龍帝の番が帰ってきた
龍帝の番が見つかった。
その報せは、景焱たちが皇都へ戻るより早く、国中を駆け巡った。
十四年前、わずか一歳で行方知れずとなった白明珠。
六歳だった龍帝が探し続け、それでも見つけることのできなかった唯一の番が、生きていた。
皇都では、蕭景焱の帰還を待たずして祝いの準備が始まった。
大通りには赤い布が渡され、軒先には色鮮やかな灯籠が吊るされる。城門から皇城へ続く白石の道は朝から水で洗い清められ、宮中には祝いの宴に使う酒や料理、季節の花が次々と運び込まれていった。
長く皇室に仕えてきた者たちにとっても、それは待ち望んだ知らせだった。
番を失った龍帝。
妃を迎えることを拒み続ける皇帝。
いまだ定まらぬ世継ぎ。
そして、年を重ねるほど強大になっていく龍気。
誰もが、その先にあるものを恐れていた。
だからこそ、巨大な朱門をくぐった一行を迎えたのは、柳華蓮が想像していたものを遥かに超える光景だった。
白石を敷き詰めた道の両側に、色とりどりの官服を纏った官吏たちが整然と並んでいる。その後ろには宮女や宦官が控え、さらに奥には金色の龍を彫り込んだ朱塗りの殿舎が幾重にも連なっていた。
景焱の姿が見えると、一斉に頭が下がる。
華蓮の乗る車が、その間をゆっくりと進んでいった。
薄い簾の向こうから外を見ていた華蓮は、思わず背筋を伸ばした。
柳家とは、何もかもが違う。
建物の大きさも。
庭の広さも。
そこに仕える人間の数も。
そして、その誰もが自分より頭を低くしている。
やがて車が止まった。
簾が上がる。
先に馬を降りていた景焱が、そこに立っていた。
深い藍の龍袍に、金の冠。
皇城を背にした姿は、柳家で見たとき以上に、この男が国の頂に立つ龍帝なのだと分からせるものだった。
「明珠」
差し出された手に、華蓮は自分の手を重ねた。
景焱に支えられて車を降りる。
その瞬間、周囲の者たちがさらに深く頭を下げた。
「龍帝陛下、ならびに御番様のご帰還、心よりお慶び申し上げます」
幾重もの声が重なり、広い前庭へ響き渡った。
華蓮は景焱の隣に立った。
胸が高鳴る。
ここが。
これから自分のいる場所なのだ。
◇
その夜、皇城では盛大な宴が開かれた。
高い天井を持つ大広間には幾つもの燭台が灯され、朱塗りの柱には金の龍と雲が描かれている。梁からは金糸の房飾りが下がり、磨き上げられた床へ柔らかな光を落としていた。
琵琶や琴の音が流れる中、白磁や青磁の器には、鳥や魚、色鮮やかな野菜を使った料理が並ぶ。芳醇な酒の香りが満ち、普段は表情を崩さぬ老臣まで今夜ばかりは杯を重ねていた。
龍帝の番が帰ってきた。
十四年ぶりの慶事だった。
「長うございましたな」
古くから皇室に仕える老臣が、景焱の前で深く頭を下げた。
「陛下が六歳の御時より十四年。ようやく、この日を迎えられました」
「ああ」
景焱の視線が、少し離れた席にいる華蓮へ向かう。
華蓮は柳家から持参したものよりさらに華やかな、紅に金糸で牡丹を縫い取った襦裙を纏っていた。髪には皇城から贈られた金の歩揺が挿され、顔を動かすたび、細い飾りが耳元で揺れる。
何人もの宮女に囲まれ、楽しそうに笑っていた。
「これで我らも、陛下に別の妃をと申し上げずに済みます」
「祝いの席でまで、その話をするのか」
老臣は悪びれた様子もない。
「これまで何度申し上げても、聞き入れてくださいませんでしたので」
景焱は呆れたように息を吐いた。
それでも咎めることはなかった。
彼らが国を思って言い続けていたことくらい、分かっている。
龍帝に世継ぎがない。
それは、この国にとって決して小さな問題ではなかった。
まして、番を失った龍が、いつまでも強大な龍気を一人で抑え続けられる保証などない。
十四年間。
景焱だけではない。
彼らもまた、明珠が戻る日を待っていたのだ。
「もうよい」
景焱は杯を取った。
「予の番は戻った」
老臣の顔に、深い安堵が浮かんだ。
その夜。
皇都では遅くまで灯りが消えなかった。
祝いの鐘が鳴り、酒が振る舞われた。
誰もが、龍帝の番の帰還を喜んでいた。
◇
宴が終わる頃には、夜も深くなっていた。
先ほどまで音曲と笑い声に満ちていた皇城も、今は静けさを取り戻している。
その一角。
皇族に与えられた宮の奥で、一人の男が書状を開いていた。
蕭景衡。
先帝の弟であり、景焱にとって血を分けた叔父にあたる男だった。
年は四十を少し越えた頃。艶のある黒髪を銀冠でまとめ、落ち着いた黒紫の長衣を纏っている。切れ長の黒い目と整った鼻梁には、甥である景焱とどこか似たものがあった。
