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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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3/13

奪われていたもの

 宴が終わり、最後の客が柳家を辞した頃には、夜もすっかり更けていた。

 つい先ほどまで楽の音と笑い声に満ちていた広間には、酒と香の匂いが残っている。灯籠の火もいくつか落とされ、使用人たちが膳や酒器を片づける音だけが、静かになった屋敷に響いていた。

 柳文徳《りゅう・ぶんとく》は、人のいなくなった卓の前に座っていた。

 向かいには妻の蘇麗華《そ・れいか》。

 その傍らには、今夜突然、龍帝の番となった娘の柳華蓮《りゅう・かれん》がいる。


「あなた。よくもまあ、あんな話が咄嗟に出てきたわね」

「ほかにどう言えというのだ」


 文徳は杯を取り、一口だけ酒を含んだ。


「陛下がお探しなのは、十四年前に行方知れずとなった娘だ。華蓮を実の娘だと言えば、その場で話が合わなくなる」

「それで、川辺で拾ったと?」

「ああ」


 宴の席で、景焱は華蓮を見るなり「明珠」と呼んだ。

 十四年前、増水した川で失った、一歳の番。

 それが華蓮なのだと。

 龍が己の番を違えることなどない。

 ましてや相手は龍帝だ。

 ならば、間違っているはずがない。

 そう考えた瞬間、文徳は話を合わせた。

 十四年前。

 川辺で拾った赤子。

 身元が分からぬまま引き取り、情が移って手放せなくなった娘。

 すべて、その場で作った話だった。


「でも、お父様」


 華蓮が小さく口を開いた。

 華やかな宴装束のままではあるが、先ほどまで浮かべていた喜びは少し薄れている。


「私、本当に陛下の番なの?」

「何を今さら」

「だって、私は明珠なんて名前ではないもの」

「拾った者が名を変えたと思われたのであろう」


 文徳の声に迷いはなかった。


「陛下ご自身がお前を見て明珠と呼ばれたのだ。龍の一族が己の番を違えることなどない」

「……そうよね」

「ああ。お前が龍帝陛下の番なのだ」


 華蓮の顔から不安が消えていく。

 代わりに、ゆっくりと頬が緩んだ。

 若く、美しい龍帝。

 その男が十四年もの間、自分一人を探していた。

 そして明日には、自分を皇城へ連れていくという。

 夢のような話だった。

 誰一人として疑わなかった。

 景焱が華蓮を番だと言った。

 だから華蓮が明珠なのだと。

 このときは、まだ。


 ◇


 同じ頃。

 客殿では、景焱もまた眠れずにいた。

 宴装束から着替え、薄い夜着の上へ黒い外衣を羽織ったまま、開け放った窓辺に立っている。

 月明かりに浮かぶ柳家の庭は静かだった。

 反り返った屋根の軒先から吊るされた灯籠が夜風にわずかに揺れ、池の水面には月と築山の影が映っている。遠くでは、宴の後片づけをする使用人たちの足音が時折聞こえた。

 北方から戻ったばかりの身体には疲労が残っている。

 ここ数日は馬上で過ごす時間も長かった。

 今夜は酒も飲んだ。

 本来なら、寝台へ入ればすぐに眠れるはずだった。

 それなのに目が冴えている。

 身体の奥で、龍の気が妙に高ぶっていた。

 荒れているのとは違う。何かを見つけたように、血の奥がざわめき、じっとしていられない。

 十四年間、こんな感覚はなかった。

 この屋敷に、明珠がいる。

 そう思うだけで、胸の奥に不思議な静けさがあった。

 それとは裏腹に、身体の奥の龍だけが、まだ何かを求めるように騒いでいる。


「お休みにならないのですか」


 韓子昂《かん・しこう》が声を掛けた。

 四十歳になる子昂は、卓に残された酒器を脇へ寄せながら主君を見る。


「眠れると思うか」

「お疲れでしょうに」

「身体はな」


 景焱は短く答えた。

 子昂の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「ようございましたね、陛下」


 景焱は振り返った。

 何か言い返しかけて、やめる。

 長く仕えてきた子昂は知っている。

 六歳だった景焱が、どれほど明珠を探してきたのか。

 あの日。

 濁流へ消えた小さな身体を追い、景焱自身も川へ飛び込んだ。

 何度潜っても見つからなかった。

 兵を集め、下流まで捜した。川沿いの村々へも人を遣った。

 それでも見つからず、やがて捜索の範囲は州を越えた。

 ただ一つだけ、景焱には分かっていた。

 明珠は生きている。

 龍は己の番が死ねば、それを知る。

