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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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6/13

行きたくない

 華蓮からの文が柳家へ届いたのは、皇都へ発ってから十日ほど経った頃だった。

 皇城からの使者が門をくぐると、柳家の者たちはすぐさま客間へ通した。

 柳文徳《りゅう・ぶんとく》は届けられた文を開く。

 上質な紙に書かれていたのは、わずか二行だった。


 ――玉鈴を都へ連れてきて。


 ――できるだけ早く。


 隣から文面を覗き込んでいた蘇麗華《そ・れいか》が、小さく息を吐いた。


「……やはり、必要になったのね」


 文徳も黙って頷いた。

 華蓮が幼い頃から身体が弱かったことを、二人はよく知っている。

 少し身体を動かしただけで胸を苦しがり、幾日も寝台から起き上がれないこともあった。

 それが玉鈴から気を受けるようになってから、目に見えて変わった。

 寝込む日は減り、食も進むようになった。

 青白かった頬には血色が戻り、成長するにつれて目を引くほど華やかな娘になった。

 玉鈴から離れて、十日余り。

 華蓮が何を求めているのか、説明されるまでもなかった。


「ちょうどよい。こちらも近いうちに皇都へ向かわねばならん」


 龍帝の番を育てた家。

 その父母として、文徳と麗華にも皇都へ上るよう命が届いている。

 華蓮へ届ける衣や薬、柳家から皇城へ献上する品々の準備も、すでに始まっていた。


「三日後に発つ」

「分かりました」


 麗華が文を受け取る。

 文徳は卓上の茶へ手を伸ばした。


「玉鈴も連れていく」


 ◇


 その頃。

 玉鈴《ぎょくれい》は裏庭で水を運んでいた。

 井戸から汲み上げた水を桶へ移し、両手で持ち上げる。

 いつものように数歩進んだところで、一度地面へ置こうとして。

 玉鈴は少しだけ首を傾げた。

 そのまま、もう一歩進む。

 まだ持てる。

 水の入った桶が軽いわけではない。細い腕には重さがかかり、指も痛い。

 けれど以前なら、井戸から厨房へ運ぶだけで何度も休まなければならなかった。

 今日は、まだ歩けた。

 厨房の裏口まで運び、水甕へ移す。

 空になった桶を持って、再び井戸へ戻った。

 次は洗い終えた布を籠へ入れる。

 それも運んだ。

 昼を過ぎても、足が動く。

 膝も震えていない。

 いつも身体の奥にまとわりついていた重さが、少し薄れている。

 華蓮がいなくなってから、食べられる量もほんのわずかに増えていた。

 玉鈴には、その理由が分からなかった。

 ただ、今日は身体が動く。

 それだけだった。


「玉鈴」


 呼ばれて、顔を上げる。

 使用人頭が立っていた。


「お前も支度をしておけ。三日後に都へ行くぞ」


 玉鈴は目を瞬いた。

 都。

 自分には縁のない場所だと思っていた。


「華蓮様がお呼びだ」


 握っていた布が、手の中で止まった。

 胸の奥が冷える。

 頭で考えるより先に、身体が覚えていた。

 華蓮の部屋。

 差し出すよう命じられる手。

 手首を掴まれ、身体の中から温かなものが抜けていく感覚。

 立っていられなくなるほど重くなる身体。

 食べることもできなくなる夜。

 玉鈴の指が、布をきつく握った。


 ――行きたくない。


 その思いが浮かんだことに、自分自身が驚いた。

 行きたいか。

 行きたくないか。

 そんなことを考える意味などないと思っていた。

 命じられたら行く。

 呼ばれたら手を差し出す。

 それが当たり前だった。

 それでも。


 ――行きたくない。


 もう一度、はっきりと思った。

 けれど、それを口にすることはできなかった。

 自分は奴隷なのだから。

 玉鈴に、主人の命令を断るという考えはなかった。


「……はい」