だが、景焱の目元が近寄りがたい鋭さを持つのに対し、景衡のそれは穏やかだった。口元にも常に薄い笑みがあり、幼い景焱にとっては、父である先帝に次いで身近な皇族の一人だった。
今夜の宴にも出席していた。
十四年探し続けた番との再会を祝い、景焱の肩を叩いて「ようやく見つけたな」と笑ったばかりだった。
その男の顔から、今は笑みが消えている。
手元の書状には、柳家で起きたことが簡潔に記されていた。
景焱が柳家の娘を己の番と認めたこと。
その娘を、白明珠として皇城へ連れ帰ったこと。
皇叔は黙って文字を追った。
「……生きていたのか」
低く落ちた声に、傍らに控えていた男が頭を垂れる。
十四年前。
六歳だった景焱には、すでに番がいた。
白明珠。
まだ一歳の、小さな娘。
番を失った龍はいずれ均衡を崩す。
龍気を抑えられなくなり、その強大な力に己自身を蝕まれていく。
だから、景焱を殺す必要などなかった。
番さえ奪えばいい。
幼い明珠を狙わせたのは、そのためだった。
「川へ落ちたところまでは、確かだったな」
「はい」
「遺体は」
男が口を閉ざした。
皇叔はゆっくりと目を細める。
答えなど、十四年前から分かっていた。
遺体は見つからなかった。
それでも構わなかった。
景焱自身が、明珠は生きていると言い続けていたからだ。
生きている。
だが、どこにいるのか分からない。
会うこともできない。
それなら、番を失った状態と大差はない。
一年。
二年。
五年。
十年。
皇叔は待った。
いつか龍の力が景焱自身を呑み込む日を。
だが、景焱は壊れなかった。
そして十四年目にして、とうとう番を見つけた。
皇叔の指が、書状の端をゆっくりと潰した。
「……しぶといものだ」
今夜、宴で見た華蓮の姿が脳裏をよぎる。
景焱は迷うことなく、あの娘を明珠と呼んだ。
ならば間違いない。
龍が己の番を違えるはずがない。
十四年前に奪い損ねたものが、景焱のもとへ戻ってきた。
それだけは許すわけにはいかなかった。
皇叔は書状を燭台の火へ近づけた。
端から炎が移り、文字を黒く食い潰していく。
すべてが灰になるのを見届けてから、静かに告げた。
「消せ」
控えていた男が顔を上げる。
「今度こそ、確実にな」
◇
華蓮に与えられた宮は、柳家の屋敷とは比べものにならなかった。
雲を彫り込んだ朱の柱。
牡丹と蝶を描いた大きな衝立。
淡い絹の帳を幾重にも垂らした寝台。
窓を開けば池を囲む庭園が広がり、白石の小道の先には朱塗りの橋が架かっている。
衣装棚には、新しい衣が次々と運び込まれた。
薄絹。
錦。
金糸。
翡翠や白玉の装身具。
柳家の令嬢だった頃でさえ、そう簡単には手に入らなかったものばかりだ。
華蓮は瞬く間に、その暮らしに馴染んでいった。
景焱も毎日のように顔を見せた。
食事をともにすることもあれば、庭を歩くこともある。
そのたびに華蓮は、幼い頃の明珠の話を聞いた。
自分の知らない、自分の話。
それさえ華蓮には特別なものに思えた。
三日ほど経った朝。
鏡台の前に座った華蓮は、自分の頬に触れた。
何かが違う。
顔色が悪いというほどではない。
それでも柳家を出た朝にあった艶が、少し失われている。
五日目には、朝なかなか寝台から起き上がれなくなった。
七日目。
身体の奥に、懐かしい重さが戻り始めた。
そして十日目。
「明珠」
庭を歩いていた景焱が足を止めた。
華蓮も振り返る。
「はい?」
「……具合が悪いのか」
「いいえ」
華蓮は笑ってみせた。
「少し眠れなかっただけですわ」
景焱は眉を寄せた。
柳家で初めて会ったときより顔色が悪い。
それだけではない。
華蓮から感じる、あの懐かしい気も弱くなっている。
最初は旅の疲れだと思った。
慣れぬ皇城での生活もある。
連日の祝いで、人に囲まれることも多かった。
「医官に診せろ」
「そこまででは――」
「診せろ」
景焱が言えば、それで決まった。
その日の午後、御典医が華蓮の宮へ呼ばれた。
華蓮の脈を取り、顔色や舌を診る。
老医官は長く脈へ指を当てたあと、静かに手を離した。
「大きな病ではございません。ただ、元よりあまり丈夫なお身体ではないように見受けられます。長旅に加え、慣れぬ環境でお疲れが出たのでしょう」
景焱は寝台に座る華蓮を見た。
「しばらく静養させろ。必要な薬も用意せよ」
「承知いたしました」
御典医が頭を下げる。
景焱は華蓮へ目を戻した。
「宴には出なくてよい。休め」
「ですが――」
「身体を治す方が先だ」
それだけ言うと、景焱は部屋を出た。
廊下へ出たところで、一度だけ足を止める。
