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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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4/12

龍帝の番

 翌朝。

 柳家の屋敷は、まだ空が白み始めた頃から騒がしかった。

 龍帝が皇都へ戻る。

 しかも、その一行に華蓮が加わることになった。

 昨夜まで柳家の令嬢だった娘が、龍帝が十四年もの間探し続けた番として皇城へ迎えられる。

 表門では馬が引き出され、旅に必要な荷が次々と運び込まれていた。華蓮の部屋には衣装箱がいくつも並べられ、侍女たちが衣や装身具を選んでは、慌ただしく詰めている。

 柳家の者たちにとって、昨日までとはまるで違う朝だった。


 玉鈴《ぎょくれい》にとっては、いつもと同じ朝だった。

 薄暗い水場で、昨夜の宴に使われた布を洗っている。

 冷たい水に両手を入れ、布を擦る。

 絞って、籠へ入れる。

 次の一枚を取って、また擦る。

 昨夜、華蓮に気を取られたせいか、身体がひどく重かった。

 指先にも、うまく力が入らない。

 濡れた布を絞ろうとして、手の中から滑り落ちた。

 玉鈴はすぐに拾った。

 もう一度、両手で握る。

 今度は落とさないよう、ゆっくりと絞った。


「玉鈴。そっちが終わったら、水を汲んできて」


 背後から声が飛ぶ。

 玉鈴は振り返り、小さく頭を下げた。


「……はい」


 今日は人が足りなかった。

 華蓮の出立支度に何人もの使用人が取られ、残った者たちには普段以上の仕事が回ってくる。

 最後の布を籠へ入れると、玉鈴は桶を持って井戸へ向かった。

 井戸の上には朝靄がまだ薄く残っている。

 縄を引き、水を汲み上げる。

 桶へ移し、両手で取っ手を掴んだ。

 持ち上げようとした腕が震えた。

 桶がわずかに浮き、すぐ地面へ落ちる。

 水が縁から跳ね、色褪せた裙の裾を濡らした。

 玉鈴は何も言わず、もう一度取っ手を握る。

 今度は身体ごと抱えるようにして持ち上げた。

 一歩。

 また一歩。

 小さな身体を傾けながら、厨房へ運んでいく。


「遅いよ。こっちもまだなんだからね」


 厨房から顔を出した女に言われ、玉鈴は桶を置くと、すぐ次の仕事へ向かった。

 その後ろ姿を、春梅《しゅんばい》が見ていた。

 昨日より顔色が悪い。

 歩く足にも力がない。

 華蓮に呼ばれた翌朝、玉鈴はいつもこうなる。

 それでも仕事が減らされることはなかった。

 春梅は厨房の中を見回した。

 蒸籠の隅に、小さな饅頭が一つ残っている。

 それを布に包むと、灰の入った籠を抱えて戻ってきた玉鈴を呼び止めた。


「玉鈴」


 玉鈴が顔を上げる。

 春梅は何も言わず、小さな包みをその手へ押し込んだ。

 玉鈴は包みと春梅の顔を交互に見た。


「あとで食べな」


 黒い瞳が、ほんの少し丸くなる。

 玉鈴は両手で包みを受け取ると、大事そうに懐へしまった。


「……ありがとうございます」


 それから、また籠を抱えて歩いていった。


 ◇


 客殿では、皇都へ戻るための支度が進められていた。

 蕭景焱《しょう・けいえん》はすでに旅装へ着替えている。

 黒に近い深藍の長衣には、同色の糸で龍と雲が縫い取られていた。腰には白玉を下げ、長い黒髪は金の冠で高く束ねている。

 昨夜の宴席より簡素な装いだったが、かえって長身と隙のない立ち姿が際立っていた。

 韓子昂《かん・しこう》は、届いた書状に目を通しながら出立後の行程を確認している。


「都へは先触れを出しました。陛下がお戻りになることと、番をお連れになることも伝えております」

「大げさにするな」

「それは無理でしょう」


 子昂の返答に、景焱は何も言わなかった。

 龍帝の番が見つかった。

 それは景焱一人の慶事ではない。

