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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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2/12

十四年探した番

 十四年後。

 北方への遠征を終えた龍帝・蕭景焱《しょう・けいえん》は、皇城への帰途にあった。

 その一行が柳州へ入ったのは、日が西へ傾き始めた頃だった。

 龍帝が領内を通る。

 知らせを受けた柳家の当主・柳文徳《りゅう・ぶんとく》は、すぐさま一行の宿所として屋敷を差し出した。

 もちろん、それだけでは終わらない。

 龍帝を迎える以上、相応の宴を設けなければならなかった。

 しかも知らせが届いたのは、その日の昼過ぎ。

 柳家の屋敷は、たちまちひっくり返したような騒ぎになった。


「青磁の大壺はどこ!」

「客間の香炉をこちらへ!」

「厨房から魚が上がるよ。そこ、道を空けて!」


 朱塗りの柱が連なる回廊を、使用人たちが慌ただしく行き交う。

 普段から客の多い柳家だが、今夜ばかりは勝手が違った。

 広間には彫花の衝立が運び込まれ、柱には金糸の房飾りが下げられる。磨き上げられた卓には深紅の絹布が掛けられ、白磁や青磁の器が隙間なく並んでいった。

 厨房では大鍋から白い湯気が立ち昇っている。

 飴色に焼かれた鶏。葱と生姜をたっぷり載せた白身魚の蒸し物。八角の甘い香りを漂わせる煮豚。海老と青菜の炒め物に、蓮の実を浮かべた羹。大皿には桃や梨、棗が彩りよく盛られていた。