柳家で感じた、明珠の気。
今も消えたわけではない。
ただ、弱くなっている。
景焱はわずかに眉を寄せた。
だが、十四年間探し続けた番を見つけて、まだ十日。
長旅もあった。
華蓮が幼い頃から身体が弱かったのなら、それが気にも影響しているのかもしれない。
何より。
景焱自身が華蓮を明珠だと認めたのだ。
その事実を疑う理由など、今はなかった。
◇
華蓮には、御典医の診立てなど必要なかった。
理由は分かっている。
玉鈴がいない。
それだけだった。
夜。
人払いをした部屋で、華蓮は鏡を見つめていた。
目の下には薄く影が落ち、唇の色も少し悪い。
以前にも、こんな顔をしていた。
ずっと昔。
玉鈴が柳家へ来る前。
胸が苦しく、身体が重く、寝台から起き上がれない日が続いていた頃の自分。
もう、あの頃には戻りたくない。
華蓮は卓へ向かった。
紙を広げ、筆を取る。
父へ。
このままでは、もっと弱っていく。
頬の艶も。
身体の軽さも。
これまで自分のものだと思っていたものが、少しずつ失われていく。
華蓮は筆を走らせた。
――玉鈴を都へ連れてきて。
続けて、もう一行。
――できるだけ早く。
理由は書かなかった。
柳文徳なら分かる。
華蓮は紙を折り、呼び鈴を鳴らした。
入ってきた宮女へ文を差し出す。
「これを父へ。急いで」
◇
その夜。
皇城は静まり返っていた。
祝いの宴もようやく一段落し、長い回廊に並ぶ灯籠も半分ほどが火を落としている。
華蓮の宮では、薄い絹の帳が夜風にわずかに揺れていた。
華蓮は寝台で眠っている。
廊下の外には、二人の護衛が立っていた。
その一人が、かすかな物音に気づく。
顔を上げた。
次の瞬間。
その身体が崩れ落ちた。
もう一人が剣へ手を伸ばすより早く、黒い影が背後へ回る。
短い音。
男もまた床へ倒れた。
影が二つ、音もなく宮へ入り込む。
戸が、わずかに開いた。
一人が寝台へ近づいた。
黒衣の袖から短い刃が覗く。
男が帳へ手を掛けた。
そのときだった。
華蓮が目を開けた。
目の前に、知らない男がいる。
月明かりを受けた刃が見えた。
「――っ!」
声を上げるより早く、男の腕が振り上がった。
轟音が響いた。
白金の光が、暗い部屋を一瞬で照らし出す。
男の身体が宙へ浮き、そのまま壁へ叩きつけられた。
衝立が倒れ、卓上の茶器が床へ落ちて砕け散る。
華蓮は寝台の上で動けなかった。
戸口に景焱が立っていた。
長い黒髪を下ろし、白い寝衣の上へ黒い外衣を羽織っただけの姿。
その両眼が、金色に輝いていた。
肌を刺すような龍気が、部屋いっぱいに満ちている。
「捕らえろ」
低い声が響いた。
遅れて駆け込んできた兵たちが一斉に動く。
もう一人の刺客が窓へ走った。
景焱が手を上げる。
金白の光が走り、男の身体が床へ転がった。
「殺すな」
景焱は倒れた男を見下ろした。
「吐かせる」
兵たちが二人を拘束する。
そこで初めて、景焱は華蓮を振り返った。
華蓮は寝台の上で青ざめ、震えていた。
十四年前。
ほんの一瞬。
景焱の脳裏に、川辺の光景が蘇った。
剣。
血。
濁流。
泣き声。
そして、自分の腕から失われた小さな身体。
景焱の顔から、表情が消えた。
「……二度は許さぬ」
華蓮が顔を上げる。
景焱は刺客たちへ視線を戻した。
「誰が送った」
答えはなかった。
十四年前、明珠を狙った者たちがいた。
そして今。
再び、華蓮が命を狙われた。
柳家で感じた、明珠の気。
十四年間探し続けた番。
そして再び現れた刺客。
偶然とは思えなかった。
華蓮こそが、明珠なのだ。
景焱の中に生まれかけていた小さな違和感は、そこで再び押し込められた。
今度こそ守る。
十四年前のようなことは、二度と起こさない。
◇
皇都から遠く離れた柳家では。
玉鈴が、使用人たちの寝起きする薄暗い部屋で眠っていた。
華蓮がいなくなって十日。
気を奪われなくなった身体は、本人も気づかないほどゆっくりと変わり始めていた。
以前より少し食べられるようになった。
朝、起き上がるまでの時間も短くなった。
井戸から水を運んでも、途中で桶を置く回数が減った。
けれど玉鈴は、それがなぜなのかわからない。
自分を皇都へ呼び寄せる文が、すでに柳家へ向かっていることも。
十四年前に自分を川へ落とした者が、今も皇城の中にいることも。
そして。
その男が、本当の明珠ではない少女を、明珠だと信じて殺そうとしたことも。
玉鈴は何も知らないまま、静かに眠っていた。
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