行きたくない
華蓮からの文が柳家へ届いたのは、皇都へ発ってから十日ほど経った頃だった。
皇城からの使者が門をくぐると、柳家の者たちはすぐさま客間へ通した。
柳文徳は届けられた文を開く。
上質な紙に書かれていたのは、わずか二行だった。
――玉鈴を都へ連れてきて。
――できるだけ早く。
隣から文面を覗き込んでいた蘇麗華が、小さく息を吐いた。
「……やはり、必要になったのね」
文徳も黙って頷いた。
華蓮が幼い頃から身体が弱かったことを、二人はよく知っている。
少し身体を動かしただけで胸を苦しがり、幾日も寝台から起き上がれないこともあった。
それが玉鈴から気を受けるようになってから、目に見えて変わった。
寝込む日は減り、食も進むようになった。
青白かった頬には血色が戻り、成長するにつれて目を引くほど華やかな娘になった。
玉鈴から離れて、十日余り。
華蓮が何を求めているのか、説明されるまでもなかった。
「ちょうどよい。こちらも近いうちに皇都へ向かわねばならん」
龍帝の番を育てた家。
その父母として、文徳と麗華にも皇都へ上るよう命が届いている。
華蓮へ届ける衣や薬、柳家から皇城へ献上する品々の準備も、すでに始まっていた。
「三日後に発つ」
「分かりました」
麗華が文を受け取る。
文徳は卓上の茶へ手を伸ばした。
「玉鈴も連れていく」
◇
その頃。
玉鈴は裏庭で水を運んでいた。
井戸から汲み上げた水を桶へ移し、両手で持ち上げる。
いつものように数歩進んだところで、一度地面へ置こうとして。
玉鈴は少しだけ首を傾げた。
そのまま、もう一歩進む。
まだ持てる。
水の入った桶が軽いわけではない。細い腕には重さがかかり、指も痛い。
けれど以前なら、井戸から厨房へ運ぶだけで何度も休まなければならなかった。
今日は、まだ歩けた。
厨房の裏口まで運び、水甕へ移す。
空になった桶を持って、再び井戸へ戻った。
次は洗い終えた布を籠へ入れる。
それも運んだ。
昼を過ぎても、足が動く。
膝も震えていない。
いつも身体の奥にまとわりついていた重さが、少し薄れている。
華蓮がいなくなってから、食べられる量もほんのわずかに増えていた。
玉鈴には、その理由が分からなかった。
ただ、今日は身体が動く。
それだけだった。
「玉鈴」
呼ばれて、顔を上げる。
使用人頭が立っていた。
「お前も支度をしておけ。三日後に都へ行くぞ」
玉鈴は目を瞬いた。
都。
自分には縁のない場所だと思っていた。
「華蓮様がお呼びだ」
握っていた布が、手の中で止まった。
胸の奥が冷える。
頭で考えるより先に、身体が覚えていた。
華蓮の部屋。
差し出すよう命じられる手。
手首を掴まれ、身体の中から温かなものが抜けていく感覚。
立っていられなくなるほど重くなる身体。
食べることもできなくなる夜。
玉鈴の指が、布をきつく握った。
――行きたくない。
その思いが浮かんだことに、自分自身が驚いた。
行きたいか。
行きたくないか。
そんなことを考える意味などないと思っていた。
命じられたら行く。
呼ばれたら手を差し出す。
それが当たり前だった。
それでも。
――行きたくない。
もう一度、はっきりと思った。
けれど、それを口にすることはできなかった。
自分は奴隷なのだから。
玉鈴に、主人の命令を断るという考えはなかった。
「……はい」
小さく頭を下げた。
◇
三日後。
柳家の門前には、まだ朝靄の残るうちから何台もの馬車が並んでいた。
文徳と麗華が乗る車は黒漆塗りで、窓には薄い簾が掛けられている。長旅に備えて座面には厚い敷物が重ねられ、水や茶、道中で口にする菓子まで用意されていた。