 十四年間、番を失った龍帝を抱えてきた朝廷にとっても、待ち続けた知らせだった。

 成長するにつれ、景焱に別の妃を迎えるよう求める声は強くなっていた。

 皇統を絶やすわけにはいかない。

 そして何より、番を失ったまま強大になり続ける龍気が、この先も景焱一人の力で抑えられる保証はなかった。

 十四年。

 まだ幼かった頃から、景焱は一人で耐えてきた。


「華蓮殿の車も用意させております」

「道中、無理はさせるな」

「承知しております」


 景焱は窓の外へ目を向けた。

 朝日に照らされた柳家の瓦屋根が連なり、その向こうでは出立を告げる馬のいななきが聞こえる。

 昨日まで、明珠がどこにいるのかさえ分からなかった。

 それが今は、同じ屋敷にいる。

 あと数刻もすれば、一緒に皇都へ帰れる。

 十四年前に途切れたものが、ようやく繋がる。

 景焱は、そう信じていた。


 ◇


 華蓮の部屋には、何着もの衣が並べられていた。

 淡い桃色。

 鮮やかな紅。

 柔らかな薄紫。

 牡丹や芙蓉を金糸で縫い取ったものまである。

 その中から蘇麗華《そ・れいか》が選んだのは、淡い桃色の襦裙だった。

 薄絹を幾重にも重ねた裙は、立ち上がるだけで花びらのように広がる。上衣の襟と袖には細かな金糸の刺繍が入り、腰には白玉の飾りが揺れていた。

 豊かな黒髪には金の簪。

 耳元には小さな翡翠。

 鏡の中の娘を見て、麗華は満足そうに目を細めた。


「皇城へ入るのよ。柳家の娘として、恥ずかしくない姿でいなさい」

「分かっていますわ、お母様」


 華蓮も鏡の中の自分を見つめた。

 頬は艶やかで、唇にも血色がある。

 昨夜、玉鈴から十分に気を得たおかげで、身体も軽かった。

 これなら景焱の前へ出ても見劣りはしない。


「お母様」

「何?」

「皇城は、どんなところかしら」

「私が知るわけないでしょう」


 華蓮がくすりと笑った。

 怖くはなかった。

 むしろ、胸が弾んでいる。

 あの龍帝が、自分を十四年間探していた。

 何度思い返しても、夢のようだった。


「華蓮様」


 侍女が戸口から声を掛けた。


「陛下がお庭にいらっしゃいます」


 華蓮はすぐに立ち上がった。


 ◇


 庭には、まだ朝露が残っていた。

 白石を敷いた小道の両脇には芍薬や牡丹が植えられ、池の水面には細い柳の枝が映っている。風が吹くたび、緑の影が水の上で細かく揺れた。

 景焱は池のほとりで子昂と話していたが、衣擦れの音に顔を上げた。


「陛下」


 華蓮が礼を取る。

 景焱の視線が、その姿へ向いた。

 昨夜より顔色がいい。

 そして、感じる気も昨夜より強い。

 懐かしく、柔らかな気配。

 景焱の表情がわずかに緩んだ。


「よく眠れたか」

「はい」

「そうか」


 短い会話だった。

 それでも華蓮の頬が嬉しそうに緩む。

 景焱はゆっくりと池沿いの小道を歩き出した。


「皇都までは数日かかる。疲れたら言え。急ぐ旅ではない」

「ありがとうございます」


 華蓮がその隣を歩く。

 しばらくして、景焱が口を開いた。


「幼い頃のことは、本当に何も覚えていないのか」

「残念ながら、何も」

「一歳だったのだ。無理もない」


 景焱の脳裏に、小さな明珠の姿が浮かんだ。

 白い頬。

 長い睫毛。

 自分を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばしてきた。


「よく予の髪を掴んでいた」

「私が、ですか?」

「ああ。離せと言っても離さぬ」


 景焱の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。

 華蓮は目を細める。


「ずいぶん困らせたのですね」

「まったくだ」


 その声は穏やかだった。


 ◇


 玉鈴は、洗い終えた布を両腕いっぱいに抱えて歩いていた。

