帰る場所がない
玉鈴が次に目を開けたとき、見知らぬ天井があった。
白い漆喰の天井に、濃い色の梁が渡っている。開け放たれた窓から朝の光が差し込み、薄い紗の帳を透かして寝台の上へ柔らかく落ちていた。
どこかで鳥が鳴いている。
風が入るたび、窓辺に吊るされた小さな飾りが、かすかな音を立てた。
玉鈴は何度か瞬きをした。
身体の下が、柔らかい。
そっと手を動かすと、白い敷布に指先が沈んだ。
こんな寝床で眠ったことはなかった。
柳家で与えられていたのは、使用人部屋の板張りの床に敷いた一枚の筵だった。古い布を重ね、畳んだ衣を枕代わりにする。それで十分なのだと教えられてきた。
けれど、今は厚みのある敷布の上にいる。頭の下には綿の入った枕。身体には見覚えのない清潔な寝衣が着せられ、額と肩には白い布まで巻かれていた。
玉鈴はゆっくり身体を起こそうとした。
「……っ」
右肩に痛みが走った。
「あら。目が覚めたの?」
窓際から声がした。
玉鈴の身体が強張る。
椅子に座っていた女が立ち上がった。
桂花という名の、四十代も終わりに近い女だった。少しふっくらとした身体に、藍色の上衣と濃い裙という飾り気のない姿。黒髪は後ろで丸くまとめられ、ところどころに白いものが混じっている。
丸みのある顔立ちに、目尻の下がった柔らかな目をしていた。
「よかった。昨日は一度も目を覚まさなかったから、心配したのよ」
桂花が近づき、額へ手を伸ばす。
その瞬間。
玉鈴の肩がびくりと揺れた。
柳家では、何度も叩かれてきた。手が上がれば、考えるより先に身体が強張る。
伸ばされた手が止まる。
「……ごめんなさいね。驚かせた?」
玉鈴は答えず、目を伏せた。
桂花もそれ以上は触れなかった。
「お医者様を呼んでくるから、まだ動いちゃ駄目よ」
そう言って扉へ向かいかける。
背後で、布の擦れる音がした。
桂花が振り返った。
玉鈴が掛布を退けている。
「ちょっと。何してるの」
「……あの」
玉鈴は柔らかな敷布を見た。
「私、奴隷なので……このような寝台は、使えません」
「……奴隷?」
桂花の顔から笑みが消えた。
玉鈴はそれを怒らせたのだと思ったのか、急いで細い脚を寝台の外へ出そうとする。
「申し訳ございません。すぐに――」
「待って」
桂花が止めた。
けれど、玉鈴には触れなかった。
「あなた、自分を奴隷だと言ったの?」
「……はい」
「誰かに、そう言われたの?」
「……はい、そうです」
桂花はしばらく玉鈴を見つめた。
この国で奴隷という身分は、すでに認められていない。
かつて奴隷だった者も解放され、人を所有することそのものが禁じられている。
それなのに、目の前の娘は何の疑いもなく、自分を奴隷だと言った。
「……そう」
桂花は、それ以上ここで問い詰めなかった。
今は、怪我をして目を覚ましたばかりだ。
「でもね。少なくとも、このお屋敷に奴隷はいないの」
「……」
「ここで働いている私たちも、みんなお給金をいただいて働いているのよ。だから、あなたがその寝台で眠っても、誰にも怒られない」
玉鈴は寝台を見た。
けれど、脚を戻さない。
「床で大丈夫です」
「大丈夫じゃありません。怪我してるのよ」
桂花は困ったように眉を下げた。
少し考えてから、玉鈴と目線が近くなるよう腰を屈める。
「私は桂花。ここの女中よ。あなたは?」
「……玉鈴です」
「玉鈴ね」
桂花は、もう一度柔らかく笑った。
「じゃあ玉鈴。お医者様がいいと言うまでは、その寝台があなたの寝床。これは私が勝手に決めたんじゃなくて、ここの旦那様のご命令。だから使っていいの」
命令。
その言葉に、玉鈴の目が動いた。
しばらくして、出しかけていた脚をそっと戻す。
桂花は何も言わず、掛布だけを整えた。
◇
呼ばれてきた医者は、玉鈴の額や肩を診て、腕や脚をゆっくりと動かした。
幸い、骨は折れていない。
頭を打っているため数日は安静にすること。肩や背中には強い打ち身があり、身体のあちこちに細かな傷もある。
だが、医者がそれ以上に眉をひそめたのは、玉鈴の身体そのものだった。
袖を捲れば、腕は驚くほど細い。
手首には骨が浮いている。
「いくつだ?」
「……わかりません」
医者が顔を上げる。
「生まれた年は?」
「……わかりません」
それ以上、玉鈴から答えは出なかった。