その後ろには使用人たちの馬車。
さらに何台もの荷馬車が続く。
反物。
衣装箱。
薬。
菓子。
香。
華蓮へ届ける品々だった。
玉鈴が乗せられたのは、一番後ろに近い荷馬車だった。
幌のない荷台には木箱や籠が積み上げられ、太い縄で括られている。その隙間に、人ひとりがようやく座れるほどの場所が空けられていた。
「そこに乗れ」
玉鈴は黙って荷台へ上がった。
華蓮の衣装箱の横に腰を下ろす。
持っている荷物は、小さな布包み一つ。
色褪せた衣が数枚入っているだけだった。
門が開く。
馬が動き出し、車輪が石畳の上をゆっくりと回り始めた。
長い一行が、柳家を離れていく。
玉鈴は振り返らなかった。
町を抜ける頃には、朝市が始まっていた。
道端には青菜や果物が並び、大きな蒸籠から白い湯気が立ち昇っている。赤や黄色の布を張った店先を人々が行き交い、子供が焼き菓子を手に駆けていく。
玉鈴は荷箱の間から、それを黙って見ていた。
柳家の外へ出ること自体、ほとんどなかった。
やがて家々が減り、景色は田畑へ変わった。
さらに進めば、遠くに低い山々が連なる。
皇都までは何日もかかる。
日が暮れれば宿場へ入り、翌朝にはまた発つ。
文徳と麗華には宿の奥に部屋が用意され、温かな食事と湯が運ばれた。
玉鈴は使用人たちと同じ場所で眠り、夜が明ければまた荷馬車へ乗った。
それでも。
以前とは違っていた。
何日揺られても、身体が思っていたほど疲れない。
荷台の硬い板で腰や背中は痛んだ。
それでも朝になれば、自分で起き上がれた。
渡された食事も、前より少しだけ多く食べられる。
華蓮から離れて十数日。
長い間奪われ続けていた身体は、ほんのわずかずつ、本来の力を取り戻し始めていた。
◇
三日目の午後。
一行は山間の道へ入っていた。
片側には木々の生い茂る斜面が迫り、反対側には深い林が続いている。
道幅は狭く、馬車が二台並んで通ることもできない。
陽はまだ高い。
それなのに林の中は薄暗く、湿った土と苔の匂いがした。
先頭を行く護衛の一人が、周囲を見回す。
鳥の声がしない。
聞こえるのは、車輪が土を踏む音と、風が木の葉を揺らす音だけだった。
その静けさを破ったのは、短い叫び声だった。
「止まれ!」
直後、前方で馬が激しくいなないた。
何かが倒れる音。
怒号。
剣を抜く音が重なる。
「賊だ!」
荷台に座っていた玉鈴が顔を上げた。
山道の両側から、粗末な衣に刃物を持った男たちが飛び出してくる。
柳家の紋を掲げた何台もの馬車。
荷を満載した車。
金のある一行だと、一目で分かったのだろう。
護衛たちが剣を抜いた。
文徳たちの車を囲むように人が集まり、後方の護衛も前へ駆けていく。
玉鈴は荷箱の間で身体を小さくした。
一本の矢が飛んだ。
荷馬車のすぐ脇を抜ける。
馬の首元を掠めた。
「ヒィンッ!」
馬が大きくいなないた。
前脚が跳ね上がる。
「待て! 止まれ!」
御者が必死に手綱を引く。
だが、怯えた馬は止まらなかった。
荷馬車が激しく揺れた。
御者の身体が座席から投げ出される。
手綱が地面へ落ちた。
次の瞬間。
馬が走り出した。
玉鈴は咄嗟に荷台の縁を掴んだ。
車輪が石を踏み、身体が大きく跳ねる。
積まれた木箱が軋み、籠が倒れた。
荷馬車は山道を外れ、そのまま林の中へ飛び込んだ。
枝が顔の高さまで張り出してくる。
玉鈴は身を伏せた。
細い枝が頬を掠める。
痛みが走った。
それでも馬は止まらない。
木々の間を、狂ったように走っていく。
車輪が太い木の根を乗り越えた。
