奪われていたもの
宴が終わり、最後の客が柳家を辞した頃には、夜もすっかり更けていた。
つい先ほどまで楽の音と笑い声に満ちていた広間には、酒と香の匂いが残っている。灯籠の火もいくつか落とされ、使用人たちが膳や酒器を片づける音だけが、静かになった屋敷に響いていた。
柳文徳は、人のいなくなった卓の前に座っていた。
向かいには妻の蘇麗華。
その傍らには、今夜突然、龍帝の番となった娘の柳華蓮がいる。
「あなた。よくもまあ、あんな話が咄嗟に出てきたわね」
「ほかにどう言えというのだ」
文徳は杯を取り、一口だけ酒を含んだ。
「陛下がお探しなのは、十四年前に行方知れずとなった娘だ。華蓮を実の娘だと言えば、その場で話が合わなくなる」
「それで、川辺で拾ったと?」
「ああ」
宴の席で、景焱は華蓮を見るなり「明珠」と呼んだ。
十四年前、増水した川で失った、一歳の番。
それが華蓮なのだと。
龍が己の番を違えることなどない。
ましてや相手は龍帝だ。
ならば、間違っているはずがない。
そう考えた瞬間、文徳は話を合わせた。
十四年前。
川辺で拾った赤子。
身元が分からぬまま引き取り、情が移って手放せなくなった娘。
すべて、その場で作った話だった。
「でも、お父様」
華蓮が小さく口を開いた。
華やかな宴装束のままではあるが、先ほどまで浮かべていた喜びは少し薄れている。
「私、本当に陛下の番なの?」
「何を今さら」
「だって、私は明珠なんて名前ではないもの」
「拾った者が名を変えたと思われたのであろう」
文徳の声に迷いはなかった。
「陛下ご自身がお前を見て明珠と呼ばれたのだ。龍の一族が己の番を違えることなどない」
「……そうよね」
「ああ。お前が龍帝陛下の番なのだ」
華蓮の顔から不安が消えていく。
代わりに、ゆっくりと頬が緩んだ。
若く、美しい龍帝。
その男が十四年もの間、自分一人を探していた。
そして明日には、自分を皇城へ連れていくという。
夢のような話だった。
誰一人として疑わなかった。
景焱が華蓮を番だと言った。
だから華蓮が明珠なのだと。
このときは、まだ。
◇
同じ頃。
客殿では、景焱もまた眠れずにいた。
宴装束から着替え、薄い夜着の上へ黒い外衣を羽織ったまま、開け放った窓辺に立っている。
月明かりに浮かぶ柳家の庭は静かだった。
反り返った屋根の軒先から吊るされた灯籠が夜風にわずかに揺れ、池の水面には月と築山の影が映っている。遠くでは、宴の後片づけをする使用人たちの足音が時折聞こえた。
北方から戻ったばかりの身体には疲労が残っている。
ここ数日は馬上で過ごす時間も長かった。
今夜は酒も飲んだ。
本来なら、寝台へ入ればすぐに眠れるはずだった。
それなのに目が冴えている。
身体の奥で、龍の気が妙に高ぶっていた。
荒れているのとは違う。何かを見つけたように、血の奥がざわめき、じっとしていられない。
十四年間、こんな感覚はなかった。
この屋敷に、明珠がいる。
そう思うだけで、胸の奥に不思議な静けさがあった。
それとは裏腹に、身体の奥の龍だけが、まだ何かを求めるように騒いでいる。
「お休みにならないのですか」
韓子昂が声を掛けた。
四十歳になる子昂は、卓に残された酒器を脇へ寄せながら主君を見る。
「眠れると思うか」
「お疲れでしょうに」
「身体はな」
景焱は短く答えた。
子昂の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ようございましたね、陛下」
景焱は振り返った。
何か言い返しかけて、やめる。
長く仕えてきた子昂は知っている。
六歳だった景焱が、どれほど明珠を探してきたのか。
あの日。
濁流へ消えた小さな身体を追い、景焱自身も川へ飛び込んだ。
何度潜っても見つからなかった。
兵を集め、下流まで捜した。川沿いの村々へも人を遣った。
それでも見つからず、やがて捜索の範囲は州を越えた。
ただ一つだけ、景焱には分かっていた。
明珠は生きている。
龍は己の番が死ねば、それを知る。
だから諦めなかった。
だが、生きていると分かることと、どこでどう生きているかが分かることは違う。
どこにいる。
誰といる。
腹を空かせてはいないか。