医者は細い手首を取り、長く脈を診た。
「……ずいぶん弱っているな」
独り言のように呟き、桂花を見る。
「食べられるものを少しずつ。無理に食わせるな。粥からでいい」
「分かりました」
医者が帰ってしばらくすると、桂花が白い粥を運んできた。
湯気の立つ椀を寝台脇の卓へ置く。
「食べられそう?」
「……はい」
「無理なら残していいからね」
玉鈴が顔を上げた。
「……残して?」
「ええ。食べられるだけでいいのよ」
桂花は何でもないことのように言って、窓際へ移った。
玉鈴はしばらく椀を見つめていた。
それから匙を取る。
一口。
温かい。
もう一口。
きちんと喉を通った。
三口目も入る。
華蓮が皇都へ行ってから、少しずつ食べられるようになっていた。
半分ほど食べたところで、扉が開いた。
玉鈴の手が止まる。
入ってきた男を見上げた。
大きい。
最初にそう思った。
韓子昂は四十歳。背は高く、肩幅も広い。濃紺の長衣の上からでも、長く武に携わってきた身体だと分かる。
日に焼けた精悍な顔に、まっすぐな太い眉。やや細い黒い目と高い鼻梁を持ち、黒髪は高い位置で結い上げている。腰には剣を佩いていた。
森で意識を失っていた玉鈴は、自分を抱き上げた男の顔を知らない。
子昂が一歩、部屋へ入る。
玉鈴の身体が目に見えて強張った。
匙を握る細い指に力が入る。
「旦那様」
桂花が声を掛けた。
「何だ」
「そのまま近づくと、この子が怖がりますよ」
子昂が足を止めた。
寝台を見る。
そこでは、小さな娘が掛布の中で身体を縮めていた。
子昂は自分の腰を見る。
剣を外し、入口近くの卓へ置いた。
「これでいいか」
「剣の話じゃありません。旦那様が大きいから怖がるんです」
「それはどうしようもないだろう」
桂花が笑う。
子昂も怒らない。
玉鈴は二人を見ていた。
使用人が主人へこんなふうにものを言うところを、ほとんど見たことがなかった。
子昂が少し離れたところで立ち止まる。
「目が覚めたと聞いた。具合は――」
玉鈴は匙を置いた。
掛布を退ける。
「おい。まだ動くな」
止められても、玉鈴は寝台から降りた。
足が床についた途端、身体が大きく傾く。
それでも踏みとどまり、その場へ膝をついた。
両手を床につく。
額まで下ろした。
子昂の眉が寄った。
「何をしている」
「……申し訳、ございません」
「何がだ」
「奴隷なのに…寝台を使ってしまいました」
桂花が口を開きかける。
「玉鈴、それは――」
「桂花」
子昂が静かに止めた。
床へ額をつけた娘を見る。
清潔な寝衣から覗く腕は細く、小さな背中がわずかに震えている。
「……お前、自分を奴隷だと思っているのか」
「……はい」
部屋が静かになった。
子昂は改めて玉鈴を見る。
十か十一ほどにしか見えない。
狭い肩。
こけた頬。
乾いた黒髪。
青白い顔の中で、大きな黒い瞳だけがひどく目立っている。
「顔を上げろ」
玉鈴は動かなかった。
子昂は少し間を置いた。
「怒っているわけではない。顔を上げてくれ」
恐る恐る、玉鈴が顔を上げる。
子昂はその場へしゃがんだ。
それでも大きい。
玉鈴の肩がまたわずかに縮こまる。
「玉鈴。この国に、奴隷という身分はもうない」
玉鈴が瞬きをした。
「人を奴隷として所有することは禁じられている。かつて奴隷だった者も、すでに解放されている」
「……」
「この屋敷で働く者も皆、給金を受け取って働いている。誰かの所有物ではない」
玉鈴は黙って聞いていた。
けれど、その顔には理解より困惑の方が濃い。
「お前がこれまでどこで、どんな暮らしをしていたのかは知らん」
子昂は床についたままの細い手を見る。
「だが、ここでお前を奴隷として扱う者はいない」
「……でも」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「私は……奴隷です」
「ああ。お前は、そう教えられてきたんだな」
玉鈴の目が動く。
「だが、怪我人を床には寝かせん。寝台を使ったことで罰を受けることもない。まずは、それだけ覚えておけ」
子昂は寝台を顎で示した。
「戻れ」
玉鈴の身体が強張った。
「罰ではない」
すぐに付け加える。
「怪我人だからだ」
子昂は手を伸ばさなかった。