荷台が大きく傾く。
括られていた木箱が一つ外れ、玉鈴の方へ滑ってきた。
肩へぶつかる。
小さな身体が横へ投げ出された。
それでも縁を掴んだ手だけは離さなかった。
次の瞬間。
前輪が大きな石へ乗り上げた。
荷馬車が跳ねる。
玉鈴の指が外れた。
身体が宙へ放り出される。
地面へ叩きつけられた。
一度。
二度。
そのまま斜面を転がっていく。
何かに肩を強く打った。
息が詰まる。
さらに転がり、木の根へ身体がぶつかった。
そこで。
玉鈴は動かなくなった。
◇
山道で賊が出たとの知らせを聞きつけたのは、ちょうど皇都へ戻る途中だった韓子昂の一行だった。
官兵を伴っていたこともあり、戦いは長く続かなかった。
柳家の護衛と官兵に挟まれた賊たちは、数人が捕らえられ、残りは山へ逃げ込んでいく。
「怪我人を見ろ。動ける者から道を空けろ」
子昂の低い声が飛ぶ。
「馬を落ち着かせろ。逃げた賊を深追いするな」
兵たちが一斉に散った。
倒れた者が起こされ、道を塞いだ荷物が脇へ寄せられていく。
その中の一人が、林の方を見て足を止めた。
「韓様」
「どうした」
「こちらに車輪の跡があります」
子昂が振り返る。
山道から外れ、草を押し潰した跡が林の奥へ続いていた。
折れた枝も散らばっている。
「一台、入り込んだようです」
「行くぞ」
子昂は数人の兵を連れ、林へ入った。
車輪の跡はすぐに見つかった。
湿った土を深く抉り、ところどころ木の根を踏み越えている。
やがて、横倒しになった荷馬車が見えた。
車輪が一つ外れ、木箱や籠が周囲へ散乱している。
反物が泥の上に広がり、色鮮やかな菓子が踏み潰されていた。
馬は少し離れた木のそばで止まり、荒い息を吐いている。
「人は?」
「見当たりません」
子昂は壊れた荷台を見た。
積み荷ばかりで、人が乗っていたかどうかは分からない。
だが、少し手前の草が不自然に倒れている。
子昂はその跡を追った。
斜面へ続いている。
土が抉れ、草が折れていた。
その先。
木の根元に、何かが見えた。
「……人だ」
子昂が斜面を下りる。
兵たちも後を追った。
木の根元に倒れていたのは、小さな娘だった。
十を越えたばかりにしか見えない。
色褪せた粗末な衣。
何度も繕われた袖。
擦り切れた裾。
ひどく痩せた身体は地面へ投げ出され、頬には枝で切ったらしい赤い筋が走っている。
黒髪は土と枯葉にまみれ、顔へ張りついていた。
子昂はその場に膝をついた。
首元へ指を当てる。
ほんのわずかに。
脈が触れた。
「……生きている」
後ろから兵が駆け下りてくる。
子昂は娘の身体へ手を差し入れ、そっと抱き上げた。
その瞬間。
眉が寄った。
軽い。
あまりにも軽い。
子供にしか見えないとはいえ、それでも軽すぎた。
腕の中で、娘の頭が力なく傾く。
閉じられた目を縁取る睫毛だけが、不釣り合いなほど長かった。
「韓様、その娘は……」
「分からん」
子昂は玉鈴の顔を見た。
もちろん、このときはまだ名前さえ知らない。
柳家の人間なのか。
使用人なのか。
なぜあの荷馬車に乗っていたのか。
何も分からない。
分かるのは、このまま置いていけば死ぬかもしれないということだけだった。
子昂は立ち上がる。
小さな身体を抱き直した。
「連れて帰るぞ」
兵が顔を上げる。
「医者を呼べ」
子昂はそのまま、意識のない玉鈴を抱いて林を出た。
お読みいただきありがとうございます。
2日に1回、20時10分更新予定です。
続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。