 だから諦めなかった。

 だが、生きていると分かることと、どこでどう生きているかが分かることは違う。

 どこにいる。

 誰といる。

 腹を空かせてはいないか。

 寒い夜に、暖かな場所で眠れているのか。

 何一つ分からないまま、十四年が過ぎた。


「……妙なものだな」


 景焱が呟く。


「昨日まで、どこにいるのかも分からなかった。それが突然見つかった」


 この屋敷のどこかで、明珠も同じ夜を過ごしている。

 ただ、それだけのこと。

 けれど十四年間、一度として得られなかった安心だった。


「明日、明珠を連れて皇都へ戻る」


 景焱は迷いなく言った。


「柳家には支度をさせろ。道中も無理はさせるな」

「御意」


 子昂が頭を下げる。

 景焱は再び庭へ目を向けた。

 もう、あの日のようなことは起こさない。

 一度失った。

 十四年も離れた。

 それで十分だ。


「……二度と失わぬ」


 低い声が、夜の室内へ落ちた。


 ◇


 柳家の奥では、まだ華蓮の部屋だけが煌々と明るかった。

 螺鈿を施した鏡台の上には、金銀の簪や白玉の耳飾りが並べられている。衣桁には何枚もの襦裙が掛けられ、開かれた衣装箱からは鮮やかな絹が溢れていた。

 龍帝の番。

 その知らせは、宴が終わる頃には使用人たちの間にも広がっていた。

 昨夜まで柳家の令嬢だった少女が、明日には龍帝とともに皇都へ向かう。

 いずれ、この国で誰より尊い女性になるかもしれない。

 侍女たちは、どの衣を持っていくか、どの簪を合わせるかと慌ただしく動いている。

 その中心で、華蓮は鏡台の前に座っていた。

 豊かな黒髪はすでに解かれ、肩から背へ艶やかに流れている。

 鏡の中の自分を見ながら、華蓮は何度目か分からないほど今夜のことを思い返していた。

 景焱。

 切れ長の黒い瞳。

 長い黒髪。

 近寄りがたいほど整った顔。

 広間の誰より華やかな衣を纏っていたわけでもないのに、ただそこにいるだけで、すべての者の視線を集めていた。

 その男が、自分を見て息を呑んだ。

 ――明珠。

 そう呼んだ。

 十四年間、自分を探していたのだという。

 思い出すだけで、華蓮の胸が甘く高鳴った。


「お嬢様、こちらの簪はいかがいたしましょう」

「持っていくわ」

「こちらの白玉も?」

「それもお願い」


 明日から、自分の人生は変わる。

 柳家の娘ではなく、龍帝の番として生きるのだ。

 だが、ふと鏡の中の自分を見て、華蓮の眉が寄った。

 頬の血色が少し悪い。

 身体も重かった。

 長い宴のせいだろうか。

 胸の奥にも、いつもの鈍い重さがある。

 明日も景焱に会う。

 今日より近くで話すことになるかもしれない。

 華蓮は自分の頬へ指を当てた。


「玉鈴を呼んで」


 ◇


「玉鈴。華蓮様がお呼びよ」


 宴で使われた布巾を洗っていた玉鈴《ぎょくれい》の手が止まった。

 桶の水から上げた指先を、雫が伝って落ちる。

 ほんの一瞬。

 玉鈴は動かなかった。

 それから顔を上げる。


「……はい」


 濡れた手を粗末な布で拭い、桶を端へ寄せる。

 厨房の裏には、まだ宴の名残が残っていた。

 積み上げられた白磁の皿。

 火の落ちかけた竈。

 大鍋から細く立ち昇る湯気。

 使用人たちは後片づけに追われ、華蓮に呼ばれて奥へ向かう玉鈴を気に留める者はいなかった。

 長い回廊を歩く。

 華蓮の部屋へ近づくにつれ、足元が変わっていった。

 冷たい石から、磨き上げられた木の床へ。

 さらに奥へ入れば、厚く柔らかな敷物が足音を吸い込む。

 香炉から甘い香が漂い、夜の冷気もここまでは届かない。

 暖かい。

 華蓮の部屋は、いつも暖かかった。

 玉鈴は扉の前で立ち止まった。


「玉鈴でございます」

「入りなさい」


 中へ入ると、麗華もいた。

 華蓮は鏡台の前に座っている。

 薄い夜着は淡い桃色で、襟や袖口には細かな花が刺繍されていた。艶やかな黒髪が背を覆い、白い頬には薄く紅が残っている。

 玉鈴は入口近くで頭を下げた。

 同じ十五歳。

 けれど、並べれば誰もそうは思わなかっただろう。

 もっとも、玉鈴自身、自分が十五歳だとは知らない。

 生まれた日も。

 生まれた場所も。

 両親の顔も。

 何も知らなかった。

 物心がついた頃には、すでに誰かの家にいた。

 六つか七つの頃にいた家のことなら、わずかに覚えている。

 そこから別の家へ売られ。

 また別の家へ渡され。

 やがて柳家へ来た。

 それからは、ずっとここにいる。


「こっちへ来て」


 玉鈴は華蓮の前まで歩いた。


「手」