大きな身体を屈めたまま、ただ待った。
やがて玉鈴は、そっと床から手を離した。
立ち上がる。
ふらつきながら寝台まで戻り、端へ腰を下ろした。
「そう。それでいいのよ」
桂花が掛布を掛け直す。
玉鈴は小さく頷いた。
「名は、玉鈴だったな」
「……はい」
「私は韓子昂。この屋敷の主人だ」
玉鈴は反射的に深く頭を下げかけた。
途中で止まる。
少し迷ってから、寝台の上で小さく頭を下げた。
「……助けていただき、ありがとうございます」
「ああ」
子昂は卓の椀を見る。
「粥が冷める。食べろ」
それだけ言うと、剣を取り、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
玉鈴は、そこをしばらく見つめていた。
「怖い顔でしょう?」
桂花が言った。
玉鈴が桂花を見る。
「でも、悪い方じゃありませんよ」
桂花は何事もなかったように、窓際で布を畳み始めた。
玉鈴は匙を取った。
粥は、まだ温かかった。
◇
玉鈴が韓家で目を覚ました頃。
柳家の者たちは、まだ山中を探していた。
壊れた荷馬車は見つかった。
外れた車輪も。
散らばった荷も。
逃げた馬も。
玉鈴だけがいなかった。
「もっと下まで探せ!」
文徳の命で、護衛たちは斜面を下り、藪を掻き分けた。
沢を調べ、崖の下にも人を向かわせる。日が暮れても見つからず、翌朝には近くの村や宿場へ人を走らせた。
怪我をした小さな娘を見なかったか。
誰かに拾われなかったか。
賊の残党が連れ去った可能性も調べさせた。
それでも手がかりはなかった。
「街道も当たれ」
文徳は命じた。
「生きているなら、必ずどこかを通る。村、宿場、商人――見落とすな」
「はっ」
人が散っていく。
文徳は横倒しになった荷馬車を見た。
玉鈴がいなければ困る。
華蓮の身体を保つために必要なのだ。
ただ、それだけだった。
数日後。
文徳は皇都へ文を送った。
玉鈴が、消えた。
◇
「……いない?」
華蓮は寝台の上で、父から届いた文を読み返した。
山中で賊に襲われた。
玉鈴の乗った荷馬車が林へ入り込んだ。
荷馬車は見つかった。
だが、玉鈴はいない。
周辺の村や宿場まで捜しているが、まだ手がかりはない。
「何よ、それ……」
紙を握る指に力が入った。
別の者では意味がない。
必要なのは玉鈴だ。
華蓮は寝台脇の鏡を取った。
鏡の中には、十五歳の美しい娘が映っている。
腰まで流れる量の多い漆黒の髪。目尻がわずかに上がった切れ長の黒い目。すっと通った鼻筋に、細い顎へ続く卵型の顔。
まだ美しい。
けれど、柳家を出た朝とは違う。
白い頬から血色が薄れ始めている。
朝も起きにくくなった。
身体の奥には、以前の重さが戻りつつあった。
「探して……」
華蓮は鏡を置いた。
「早く見つけてよ……」
玉鈴がどこで怪我をしているのか。
生きているのか。
それを案じる言葉は、一つもなかった。
◇
それでも、皇城での華蓮の暮らしが不自由になることはなかった。
身体がつらければ、外へ出る必要などない。
欲しいものの方を、部屋へ運ばせればよかった。
その日も、華蓮の宮には皇都で名の知れた宝石商が呼ばれていた。
卓の上に、小箱が次々と開かれていく。
紅玉。
翡翠。
真珠。
金細工の簪。
透かし彫りの腕輪。
華蓮は長椅子へ身体を預けたまま、一つずつ手に取った。
「こちらは西域から入った紅玉でございます」
「綺麗ね」
「御髪には、こちらの金細工もよくお似合いになるかと」
「それも見せて」
宮女が簪を受け取り、華蓮の黒髪へ当てる。
華蓮は鏡の中で角度を変えて眺めた。
「これ、いただくわ。さっきの翡翠も」
商人の顔がほころぶ。
「こちらの真珠はいかがでございましょう」
「それも置いていって」
華蓮の前から、空になった小箱が次々と片づけられていった。
◇
「陛下」
執務室で書状を読んでいた景焱は、顔を上げなかった。
「何だ」
財を預かる官吏が、帳面を抱えて立っている。
「華蓮様がお使いになるため、今年お取りしておりました御用金のことでございますが……」
「足りぬのか」
「いえ。その……すでに、一年分のほとんどをお使いになられまして」
そこでようやく景焱が顔を上げた。
「それがどうした」
「……は」
「十四年分あるだろう」
官吏が目を瞬いた。
