龍帝の番
翌朝。
柳家の屋敷は、まだ空が白み始めた頃から騒がしかった。
龍帝が皇都へ戻る。
しかも、その一行に華蓮が加わることになった。
昨夜まで柳家の令嬢だった娘が、龍帝が十四年もの間探し続けた番として皇城へ迎えられる。
表門では馬が引き出され、旅に必要な荷が次々と運び込まれていた。華蓮の部屋には衣装箱がいくつも並べられ、侍女たちが衣や装身具を選んでは、慌ただしく詰めている。
柳家の者たちにとって、昨日までとはまるで違う朝だった。
玉鈴にとっては、いつもと同じ朝だった。
薄暗い水場で、昨夜の宴に使われた布を洗っている。
冷たい水に両手を入れ、布を擦る。
絞って、籠へ入れる。
次の一枚を取って、また擦る。
昨夜、華蓮に気を取られたせいか、身体がひどく重かった。
指先にも、うまく力が入らない。
濡れた布を絞ろうとして、手の中から滑り落ちた。
玉鈴はすぐに拾った。
もう一度、両手で握る。
今度は落とさないよう、ゆっくりと絞った。
「玉鈴。そっちが終わったら、水を汲んできて」
背後から声が飛ぶ。
玉鈴は振り返り、小さく頭を下げた。
「……はい」
今日は人が足りなかった。
華蓮の出立支度に何人もの使用人が取られ、残った者たちには普段以上の仕事が回ってくる。
最後の布を籠へ入れると、玉鈴は桶を持って井戸へ向かった。
井戸の上には朝靄がまだ薄く残っている。
縄を引き、水を汲み上げる。
桶へ移し、両手で取っ手を掴んだ。
持ち上げようとした腕が震えた。
桶がわずかに浮き、すぐ地面へ落ちる。
水が縁から跳ね、色褪せた裙の裾を濡らした。
玉鈴は何も言わず、もう一度取っ手を握る。
今度は身体ごと抱えるようにして持ち上げた。
一歩。
また一歩。
小さな身体を傾けながら、厨房へ運んでいく。
「遅いよ。こっちもまだなんだからね」
厨房から顔を出した女に言われ、玉鈴は桶を置くと、すぐ次の仕事へ向かった。
その後ろ姿を、春梅が見ていた。
昨日より顔色が悪い。
歩く足にも力がない。
華蓮に呼ばれた翌朝、玉鈴はいつもこうなる。
それでも仕事が減らされることはなかった。
春梅は厨房の中を見回した。
蒸籠の隅に、小さな饅頭が一つ残っている。
それを布に包むと、灰の入った籠を抱えて戻ってきた玉鈴を呼び止めた。
「玉鈴」
玉鈴が顔を上げる。
春梅は何も言わず、小さな包みをその手へ押し込んだ。
玉鈴は包みと春梅の顔を交互に見た。
「あとで食べな」
黒い瞳が、ほんの少し丸くなる。
玉鈴は両手で包みを受け取ると、大事そうに懐へしまった。
「……ありがとうございます」
それから、また籠を抱えて歩いていった。
◇
客殿では、皇都へ戻るための支度が進められていた。
蕭景焱はすでに旅装へ着替えている。
黒に近い深藍の長衣には、同色の糸で龍と雲が縫い取られていた。腰には白玉を下げ、長い黒髪は金の冠で高く束ねている。
昨夜の宴席より簡素な装いだったが、かえって長身と隙のない立ち姿が際立っていた。
韓子昂は、届いた書状に目を通しながら出立後の行程を確認している。
「都へは先触れを出しました。陛下がお戻りになることと、番をお連れになることも伝えております」
「大げさにするな」
「それは無理でしょう」
子昂の返答に、景焱は何も言わなかった。
龍帝の番が見つかった。
それは景焱一人の慶事ではない。
十四年間、番を失った龍帝を抱えてきた朝廷にとっても、待ち続けた知らせだった。
成長するにつれ、景焱に別の妃を迎えるよう求める声は強くなっていた。