 その一言で、何を求められているのか分かった。

 玉鈴は右手を差し出す。

 華蓮が細い手首を握った。

 何度も繰り返してきたことだった。

 いつから始まったのか、玉鈴はもう覚えていない。

 ただ、華蓮が病で寝込んでいた頃から、こうして呼ばれていた。

 呼ばれたら行く。

 手を出す。

 目を閉じる。

 動かずに待つ。

 そうしていれば、いつか終わる。

 玉鈴は静かに目を伏せた。

 次の瞬間。

 身体の奥から、温かなものが引き出された。


「……っ」


 ほんのわずかに息が詰まる。

 目には見えない。

 けれど、分かる。

 指先から何かが抜けていく。

 腕が冷える。

 その冷たさが肩へ上がり、身体の芯へ染み込んでいく。

 玉鈴は動かなかった。

 宴で打たれた頬は、まだ熱を持っている。

 床へ倒れたときに打った肩も痛んだ。

 今日はいつもより身体が重い。

 それでも、手を引かなかった。

 引いてよいとは言われていないから。


 一方、華蓮の頬には、ゆっくりと血色が戻っていった。

 重かった瞼が軽くなる。

 胸の鈍い重さも薄れていく。

 指先まで温かい。

 鏡の中の自分の顔が、少しずつ艶を取り戻していく。

 華蓮の口元が緩んだ。


「……やっぱり、これが一番ね」


 玉鈴の膝が小さく震えた。

 華蓮は気づかなかった。

 いや。

 気づく必要がなかった。

 玉鈴の気をもらえば、自分は楽になる。

 ずっとそうしてきた。

 今夜も同じだった。

 明日は、景焱とともに皇都へ向かう。

 今日よりも綺麗な自分で会いたい。

 華蓮はもう少しだけと、玉鈴の手首を握り続けた。

 玉鈴の身体がぐらりと揺れる。


「華蓮」


 麗華が声を掛けた。


「そのくらいにしておきなさい」

「もう少し」

「倒れられたら面倒でしょう」


 華蓮は鏡の中の自分を確かめてから、ようやく手を放した。

 玉鈴の腕が、力なく落ちる。

 身体も傾き、片手を床へついた。

 華蓮はすでに鏡へ顔を戻していた。

 頬へ触れ、満足そうに微笑む。


「そうね、もういいわ」


 玉鈴は床に手をついたまま、呼吸が戻るのを待った。

 それから、自分で立ち上がった。


「……はい」


 手を貸す者など、誰もいなかった。


 ◇


 客殿の灯りが消えた頃。

 景焱はようやく寝台へ横になっていた。

 十四年ぶりの安堵に、張りつめ続けていた身体から少しずつ力が抜けていく。

 眠りへ落ちかけた、そのときだった。

 胸の奥が、かすかに揺れた。


「……?」


 景焱が目を開ける。

 痛みではない。

 何かが遠くで弱くなったような。

 手を伸ばせば届きそうで、けれど掴もうとすれば消えてしまうような感覚。

 ほんの一瞬だった。

 景焱は身を起こしかけた。

 だが、すぐに気配は消えた。

 静かな部屋に、夜風が入り込む。

 景焱はしばらく闇を見つめた。

 やがて息を吐き、再び枕へ頭を戻す。

 明珠はいる。

 同じ屋敷の中に。

 十四年間、一度として得られなかった安心が、今夜はある。

 景焱は目を閉じた。


 その頃。

 玉鈴は厨房の隅に座っていた。

 後片づけは、ほとんど終わっている。

 身体に力が入らない。

 けれど、何も食べずに眠れば、明日の朝はもっと動けなくなる。

 それくらいは経験で知っていた。

 宴の残りの粥を少しだけ椀によそう。

 匙を持った。

 一口。

 ゆっくり飲み込む。

 もう一口。

 三口目をすくったところで、手が止まった。

 食べなければならない。

 けれど、喉が受けつけない。

 玉鈴は匙を椀へ戻した。

 少し眠れば、明日はまた動ける。

 そう思って立ち上がろうとしたとき。

 ふと、宴の広間で感じた香りを思い出した。

 あの人のそばにいた、ほんの短い時間。

 不思議なくらい身体が楽だった。

 ずっと身体の奥にあった重さが、少しだけ消えた。

 どうしてなのかは分からない。

 玉鈴は膝の上へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 もう一度。

 あの香りを感じたい。


 そう思った。


 同じ屋敷の客殿では、景焱が十四年ぶりの安堵の中で眠りにつこうとしていた。


 もう二度と失わない。


 そう誓った番が、ほんの少し離れた屋敷の片隅で――

 冷たい板床に身を横たえているとも知らずに。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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