景焱は再び書状へ目を落とした。
「明珠のために使うはずだったものを、十四年間使っていない。好きにさせろ」
「……承知いたしました」
十四年間、何一つしてやれなかった。
衣一枚。
簪一本。
菓子一つ。
本来なら与えられたはずのものを、明珠は何一つ受け取ることができなかった。
金で十四年が戻るとは思っていない。
それでも、欲しいものがあるのなら我慢させる理由もなかった。
景焱は次の書状を開いた。
◇
玉鈴が見つからないまま、日だけが過ぎていった。
華蓮の身体には、少しずつ変化が現れていた。
朝、寝台から起き上がるまでに時間がかかる。
階を上がれば息が切れる。
時折、胸の奥で心の臓が不規則に跳ねた。
それは、華蓮がよく知っている感覚だった。
幼い頃。
少し走っただけで胸が苦しくなった。
息が吸えず、寝台から起きられない日もあった。
いつしか、それはなくなった。
身体は丈夫になり、長く歩いても息切れひとつしなくなった。
なくなったのではない。
玉鈴から気を取るようになってから、出なくなったのだ。
その朝も、華蓮は鏡の前に座っていた。
宮女が長い黒髪へ櫛を通していく。
柳家にいた頃の華蓮の髪は、黒絹を流したように艶やかだった。太く、量があり、腰まで真っ直ぐに流れる髪は、櫛を入れれば毛先まで滑るように通った。
それが、ここ数日は違う。
まだ美しい黒髪には違いない。
けれど以前ほどの艶はなく、触れればわずかに乾いている。
櫛が途中で引っかかった。
「痛っ」
華蓮が振り返る。
「申し訳ございません」
「痛いんだけど」
宮女の顔から、さっと血の気が引いた。
「申し訳ございません。すぐに――」
「もういい。下がって」
華蓮は髪を押さえながら、鏡越しに宮女を睨んだ。
「別の者を呼んで。あなた、明日から来なくていいから」
宮女は唇を引き結んだ。
「……承知いたしました」
深く頭を下げ、部屋を出ていく。
「早く次の人を呼んで。髪が途中でしょう」
◇
韓家で目を覚ましてから、五日が過ぎた。
玉鈴はようやく、一人で寝台から降りることを許された。
肩の痛みもかなり引いている。
この五日間、毎日三度、食事が運ばれてきた。
朝には粥。
昼には野菜や柔らかく煮た肉。
夜にも温かな膳が届く。
薬も塗ってもらった。
残しても叱られなかった。
食べられない日は、桂花が「またあとで食べればいい」と下げてくれた。
それが玉鈴には、何より不思議だった。
その日、玉鈴は畳まれていた自分の衣へ着替えた。
色褪せた粗い布。
何度も繕われた袖。
擦り切れた裾。
清潔な寝衣を脱ぎ、それを身につける。
部屋を出ると、廊下の向こうから若い女中が盆を持って歩いてきた。
空になった茶器が載っている。
玉鈴は足を止めた。
「……持ちます」
「え?」
両手を差し出す。
「それ」
「いいよ。まだ怪我人でしょう?」
女中は笑って、そのまま通り過ぎていった。
「部屋に戻って休んでなよ」
玉鈴の手だけが宙に残った。
やがて、ゆっくりと下ろす。
何もしなくていい。
そう言われても、何をすればいいのか分からなかった。
◇
翌日。
医者から、もう寝ている必要はないと言われた。
ただし、重いものは持たないこと。
肩の傷が開くようなこともしないこと。
その日の午後。
玉鈴は中庭の端にいた。
韓家の中庭は柳家ほど広くも華美でもなかったが、陽当たりがよかった。
白壁に囲まれた庭には小さな桂花の木が植えられ、その下では大きな甕に水が張られている。開け放した窓からは茶の香りが漂い、軒下では干された布が風を受けて揺れていた。
籠には、乾いた布が何枚も積まれている。
玉鈴は一枚取った。
端と端を合わせる。
丁寧に畳んで、籠へ入れた。
次の一枚。
「何してるの?」
声がして、玉鈴の手が止まった。
桂花だった。
「……畳んでいます」
「それは見れば分かるけど」
桂花が笑う。
「働きたいの?」
玉鈴は顔を上げた。
少しして、頷く。
「……はい」
「まだ怪我が治ったばっかりなのに」
玉鈴は畳んだ布を籠へ置いた。
端が少しずれている。
もう一度開き、きちんと合わせ直す。
桂花はその手元を見ていた。
「そんなにきっちりしなくてもいいのよ」
玉鈴は小さく頷いた。
次の布も、きちんと端を合わせた。
桂花は何も言わず、その隣へ腰を下ろした。