 小さく頭を下げた。


 ◇


 三日後。

 柳家の門前には、まだ朝靄の残るうちから何台もの馬車が並んでいた。

 文徳と麗華が乗る車は黒漆塗りで、窓には薄い簾が掛けられている。長旅に備えて座面には厚い敷物が重ねられ、水や茶、道中で口にする菓子まで用意されていた。

 その後ろには使用人たちの馬車。

 さらに何台もの荷馬車が続く。

 反物。

 衣装箱。

 薬。

 菓子。

 香。

 華蓮へ届ける品々だった。

 玉鈴が乗せられたのは、一番後ろに近い荷馬車だった。

 幌のない荷台には木箱や籠が積み上げられ、太い縄で括られている。その隙間に、人ひとりがようやく座れるほどの場所が空けられていた。


「そこに乗れ」


 玉鈴は黙って荷台へ上がった。

 華蓮の衣装箱の横に腰を下ろす。

 持っている荷物は、小さな布包み一つ。

 色褪せた衣が数枚入っているだけだった。

 門が開く。

 馬が動き出し、車輪が石畳の上をゆっくりと回り始めた。

 長い一行が、柳家を離れていく。

 玉鈴は振り返らなかった。

 町を抜ける頃には、朝市が始まっていた。

 道端には青菜や果物が並び、大きな蒸籠から白い湯気が立ち昇っている。赤や黄色の布を張った店先を人々が行き交い、子供が焼き菓子を手に駆けていく。

 玉鈴は荷箱の間から、それを黙って見ていた。

 柳家の外へ出ること自体、ほとんどなかった。

 やがて家々が減り、景色は田畑へ変わった。

 さらに進めば、遠くに低い山々が連なる。

 皇都までは何日もかかる。

 日が暮れれば宿場へ入り、翌朝にはまた発つ。

 文徳と麗華には宿の奥に部屋が用意され、温かな食事と湯が運ばれた。

 玉鈴は使用人たちと同じ場所で眠り、夜が明ければまた荷馬車へ乗った。

 それでも。

 以前とは違っていた。

 何日揺られても、身体が思っていたほど疲れない。

 荷台の硬い板で腰や背中は痛んだ。

 それでも朝になれば、自分で起き上がれた。

 渡された食事も、前より少しだけ多く食べられる。

 華蓮から離れて十数日。

 長い間奪われ続けていた身体は、ほんのわずかずつ、本来の力を取り戻し始めていた。


 ◇


 三日目の午後。

 一行は山間の道へ入っていた。

 片側には木々の生い茂る斜面が迫り、反対側には深い林が続いている。

 道幅は狭く、馬車が二台並んで通ることもできない。

 陽はまだ高い。

 それなのに林の中は薄暗く、湿った土と苔の匂いがした。

 先頭を行く護衛の一人が、周囲を見回す。

 鳥の声がしない。

 聞こえるのは、車輪が土を踏む音と、風が木の葉を揺らす音だけだった。

 その静けさを破ったのは、短い叫び声だった。


「止まれ!」


 直後、前方で馬が激しくいなないた。

 何かが倒れる音。

 怒号。

 剣を抜く音が重なる。


「賊だ!」


 荷台に座っていた玉鈴が顔を上げた。

 山道の両側から、粗末な衣に刃物を持った男たちが飛び出してくる。

 柳家の紋を掲げた何台もの馬車。

 荷を満載した車。

 金のある一行だと、一目で分かったのだろう。

 護衛たちが剣を抜いた。

 文徳たちの車を囲むように人が集まり、後方の護衛も前へ駆けていく。

 玉鈴は荷箱の間で身体を小さくした。

 一本の矢が飛んだ。

 荷馬車のすぐ脇を抜ける。

 馬の首元を掠めた。


「ヒィンッ!」


 馬が大きくいなないた。

 前脚が跳ね上がる。


「待て! 止まれ!」


 御者が必死に手綱を引く。

 だが、怯えた馬は止まらなかった。

 荷馬車が激しく揺れた。

 御者の身体が座席から投げ出される。

 手綱が地面へ落ちた。

 次の瞬間。

 馬が走り出した。

 玉鈴は咄嗟に荷台の縁を掴んだ。

 車輪が石を踏み、身体が大きく跳ねる。

 積まれた木箱が軋み、籠が倒れた。

 荷馬車は山道を外れ、そのまま林の中へ飛び込んだ。

 枝が顔の高さまで張り出してくる。

 玉鈴は身を伏せた。

 細い枝が頬を掠める。

 痛みが走った。

 それでも馬は止まらない。

 木々の間を、狂ったように走っていく。

