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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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8/13

娘がいたなら

 韓家で働き始めてから、玉鈴の一日は少しずつ形を持つようになった。

 朝は空が白み始める頃に起き、顔を洗い、長い黒髪を後ろで一つにまとめて桂花のところへ行く。

 任されるのは、洗い終えた衣を畳んだり、廊下の低い棚を拭いたり、軽い器を運んだりする仕事だった。

 重いものへ手を伸ばせば止められる。仕事が遅くても急かされない。

 それでも玉鈴は、一つ終えるたびに次の仕事を聞きに行った。

 何もしないでいることの方が、まだ落ち着かなかった。


 ◇


 数日後。

 玉鈴が洗濯場の軒下で乾いた衣を畳んでいると、中庭を横切ってきた女が足を止めた。


「あなたが玉鈴ね」


 玉鈴の手が止まった。

 すぐに立ち上がり、頭を下げる。


「……はい」


 林春蘭《りん・しゅんらん》。

 三十八歳になる韓家の女主人であり、子昂の妻だった。

 夫の大きな身体とは対照的に小柄で、丸みのある卵型の顔に穏やかな黒い目をしている。艶のある黒髪は上品に結い上げられ、銀の簪が一本だけ挿されていた。

 薄藤色の上衣に青灰の裙。襟元には同色の糸で小さな花が縫い取られている。華美ではないが、布地も仕立ても上質で、長く家を預かってきた女主人らしい落ち着きがあった。


「怪我はもう大丈夫?」

「……はい」

「そう。よかった」


 春蘭は玉鈴を見た。

 子昂から話は聞いている。

 山中で拾った娘。

 十か十一ほどにしか見えず、ひどく痩せている。

 自分を奴隷だと信じていたという。

 実際に目の前で見ると、想像していた以上に小さかった。

 色褪せた衣の中で細い身体が泳いでいる。肩は狭く、まだ艶の戻らない黒髪は乾いていた。こけた頬のせいで、長い睫毛に縁取られた黒い目ばかりが大きく見える。

 いったい、いくつなのだろう。

 だが、それさえ本人には分からないという。


「仕事中だったのね」

「はい」

「邪魔してごめんなさい。続けて」


 玉鈴はもう一度頭を下げ、座った。

 すぐに衣を一枚取る。

 端を合わせる。

 少しずれれば、一度開いてやり直す。

 春蘭はしばらく、その様子を見ていた。


「……真面目な子ね」


 小さく呟き、その場を離れた。


 ◇


 それから春蘭は、屋敷の中で玉鈴を見かけることが増えた。

 いや。

 以前からそこにいたのだから、見かける回数が増えたわけではない。

 春蘭の方が、玉鈴の姿を見つけるようになったのだ。

 廊下の棚を拭いている。

 中庭で桂花と布を畳んでいる。

 花瓶の水を替えている。

 何をするにも派手さはない。

 仕事が特別早いわけでもない。

 ただ、頼まれたことを途中で投げない。


 ある日の午後。

 春蘭が回廊を歩いていると、玉鈴が低い棚を拭いていた。

 肩から黒髪がさらりと落ちる。

 片手で押さえ、また拭く。

 少しすると、また落ちる。

 また押さえる。

 春蘭は足を止めた。


「玉鈴」


 玉鈴が振り返る。


「ちょっといらっしゃい」


 近くまで来た玉鈴の後ろへ回り、春蘭は髪へ手を伸ばしかけた。

 その瞬間。

 玉鈴の肩が、ぴくりと揺れた。

 春蘭の手が止まる。


「あ……ごめんなさい」


 玉鈴が振り返った。


「髪が邪魔そうだったから、結んであげようと思ったの。触ってもいい?」


 玉鈴は春蘭を見た。

 すぐには答えない。

 やがて、小さく頷いた。

 春蘭は今度こそ、ゆっくりと手を伸ばした。

 細い黒髪を一つに集める。

 触れてみると、見た目以上に乾いていた。指を通せば、毛先で引っかかる。


「桂花、櫛はある?」

「ありますけど……」


 近くにいた桂花が不思議そうな顔をする。


「奥様がなさるんですか?」

「だって、絡まっているもの」


 桂花は笑いながら櫛を取りに行った。

 春蘭は玉鈴を軒下へ座らせる。

 戻ってきた桂花から櫛を受け取ると、毛先から少しずつ梳いていった。

 引っかかれば止める。

 指で解いて、また梳く。


「痛くない?」

「……はい」

「痛かったら言ってね」


 こくりと頷く。

 春蘭は最後まで髪を梳き、簡単に一つに結んだ。


「はい。これなら邪魔にならないわ」


 玉鈴は結ばれた髪へ、そっと触れた。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


「奥様」


 桂花が呼んだ。


「何?」

「このあと、お客様がお見えになるのでは?」