自分も一枚取る。
風に揺れる布の下で、二人はしばらく黙って洗濯物を畳んだ。
◇
その話は夕方には使用人頭へ伝わり、子昂の耳にも入った。
「働きたい?」
「はい。何もしないでいる方が落ち着かないようでございます」
子昂は書類から顔を上げた。
「帰る家は」
「ないそうです」
「家族は?」
「それも、いないと」
子昂の手が止まった。
山中で拾った、小さな娘。
自分を奴隷だと信じている。
年齢も分からない。
家族もいない。
帰る場所さえない。
どこの家にいたのか、なぜあの荷馬車に乗っていたのか。まだ詳しいことは聞いていない。
怪我から回復したばかりの娘を問い詰める必要もないと思っていた。
「なら、置いてやれ」
「よろしいので?」
「ああ」
子昂は再び書類へ目を落とした。
「本人が働きたいなら、身体に障らない仕事だけさせろ。まだ重いものは持たせるな」
「承知いたしました」
「それと」
筆を取ろうとして、止まる。
「働かせるなら、当然給金を出せ」
「はい」
使用人頭が頭を下げる。
子昂は書類へ視線を戻した。
◇
翌朝から、玉鈴は韓家で仕事をするようになった。
乾いた布を畳む。
廊下の低い棚を拭く。
花瓶の水を替える。
教えられた仕事が終われば、次にすることを聞きに行く。
急げと怒鳴られることはない。
少し遅れても、叩かれない。
まだそれに慣れないまま、玉鈴は一つずつ仕事を覚えていった。
昼過ぎ。
使い終わった器を厨房へ運んだときだった。
「おい、そこのちっこいの」
太い声に、玉鈴が振り返る。
大きな腹に前掛けを巻いた料理人が、小皿を持って立っていた。
「これ、食うか?」
差し出された皿の上に、小さな丸い菓子が一つ載っている。
白い皮の表面には花の形が押され、中央に小さな赤い実が飾られていた。
玉鈴はじっと見た。
「……これは?」
「菓子だよ。余ったから食べな」
玉鈴は料理人を見る。
それから、もう一度菓子を見る。
「……私に?」
「他に誰がいるんだ」
料理人が笑った。
玉鈴はおそるおそる両手を差し出した。
その掌へ、小さな菓子が載せられる。
「……ありがとうございます」
「おう」
玉鈴はしばらく眺めていた。
こんなに白く、丸く、綺麗な食べ物を自分が口にしていいのか分からない。
けれど、返せとも言われない。
ほんの少しだけ齧った。
柔らかな皮の中から、甘い餡が舌に触れた。
玉鈴の動きが止まる。
もう一度。
今度は、さっきより少しだけ大きく齧った。
「どうした。嫌いか?」
玉鈴は首を横に振った。
「……甘いです」
へにゃりと、眉尻が下がった。
「菓子だからな」
料理人が笑う。
玉鈴はまた一口齧った。
また、眉尻が下がる。
「そんなにうまいか」
こくり。
今度は料理人が声を立てて笑った。
玉鈴は菓子へ目を戻す。
一口ずつ、小さく齧る。
なくなってしまうまで、ずいぶん時間がかかった。
◇
その夜。
玉鈴が寝台へ入ろうとしたところで、扉が叩かれた。
「玉鈴、まだ起きてる?」
桂花だった。
扉を開けると、小さな紙包みを持っている。
「これ」
差し出された包みを、玉鈴は両手で受け取った。
開いてみる。
中に入っていたのは、昼間と同じ菓子だった。
玉鈴が顔を上げる。
「料理人がね。余ったからって」
昼にも聞いた言葉だった。
「今日はもう食べたでしょう? 明日でもいいよ」
玉鈴は菓子を見る。
「……明日?」
「そう。明日まで取っておいても、悪くならないから」
細い指が、紙包みをそっと閉じた。
「……ありがとうございます」
「はい。おやすみ」
桂花が出ていく。
玉鈴はしばらく、その場に立っていた。
やがて寝台へ戻り、紙包みを枕元へ置く。
すぐには食べなかった。
明日の朝になっても、ここにある。
自分が食べるまで、誰も取らない。
玉鈴は掛布へ入り、枕元の小さな包みをもう一度見た。
今日初めて知った、甘い味。
それが明日も、自分のために残っている。
玉鈴はそっと目を閉じた。
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2日に1回、20時10分更新予定です。
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