寒い夜に、暖かな場所で眠れているのか。
何一つ分からないまま、十四年が過ぎた。
「……妙なものだな」
景焱が呟く。
「昨日まで、どこにいるのかも分からなかった。それが突然見つかった」
この屋敷のどこかで、明珠も同じ夜を過ごしている。
ただ、それだけのこと。
けれど十四年間、一度として得られなかった安心だった。
「明日、明珠を連れて皇都へ戻る」
景焱は迷いなく言った。
「柳家には支度をさせろ。道中も無理はさせるな」
「御意」
子昂が頭を下げる。
景焱は再び庭へ目を向けた。
もう、あの日のようなことは起こさない。
一度失った。
十四年も離れた。
それで十分だ。
「……二度と失わぬ」
低い声が、夜の室内へ落ちた。
◇
柳家の奥では、まだ華蓮の部屋だけが煌々と明るかった。
螺鈿を施した鏡台の上には、金銀の簪や白玉の耳飾りが並べられている。衣桁には何枚もの襦裙が掛けられ、開かれた衣装箱からは鮮やかな絹が溢れていた。
龍帝の番。
その知らせは、宴が終わる頃には使用人たちの間にも広がっていた。
昨夜まで柳家の令嬢だった少女が、明日には龍帝とともに皇都へ向かう。
いずれ、この国で誰より尊い女性になるかもしれない。
侍女たちは、どの衣を持っていくか、どの簪を合わせるかと慌ただしく動いている。
その中心で、華蓮は鏡台の前に座っていた。
豊かな黒髪はすでに解かれ、肩から背へ艶やかに流れている。
鏡の中の自分を見ながら、華蓮は何度目か分からないほど今夜のことを思い返していた。
景焱。
切れ長の黒い瞳。
長い黒髪。
近寄りがたいほど整った顔。
広間の誰より華やかな衣を纏っていたわけでもないのに、ただそこにいるだけで、すべての者の視線を集めていた。
その男が、自分を見て息を呑んだ。
――明珠。
そう呼んだ。
十四年間、自分を探していたのだという。
思い出すだけで、華蓮の胸が甘く高鳴った。
「お嬢様、こちらの簪はいかがいたしましょう」
「持っていくわ」
「こちらの白玉も?」
「それもお願い」
明日から、自分の人生は変わる。
柳家の娘ではなく、龍帝の番として生きるのだ。
だが、ふと鏡の中の自分を見て、華蓮の眉が寄った。
頬の血色が少し悪い。
身体も重かった。
長い宴のせいだろうか。
胸の奥にも、いつもの鈍い重さがある。
明日も景焱に会う。
今日より近くで話すことになるかもしれない。
華蓮は自分の頬へ指を当てた。
「玉鈴を呼んで」
◇
「玉鈴。華蓮様がお呼びよ」
宴で使われた布巾を洗っていた玉鈴の手が止まった。
桶の水から上げた指先を、雫が伝って落ちる。
ほんの一瞬。
玉鈴は動かなかった。
それから顔を上げる。
「……はい」
濡れた手を粗末な布で拭い、桶を端へ寄せる。
厨房の裏には、まだ宴の名残が残っていた。
積み上げられた白磁の皿。
火の落ちかけた竈。
大鍋から細く立ち昇る湯気。
使用人たちは後片づけに追われ、華蓮に呼ばれて奥へ向かう玉鈴を気に留める者はいなかった。
長い回廊を歩く。
華蓮の部屋へ近づくにつれ、足元が変わっていった。
冷たい石から、磨き上げられた木の床へ。
さらに奥へ入れば、厚く柔らかな敷物が足音を吸い込む。
香炉から甘い香が漂い、夜の冷気もここまでは届かない。
暖かい。
華蓮の部屋は、いつも暖かかった。
玉鈴は扉の前で立ち止まった。
「玉鈴でございます」
「入りなさい」
中へ入ると、麗華もいた。
華蓮は鏡台の前に座っている。
薄い夜着は淡い桃色で、襟や袖口には細かな花が刺繍されていた。艶やかな黒髪が背を覆い、白い頬には薄く紅が残っている。
玉鈴は入口近くで頭を下げた。
同じ十五歳。
けれど、並べれば誰もそうは思わなかっただろう。
もっとも、玉鈴自身、自分が十五歳だとは知らない。
生まれた日も。
生まれた場所も。
両親の顔も。
何も知らなかった。
物心がついた頃には、すでに誰かの家にいた。
六つか七つの頃にいた家のことなら、わずかに覚えている。
そこから別の家へ売られ。
また別の家へ渡され。
やがて柳家へ来た。
それからは、ずっとここにいる。
「こっちへ来て」
玉鈴は華蓮の前まで歩いた。
「手」
その一言で、何を求められているのか分かった。
玉鈴は右手を差し出す。