皇統を絶やすわけにはいかない。
そして何より、番を失ったまま強大になり続ける龍気が、この先も景焱一人の力で抑えられる保証はなかった。
十四年。
まだ幼かった頃から、景焱は一人で耐えてきた。
「華蓮殿の車も用意させております」
「道中、無理はさせるな」
「承知しております」
景焱は窓の外へ目を向けた。
朝日に照らされた柳家の瓦屋根が連なり、その向こうでは出立を告げる馬のいななきが聞こえる。
昨日まで、明珠がどこにいるのかさえ分からなかった。
それが今は、同じ屋敷にいる。
あと数刻もすれば、一緒に皇都へ帰れる。
十四年前に途切れたものが、ようやく繋がる。
景焱は、そう信じていた。
◇
華蓮の部屋には、何着もの衣が並べられていた。
淡い桃色。
鮮やかな紅。
柔らかな薄紫。
牡丹や芙蓉を金糸で縫い取ったものまである。
その中から蘇麗華が選んだのは、淡い桃色の襦裙だった。
薄絹を幾重にも重ねた裙は、立ち上がるだけで花びらのように広がる。上衣の襟と袖には細かな金糸の刺繍が入り、腰には白玉の飾りが揺れていた。
豊かな黒髪には金の簪。
耳元には小さな翡翠。
鏡の中の娘を見て、麗華は満足そうに目を細めた。
「皇城へ入るのよ。柳家の娘として、恥ずかしくない姿でいなさい」
「分かっていますわ、お母様」
華蓮も鏡の中の自分を見つめた。
頬は艶やかで、唇にも血色がある。
昨夜、玉鈴から十分に気を得たおかげで、身体も軽かった。
これなら景焱の前へ出ても見劣りはしない。
「お母様」
「何?」
「皇城は、どんなところかしら」
「私が知るわけないでしょう」
華蓮がくすりと笑った。
怖くはなかった。
むしろ、胸が弾んでいる。
あの龍帝が、自分を十四年間探していた。
何度思い返しても、夢のようだった。
「華蓮様」
侍女が戸口から声を掛けた。
「陛下がお庭にいらっしゃいます」
華蓮はすぐに立ち上がった。
◇
庭には、まだ朝露が残っていた。
白石を敷いた小道の両脇には芍薬や牡丹が植えられ、池の水面には細い柳の枝が映っている。風が吹くたび、緑の影が水の上で細かく揺れた。
景焱は池のほとりで子昂と話していたが、衣擦れの音に顔を上げた。
「陛下」
華蓮が礼を取る。
景焱の視線が、その姿へ向いた。
昨夜より顔色がいい。
そして、感じる気も昨夜より強い。
懐かしく、柔らかな気配。
景焱の表情がわずかに緩んだ。
「よく眠れたか」
「はい」
「そうか」
短い会話だった。
それでも華蓮の頬が嬉しそうに緩む。
景焱はゆっくりと池沿いの小道を歩き出した。
「皇都までは数日かかる。疲れたら言え。急ぐ旅ではない」
「ありがとうございます」
華蓮がその隣を歩く。
しばらくして、景焱が口を開いた。
「幼い頃のことは、本当に何も覚えていないのか」
「残念ながら、何も」
「一歳だったのだ。無理もない」
景焱の脳裏に、小さな明珠の姿が浮かんだ。
白い頬。
長い睫毛。
自分を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばしてきた。
「よく予の髪を掴んでいた」
「私が、ですか?」
「ああ。離せと言っても離さぬ」
景焱の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
華蓮は目を細める。
「ずいぶん困らせたのですね」
「まったくだ」
その声は穏やかだった。
◇
玉鈴は、洗い終えた布を両腕いっぱいに抱えて歩いていた。
いつもの裏廊下は、出立の荷を運ぶ男たちで塞がれている。