「あ」


 春蘭の手が止まる。


「ご自分のお支度もしてくださいませ」

「分かってるわよ」


 桂花が笑う。


「普通はそちらが先ですよ、奥様」


 春蘭は笑いながら屋敷へ戻っていった。

 玉鈴はその背中を見送り、それから結んでもらった髪へもう一度触れた。


 ◇


 ひと月ほど経った頃。

 柳家では、いまだ玉鈴の捜索が続いていた。

 襲撃を受けた山道だけではない。

 周辺の村、宿場、街道、川沿い。

 人を使い、行方を追わせていた。


「旦那様。あの日の官兵について、手掛かりがございました」


 報告に来た男の言葉に、文徳が地図から顔を上げる。


「誰の兵だ」

「韓子昂様です」


 文徳の目が止まった。


「韓殿?」

「はい。襲撃のあった日、あの付近で賊を捕らえた一隊がございます。韓様が率いておられました」


 龍帝の側近。

 文徳も当然、その名を知っている。


「任を終え、皇都へ戻られる途中だったようです。捕らえた賊は近くの役所へ引き渡されております」

「韓殿本人には確かめたのか」

「まだでございます。韓様の一行が娘を保護したという話も、今のところは」

「……そうか」


 文徳は地図へ視線を落とした。

 場所は近い。

 だが、それだけでは玉鈴が韓子昂に拾われたとは分からない。


「捕らえられた賊を調べろ。それから、韓殿の一行がその後どの道を通ったかも確認しろ」

「はっ」


 男が下がる。

 文徳は卓の端へ目を向けた。

 皇都の華蓮から届いた文が置かれている。


 ――早く見つけて。

 ――また、胸が苦しくなってきた。


 文徳は眉間を押さえた。

 華蓮の身体が、再び弱り始めている。


 ◇


 皇城では、華蓮が寝台から起き上がるまでに以前より時間がかかるようになっていた。

 昼を過ぎてからようやく身支度を整え、窓辺の長椅子へ身体を預ける。

 淡い杏色の襦裙に、金糸の入った薄い上衣。髪には新しく買った翡翠の歩揺が揺れている。

 豪奢な装いに反して、顔色は以前より白かった。


 夕刻。

 景焱が華蓮の宮を訪れた。

 政務を終えたばかりなのか、濃紺の龍袍の袖にはまだ外の冷気が残っている。腰まで届く黒髪は金冠でまとめられ、長い睫毛に縁取られた切れ長の目が、長椅子の華蓮へ向いた。


「具合はどうだ」

「少し疲れやすいだけです」


 景焱は隣へ座り、その手を取った。

 以前より冷たい。


「御典医には診せているな」

「ええ。心配するほどではないと」

「無理をするな」


 華蓮は嬉しそうに頷いた。

 景焱は、その手を握ったまま目を伏せる。

 柳家で初めて番の気を感じたとき。

 身体の奥から何かが一気に目覚めた。

 血が沸き立つような、十四年間失われていたものが突然戻ってきたような感覚だった。

 あれほど強いものを、皇都へ戻ってからは感じていない。

 華蓮のそばにいても。

 こうして手を取っていても。

 だが、華蓮自身が日に日に弱っている。

 身体が弱れば、気も弱る。

 そう考えれば、説明はつく。

 何より、自分は華蓮から確かに明珠の気を感じた。

 景焱はそれ以上考えず、冷たい手を包み直した。


 ◇


 ある日の午後。

 玉鈴は中庭に面した軒下で、乾いた布を畳んでいた。


「玉鈴、ちょっと手を見せて」


 桂花に呼ばれ、玉鈴が顔を上げる。


「……手?」

「違う違う。袖よ」


 桂花が玉鈴の腕を指した。

 言われて見れば、韓家へ来たばかりの頃には手の甲まで隠れていた袖口から、今は細い手首がすっかり出ている。

 桂花は裾にも目をやった。


「やっぱり。短くなってる」


 玉鈴も自分の衣を見下ろした。


「まだ着られます」

「そりゃ着られるけどねえ」


 桂花は苦笑した。

 韓家へ来た頃、この仕事着は玉鈴には大きすぎた。

 袖を折り、裾も詰めて、それでも身体が布の中へ埋もれていたほどだ。

 それが、いつの間にか合わなくなり始めている。

 気を奪われることのない日々の中で、長く止まっていた身体が、ほんの少しずつ成長を取り戻していた。


「奥様にお話ししておかないとね」


 桂花がそう言うと、玉鈴はすぐに首を振った。


「これで大丈夫です」

「はいはい。それは奥様に直接言いなさい」


 桂花は畳み終えた布の籠を抱えた。


「たぶん聞かないと思うけど」


 玉鈴には、その意味が分からなかった。


 ◇


 それから何日かして。

 春蘭が自室で衣を選んでいると、開け放した戸の向こうを玉鈴が通った。


「玉鈴」


 足が止まる。


「ちょっといらっしゃい」


 玉鈴が部屋へ入る。

 黒檀の鏡台には白磁の小さな香炉と櫛が並び、窓辺には読みかけの書物が重ねてある。庭で摘んだ白い花が青磁の花瓶に挿され、開け放した窓から午後の風が薄い帳を揺らしていた。