 車輪が太い木の根を乗り越えた。

 荷台が大きく傾く。

 括られていた木箱が一つ外れ、玉鈴の方へ滑ってきた。

 肩へぶつかる。

 小さな身体が横へ投げ出された。

 それでも縁を掴んだ手だけは離さなかった。

 次の瞬間。

 前輪が大きな石へ乗り上げた。

 荷馬車が跳ねる。

 玉鈴の指が外れた。

 身体が宙へ放り出される。

 地面へ叩きつけられた。

 一度。

 二度。

 そのまま斜面を転がっていく。

 何かに肩を強く打った。

 息が詰まる。

 さらに転がり、木の根へ身体がぶつかった。

 そこで。

 玉鈴は動かなくなった。


 ◇


 山道で賊が出たとの知らせを聞きつけたのは、ちょうど皇都へ戻る途中だった韓子昂《かん・しこう》の一行だった。

 官兵を伴っていたこともあり、戦いは長く続かなかった。

 柳家の護衛と官兵に挟まれた賊たちは、数人が捕らえられ、残りは山へ逃げ込んでいく。


「怪我人を見ろ。動ける者から道を空けろ」


 子昂の低い声が飛ぶ。


「馬を落ち着かせろ。逃げた賊を深追いするな」


 兵たちが一斉に散った。

 倒れた者が起こされ、道を塞いだ荷物が脇へ寄せられていく。

 その中の一人が、林の方を見て足を止めた。


「韓様」

「どうした」

「こちらに車輪の跡があります」


 子昂が振り返る。

 山道から外れ、草を押し潰した跡が林の奥へ続いていた。

 折れた枝も散らばっている。


「一台、入り込んだようです」

「行くぞ」


 子昂は数人の兵を連れ、林へ入った。

 車輪の跡はすぐに見つかった。

 湿った土を深く抉り、ところどころ木の根を踏み越えている。

 やがて、横倒しになった荷馬車が見えた。

 車輪が一つ外れ、木箱や籠が周囲へ散乱している。

 反物が泥の上に広がり、色鮮やかな菓子が踏み潰されていた。

 馬は少し離れた木のそばで止まり、荒い息を吐いている。


「人は?」

「見当たりません」


 子昂は壊れた荷台を見た。

 積み荷ばかりで、人が乗っていたかどうかは分からない。

 だが、少し手前の草が不自然に倒れている。

 子昂はその跡を追った。

 斜面へ続いている。

 土が抉れ、草が折れていた。

 その先。

 木の根元に、何かが見えた。


「……人だ」


 子昂が斜面を下りる。

 兵たちも後を追った。

 木の根元に倒れていたのは、小さな娘だった。

 十を越えたばかりにしか見えない。

 色褪せた粗末な衣。

 何度も繕われた袖。

 擦り切れた裾。

 ひどく痩せた身体は地面へ投げ出され、頬には枝で切ったらしい赤い筋が走っている。

 黒髪は土と枯葉にまみれ、顔へ張りついていた。

 子昂はその場に膝をついた。

 首元へ指を当てる。

 ほんのわずかに。

 脈が触れた。


「……生きている」


 後ろから兵が駆け下りてくる。

 子昂は娘の身体へ手を差し入れ、そっと抱き上げた。

 その瞬間。

 眉が寄った。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 子供にしか見えないとはいえ、それでも軽すぎた。

 腕の中で、娘の頭が力なく傾く。

 閉じられた目を縁取る睫毛だけが、不釣り合いなほど長かった。


「韓様、その娘は……」

「分からん」


 子昂は玉鈴の顔を見た。

 もちろん、このときはまだ名前さえ知らない。

 柳家の人間なのか。

 使用人なのか。

 なぜあの荷馬車に乗っていたのか。

 何も分からない。

 分かるのは、このまま置いていけば死ぬかもしれないということだけだった。

 子昂は立ち上がる。

 小さな身体を抱き直した。


「連れて帰るぞ」


 兵が顔を上げる。


「医者を呼べ」


 子昂はそのまま、意識のない玉鈴を抱いて林を出た。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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