 いつもの裏廊下は、出立の荷を運ぶ男たちで塞がれている。

 仕方なく庭沿いの回廊へ回った。

 重ねた布で前がよく見えない。

 落とさないよう顎で押さえながら、一歩ずつ歩く。

 ふいに。

 風が吹いた。

 玉鈴の足が止まった。

 昨日と同じ香り。

 布の向こうから、そっと顔を出す。

 庭の先に、昨日の人がいた。

 深藍の衣を纏った長身の男。

 その隣には、華蓮がいる。

 玉鈴は動かなかった。

 風がもう一度吹く。

 胸の奥に残っていた重さが、ほんの少しだけ遠のいた。

 昨夜、あれほど身体が冷えたのに。

 あの香りを感じるだけで、呼吸が楽になる。

 腕から布が一枚、ずり落ちた。

 玉鈴は慌てて抱え直す。

 それでも、また顔を上げた。

 景焱が何かを話している。

 華蓮が笑う。

 何を話しているのかは聞こえない。

 玉鈴はただ、遠くから二人を見ていた。


「何をしているの」


 すぐそばから声がした。

 玉鈴の肩が跳ねる。

 華蓮付きの侍女が立っていた。


「早く運びなさい。まだ仕事はいくらでもあるのよ」

「……はい」


 玉鈴は頭を下げ、布を抱え直した。

 回廊を歩き出す。

 途中で、一度だけ振り返った。

 庭木に隠れて、もう景焱の姿は見えなかった。

 玉鈴は前を向いた。

 そして、そのまま歩いていった。


 ◇


 昼前。

 柳家の表門には、龍帝の一行が整列していた。

 金の龍を染め抜いた旗が風を受け、馬たちが石畳を蹄で掻く。黒塗りの車には薄絹の簾が下ろされ、その後ろには華蓮の衣装箱や旅荷を積んだ車が続いている。

 柳家の使用人たちは門の両側へ並び、一斉に頭を下げていた。

 誰もが華蓮を、昨日までとは違う目で見ている。

 龍帝の番。

 いずれ皇城で、誰より尊い女性になるかもしれない。

 文徳は娘を前にして、いつになく厳しい顔をしていた。


「陛下のお側へ上がるのだ。軽率な振る舞いはするな」

「分かっております、お父様」


 麗華は華蓮の袖を整える。

 その目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。

 これほどの栄誉が柳家へ転がり込むなど、昨日の朝には想像すらしていなかった。


「明珠」


 呼ばれ、華蓮が振り返る。

 景焱が立っていた。

 華蓮は両親へもう一度頭を下げると、景焱のもとへ向かった。

 景焱は車の前まで付き添い、華蓮が乗り込むのを見届ける。

 自らは黒馬へ跨がった。

 号令が飛ぶ。

 龍旗が翻り、一行がゆっくりと動き始めた。

 車輪が石畳を転がる。

 馬蹄の音が続く。

 柳家の者たちは深く頭を下げたまま、一行が門を出ていくのを見送った。


 ◇


 その頃。

 玉鈴は裏庭にいた。

 朝から干していた布を取り込んでいる。

 一枚外して、畳む。

 籠へ入れる。

 また一枚。

 春梅にもらった小さな饅頭は、まだ懐に入ったままだった。

 食べる暇がなかった。

 表の方から聞こえていた騒がしい音が、いつの間にか静かになっている。

 玉鈴は布を畳んでいた手を止めた。

 顔を上げる。

 風が吹いた。

 色褪せた衣の裾と、長い黒髪が小さく揺れる。

 玉鈴はそのまま、しばらく立っていた。

 もう。

 あの香りはしなかった。

 門のある方を見る。

 けれど、高い塀と青い空しか見えない。

 玉鈴はやがて目を伏せた。

 手元の布を丁寧に畳む。

 籠へ入れた。

 そして、次の一枚に手を伸ばす。


 龍帝は、十四年間探し続けた番を連れて皇都へ帰っていった。

 今度こそ、二度と失わぬと決めて。


 その本当の番は柳家に残り。

 何も知らないまま、小さな手で黙々と働き続けていた。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。


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