 鏡台の前には、これから春蘭の髪を整える女中が待っている。

 だが春蘭は、自分の髪ではなく玉鈴を見た。


「そこへ座って」

「……はい」


 玉鈴が鏡台の前へ座る。

 春蘭は櫛を取り、玉鈴の黒髪へ通した。

 以前より、ずっと滑らかに通る。


「あら」


 春蘭の顔がほころんだ。


「綺麗になってきたわ」


 玉鈴が鏡を見る。

 春蘭の小柄な姿と、自分の顔が並んで映っている。


「今日は少し編んでみようかしら」


 一房取って、細く編んでいく。


「奥様」


 女中が遠慮がちに声を掛けた。


「そろそろ奥様のお支度を……」

「分かってるわ。ここまで」


 そう言いながら、春蘭の指は止まらない。

 ちょうど部屋の前を通った桂花が、中を覗いて笑った。


「あらまあ。またやってるんですか」

「またって何よ」

「このところ、玉鈴を見つけるとすぐ捕まえるじゃありませんか」


 春蘭が少し考える。


「……そうかしら」

「そうですよ」


 春蘭は鏡の中の玉鈴を見る。

 長い睫毛。

 少しずつ丸みを取り戻してきた頬。

 まだ十か十一ほどにしか見えない、小さな顔。


「だって、可愛いんだもの」


 玉鈴が瞬きをした。

 春蘭は編み終えた髪を整える。


「娘がいたら、こういうことをしてみたかったのよ」


 何気なく出た言葉だった。

 玉鈴の目が、鏡の中で春蘭へ向く。


「可愛い衣を着せて、髪を結って。髪飾りを選んだりして」

「奥様は昔からそう仰ってましたねえ」


 桂花が懐かしそうに笑う。

 子昂と春蘭が夫婦になって、十八年。

 二人の間に子は授からなかった。

 いつしか、そんな話もしなくなっていた。

 けれど今。

 春蘭は鏡台の前に小さな娘を座らせ、その黒髪を嬉しそうに整えている。


「はい。できた」


 玉鈴は鏡を見る。

 横の髪が細く編まれ、後ろへ流されている。

 指先で、そっと触れた。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 玉鈴は立ち上がった。

 部屋を出る直前。

 一度だけ鏡を振り返った。


 ◇


 韓家へ来て、ひと月が過ぎた。

 その日。

 玉鈴は春蘭の部屋へ呼ばれた。

 卓の上には、小さな布袋が一つ置かれている。


「玉鈴。今月の給金よ」


 玉鈴は布袋を見た。

 動かない。


「……給金?」

「ええ。あなたが働いた分」


 春蘭が差し出す。

 玉鈴はしばらく見つめてから、両手で受け取った。

 小さな袋なのに、掌の上ではずしりと重い。

 中で硬貨が触れ合い、かすかな音を立てた。


「好きに使っていいのよ」


 玉鈴の顔が上がった。


「……私が?」

「そう。残しておいてもいいし、何か欲しいものを買ってもいい」


 玉鈴はまた掌へ目を落とす。

 細い指が、袋の口をそっと撫でた。


「それは、玉鈴のお金だから」


 玉鈴のお金。


 聞いたことのない言葉のようだった。

 自分の衣も、食べ物も、眠る場所も、すべて柳家から与えられるものだった。