華蓮が細い手首を握った。
何度も繰り返してきたことだった。
いつから始まったのか、玉鈴はもう覚えていない。
ただ、華蓮が病で寝込んでいた頃から、こうして呼ばれていた。
呼ばれたら行く。
手を出す。
目を閉じる。
動かずに待つ。
そうしていれば、いつか終わる。
玉鈴は静かに目を伏せた。
次の瞬間。
身体の奥から、温かなものが引き出された。
「……っ」
ほんのわずかに息が詰まる。
目には見えない。
けれど、分かる。
指先から何かが抜けていく。
腕が冷える。
その冷たさが肩へ上がり、身体の芯へ染み込んでいく。
玉鈴は動かなかった。
宴で打たれた頬は、まだ熱を持っている。
床へ倒れたときに打った肩も痛んだ。
今日はいつもより身体が重い。
それでも、手を引かなかった。
引いてよいとは言われていないから。
一方、華蓮の頬には、ゆっくりと血色が戻っていった。
重かった瞼が軽くなる。
胸の鈍い重さも薄れていく。
指先まで温かい。
鏡の中の自分の顔が、少しずつ艶を取り戻していく。
華蓮の口元が緩んだ。
「……やっぱり、これが一番ね」
玉鈴の膝が小さく震えた。
華蓮は気づかなかった。
いや。
気づく必要がなかった。
玉鈴の気をもらえば、自分は楽になる。
ずっとそうしてきた。
今夜も同じだった。
明日は、景焱とともに皇都へ向かう。
今日よりも綺麗な自分で会いたい。
華蓮はもう少しだけと、玉鈴の手首を握り続けた。
玉鈴の身体がぐらりと揺れる。
「華蓮」
麗華が声を掛けた。
「そのくらいにしておきなさい」
「もう少し」
「倒れられたら面倒でしょう」
華蓮は鏡の中の自分を確かめてから、ようやく手を放した。
玉鈴の腕が、力なく落ちる。
身体も傾き、片手を床へついた。
華蓮はすでに鏡へ顔を戻していた。
頬へ触れ、満足そうに微笑む。
「そうね、もういいわ」
玉鈴は床に手をついたまま、呼吸が戻るのを待った。
それから、自分で立ち上がった。
「……はい」
手を貸す者など、誰もいなかった。
◇
客殿の灯りが消えた頃。
景焱はようやく寝台へ横になっていた。
十四年ぶりの安堵に、張りつめ続けていた身体から少しずつ力が抜けていく。
眠りへ落ちかけた、そのときだった。
胸の奥が、かすかに揺れた。
「……?」
景焱が目を開ける。
痛みではない。
何かが遠くで弱くなったような。
手を伸ばせば届きそうで、けれど掴もうとすれば消えてしまうような感覚。
ほんの一瞬だった。
景焱は身を起こしかけた。
だが、すぐに気配は消えた。
静かな部屋に、夜風が入り込む。
景焱はしばらく闇を見つめた。
やがて息を吐き、再び枕へ頭を戻す。
明珠はいる。
同じ屋敷の中に。
十四年間、一度として得られなかった安心が、今夜はある。
景焱は目を閉じた。
その頃。
玉鈴は厨房の隅に座っていた。
後片づけは、ほとんど終わっている。
身体に力が入らない。
けれど、何も食べずに眠れば、明日の朝はもっと動けなくなる。
それくらいは経験で知っていた。
宴の残りの粥を少しだけ椀によそう。
匙を持った。
一口。
ゆっくり飲み込む。
もう一口。
三口目をすくったところで、手が止まった。
食べなければならない。
けれど、喉が受けつけない。
玉鈴は匙を椀へ戻した。
少し眠れば、明日はまた動ける。
そう思って立ち上がろうとしたとき。
ふと、宴の広間で感じた香りを思い出した。
あの人のそばにいた、ほんの短い時間。
不思議なくらい身体が楽だった。
ずっと身体の奥にあった重さが、少しだけ消えた。
どうしてなのかは分からない。
玉鈴は膝の上へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。
もう一度。
あの香りを感じたい。
そう思った。
同じ屋敷の客殿では、景焱が十四年ぶりの安堵の中で眠りにつこうとしていた。
もう二度と失わない。
そう誓った番が、ほんの少し離れた屋敷の片隅で――
冷たい板床に身を横たえているとも知らずに。
お読みいただきありがとうございます。
2日に1回、20時10分更新予定です。
続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。