仕方なく庭沿いの回廊へ回った。
重ねた布で前がよく見えない。
落とさないよう顎で押さえながら、一歩ずつ歩く。
ふいに。
風が吹いた。
玉鈴の足が止まった。
昨日と同じ香り。
布の向こうから、そっと顔を出す。
庭の先に、昨日の人がいた。
深藍の衣を纏った長身の男。
その隣には、華蓮がいる。
玉鈴は動かなかった。
風がもう一度吹く。
胸の奥に残っていた重さが、ほんの少しだけ遠のいた。
昨夜、あれほど身体が冷えたのに。
あの香りを感じるだけで、呼吸が楽になる。
腕から布が一枚、ずり落ちた。
玉鈴は慌てて抱え直す。
それでも、また顔を上げた。
景焱が何かを話している。
華蓮が笑う。
何を話しているのかは聞こえない。
玉鈴はただ、遠くから二人を見ていた。
「何をしているの」
すぐそばから声がした。
玉鈴の肩が跳ねる。
華蓮付きの侍女が立っていた。
「早く運びなさい。まだ仕事はいくらでもあるのよ」
「……はい」
玉鈴は頭を下げ、布を抱え直した。
回廊を歩き出す。
途中で、一度だけ振り返った。
庭木に隠れて、もう景焱の姿は見えなかった。
玉鈴は前を向いた。
そして、そのまま歩いていった。
◇
昼前。
柳家の表門には、龍帝の一行が整列していた。
金の龍を染め抜いた旗が風を受け、馬たちが石畳を蹄で掻く。黒塗りの車には薄絹の簾が下ろされ、その後ろには華蓮の衣装箱や旅荷を積んだ車が続いている。
柳家の使用人たちは門の両側へ並び、一斉に頭を下げていた。
誰もが華蓮を、昨日までとは違う目で見ている。
龍帝の番。
いずれ皇城で、誰より尊い女性になるかもしれない。
文徳は娘を前にして、いつになく厳しい顔をしていた。
「陛下のお側へ上がるのだ。軽率な振る舞いはするな」
「分かっております、お父様」
麗華は華蓮の袖を整える。
その目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
これほどの栄誉が柳家へ転がり込むなど、昨日の朝には想像すらしていなかった。
「明珠」
呼ばれ、華蓮が振り返る。
景焱が立っていた。
華蓮は両親へもう一度頭を下げると、景焱のもとへ向かった。
景焱は車の前まで付き添い、華蓮が乗り込むのを見届ける。
自らは黒馬へ跨がった。
号令が飛ぶ。
龍旗が翻り、一行がゆっくりと動き始めた。
車輪が石畳を転がる。
馬蹄の音が続く。
柳家の者たちは深く頭を下げたまま、一行が門を出ていくのを見送った。
◇
その頃。
玉鈴は裏庭にいた。
朝から干していた布を取り込んでいる。
一枚外して、畳む。
籠へ入れる。
また一枚。
春梅にもらった小さな饅頭は、まだ懐に入ったままだった。
食べる暇がなかった。
表の方から聞こえていた騒がしい音が、いつの間にか静かになっている。
玉鈴は布を畳んでいた手を止めた。
顔を上げる。
風が吹いた。
色褪せた衣の裾と、長い黒髪が小さく揺れる。
玉鈴はそのまま、しばらく立っていた。
もう。
あの香りはしなかった。
門のある方を見る。
けれど、高い塀と青い空しか見えない。
玉鈴はやがて目を伏せた。
手元の布を丁寧に畳む。
籠へ入れた。
そして、次の一枚に手を伸ばす。
龍帝は、十四年間探し続けた番を連れて皇都へ帰っていった。
今度こそ、二度と失わぬと決めて。
その本当の番は柳家に残り。
何も知らないまま、小さな手で黙々と働き続けていた。
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