 自分だけのものを持ったことなどない。

 玉鈴は布袋を両手で包んだ。


「……ありがとうございます」

「それは私にお礼を言うものじゃないのよ」


 春蘭は少し笑った。


「玉鈴が働いたから、玉鈴がもらうの」

「……」

「大事にしてね」

「……はい」


 その夜。

 玉鈴は布袋を枕元へ置いた。

 以前、菓子を置いたのと同じ場所だった。

 灯りを消したあとも、何度かそこへ手を伸ばした。

 指先に布袋が触れる。

 中には、自分が働いて得た硬貨が入っている。

 明日の朝になっても、そこにある。

 誰にも渡さなくていい。


 ――玉鈴のお金。


 暗闇の中。

 細い指が、布袋をそっと握った。


 ◇


 数日後。

 玉鈴は再び春蘭の部屋へ呼ばれた。

 卓の上には、何枚もの布が広げられている。

 淡い緑。

 薄桃。

 柔らかな黄色。

 澄んだ水色。

 華蓮が好んでいた鮮やかな紅や金糸とは違う、春の庭に咲く花のような柔らかな色ばかりだった。


「奥様。多くありません?」


 桂花が笑う。


「だって、この色も似合うと思ったのよ」

「何着作るおつもりです?」

「まだ決めてないわ」


 春蘭は淡い緑の布を玉鈴の肩へ当て、少し離れて眺める。


「これも可愛い」

「奥様」

「何よ」

「楽しんでおられますね」

「……悪い?」

「いいえ」


 桂花が笑った。

 春蘭は布を卓へ戻す。

 今度は自分で選ばず、玉鈴を見た。


「玉鈴は、どれが好き?」


 玉鈴が目を瞬く。


「……私ですか?」

「ええ。玉鈴が着るんだもの」


 並べられた布を見る。

 なかなか手が動かない。

 どれを着ろ、と言われれば従える。

 これを持て、と渡されれば受け取れる。

 けれど。


 ――どれが好き?


 そんなことを聞かれたことはなかった。

 玉鈴の視線が、布の上をゆっくりと動く。

 淡い緑。

 薄桃。

 黄色。

 そして、水色。

 指先が、ほんの少し動いた。

 けれど、触れる前に止まる。

 春蘭は急かさなかった。

 桂花も何も言わない。

 しばらくして。

 玉鈴の指先が、おそるおそる一枚の布へ触れた。


「……これ」


 淡い水色だった。


 春蘭の顔が、ふっとほころぶ。


「うん。きっと似合うわ」


 それだけ言って、布を玉鈴の肩へそっと掛けた。

 鏡の中に、淡い水色を纏った小さな姿が映る。

 玉鈴はしばらく、その自分を見ていた。


 初めて手にした、自分のお金。

 初めて聞かれた、自分の好きな色。


 まだ、ほんの小さなものだった。

 けれど玉鈴の中に、それまでなかったものが少しずつ増え始めていた。


 ――自分で選んでいいものがある。


 そのことを、玉鈴はまだゆっくりと覚え始めたばかりだった。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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