

 もう一度、振り返る。

 閉じられた韓家の門を、しばらく見つめた。


 ◇


 それから、さほど経たないうちだった。


「ただいま戻りました」


 門の向こうから桂花の声がした。

 春蘭が顔を上げる。

 開いた門から、買い物籠を提げた桂花が入ってくる。

 その後ろには、淡い水色の衣を纏った玉鈴がいた。

 黒髪には、自分で買った淡紅色の髪紐。先についた小さな白い玉が、歩くたびに揺れている。


「……ただいま戻りました」

「おかえりなさい」


 春蘭が笑う。


「今日は何を買ってきたの?」


 玉鈴が答えようとして、ふと顔を上げた。

 微かに、何かが香った。

 花でも、香でもない。

 けれど、知っている。

 玉鈴が大きく瞬きした。

 柳家の宴で感じた、あの匂いだった。

 玉鈴は辺りを見回した。

 今はもう薄い。風に残った香のように、消えかけている。


「玉鈴?」


 春蘭に呼ばれ、ようやく顔を向ける。


「どうしたの?」

「……いえ」

「ああ、そういえば。さっきまで陛下がお見えになっていたのよ」


 玉鈴が、もう一度大きく瞬きした。


「……陛下?」

「ええ。旦那様に御用があったみたい。ほんの少し前にお帰りになったわ」


 玉鈴は何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりと門を振り返る。

 あの宴で感じた匂い。

 あれは――。

 風が吹いた。

 黒髪に結んだ淡紅色の髪紐が揺れる。

 玉鈴は、もう誰もいない門の向こうを、しばらく見つめていた。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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