 日が沈む頃には、軒下に吊るされた灯籠へ次々と火が入った。

 朱と金に彩られた屋敷が、夜の闇の中へ鮮やかに浮かび上がる。


 ◇


 宴が始まると、広間には地方の役人や有力者が集まり、杯を交わす音と笑い声が満ちた。

 隅では楽師が琵琶や琴を奏で、細い香炉から立ち昇る香煙が、灯籠の明かりの中をゆるやかに漂っている。

 その最奥。

 一段高く設けられた上座に、景焱(けいえん)はいた。

 二十歳になった若き龍帝。

 六歳の頃にはまだ細かった身体も、十四年を経た今ではすっかり男のものになっている。

 背は高く、すらりとしているが、長年剣を握ってきた身体は無駄なく鍛えられていた。

 腰近くまである艶やかな漆黒の髪は、金の龍冠で高く束ねられている。

 黒に近い深藍の龍袍には、金糸で五爪の龍と雲が縫い取られ、袖が動くたび、灯火を受けた刺繍が鈍く輝いた。

 切れ長の黒い瞳。

 男とは思えぬほど長い睫毛。

 整いすぎるほど整った顔立ちには、少年の頃にはなかった鋭さと、帝として人の上に立ち続けてきた者の威が宿っている。

 ただ座っているだけで、そこだけ空気が違った。

 景焱は差し出された杯へ口をつけながら、賑わう宴を静かに眺めていた。

 北方から皇城へ戻る途中で設けられた宴だ。自分のために集められた者たちが楽しんでいるのなら、それでいい。

 傍らには腹心の韓子昂《かん・しこう》が控えていた。

 四十歳。景焱がまだ幼かった頃から仕えている男で、長身に広い肩、武人らしい逞しい身体をしている。

 子昂(しこう)が、ほとんど手のつけられていない景焱の膳へ目をやった。


「陛下。少しはお召し上がりください」

「後で食べる」

「その『後で』が来たところを、私はあまり見たことがございませんが」


 景焱が横目で見る。

 子昂は何食わぬ顔で一礼した。

 景焱は小さく息を吐き、箸を取った。


 ◇


 その頃、厨房の裏では、玉鈴《ぎょくれい》が一着の衣を前に立っていた。

 柳家の女中が着る、淡い灰青色の上衣と裙。

 華やかなものではない。飾りもほとんどなく、柳家ではごく普通の使用人の衣だ。

 それでも玉鈴が普段着ている、色褪せて何度も繕われた粗末な衣とはまるで違った。

 何より、玉鈴には大きすぎる。

 袖の中へ手がすっぽり隠れ、肩は余り、帯を締めても腰回りに布が余る。裙の裾も長く、このままでは歩くたびに踏んでしまいそうだった。


「今日はそれを着なさい。宴に人手を取られてるの」

「……はい」


 玉鈴は袖を折り返した。

 一度では足りず、もう一度。

 裾もできるだけ上へたくし上げ、帯をきつく締める。

 鏡はない。

 自分がどんな姿になっているのかも分からない。

 ただ、借りた衣を汚してはいけないと思った。


「玉鈴!」


 呼ばれ、肩が小さく跳ねる。

 振り向いた玉鈴の手へ、料理を載せた盆が渡された。


「これを広間へ。絶対に落とすんじゃないよ」

「はい」


 玉鈴は両手で盆を支えた。

 白磁の皿から、温かな湯気が上がっている。

 重い。

 けれど何も言わず、細い腕に力を込めた。

 袖がずり落ちてくる。

 手首を少し返し、布を押さえた。

 失敗してはいけない。

 目立ってはいけない。

 言われたことをして、戻ればいい。

 玉鈴は盆から目を離さず、宴の広間へ向かった。


 回廊を進むにつれ、別世界のような音が近づいてくる。

 楽の音。

 男たちの笑い声。

 杯の触れ合う澄んだ音。

 開け放たれた扉の向こうには、玉鈴が普段足を踏み入れることのない華やかな世界が広がっていた。

 金の房飾り。

 赤い灯籠。

 色鮮やかな衣を纏った客たち。

 焚かれた香と料理と酒の匂い。

 その中へ一歩入った瞬間。

 玉鈴の足が止まった。


「……?」


 何かが、香った。

 料理ではない。

 香炉から立つ香でもない。

 庭から漂う花の匂いとも違う。

 淡くて。

 どこか温かい。

 息を吸い込んだだけで、胸の奥にずっと張りついていたものが、わずかにほどけた。

 玉鈴は顔を上げた。

 知らないはずの香りだった。

 けれど。

 知っている。

 そんな気がした。

 理由など分からない。

 ただ身体のどこかが、その香りを覚えている。


「早く」


 後ろから小さく急かされた。

 玉鈴は慌てて歩き出す。

 それでも、目は無意識に香りの元を探していた。

 広間の最奥。

 深藍の龍袍を纏った男がいる。

 玉鈴は見た瞬間に分かった。


 ――あの方だ。


 龍帝陛下。

 この国で最も尊い人。

 自分とは、生涯言葉を交わすことさえないはずの人。

 けれど。

 もう少しだけ、近くにいたい。

 あの人のそばなら、なぜか怖くないような気がした。

 玉鈴はすぐに目を伏せた。

 見てはいけない。

 自分が見てよい人ではない。

 盆を握り直す。

 一歩。

 もう一歩。

 そのときだった。

 すぐ横を通り過ぎようとした女中の足が伸びた。

 玉鈴には見えなかった。

 足先が引っかかる。

 大きすぎる裙の裾まで靴に絡んだ。


「……っ」


 身体が傾いた。

 盆が滑る。


 ガシャン!


 白磁の割れる甲高い音が、広間いっぱいに響いた。

 料理が床へ散り、その一部が近くに座っていた男の衣へ飛ぶ。

 楽の音が止まった。


「何をする!」


 男が立ち上がる。

 玉鈴は床へ膝をついたまま、すぐに頭を下げた。


「申し訳ございません」


 次の瞬間。

 頬に強い衝撃が走った。

 小さな身体が床へ弾き飛ばされる。

 肩から倒れ、息が詰まった。

 何が起きたのか考えるより先に、身体が動く。

 起きなければ。

 謝らなければ。

 玉鈴は床へ手をついた。


「……申し訳、ございません」


 広間は静まり返っていた。

 幾つもの視線が、倒れた小さな女中へ集まっている。

 景焱もまた、玉鈴を見ていた。


 胸の奥を、強く引かれた。


「……」


 打たれたのは自分ではない。

 それなのに。

 あの小さな身体が弾かれた瞬間、胸の奥を直接掴まれたような感覚が走った。

 気づけば、腰を浮かせていた。

 景焱の眉が寄る。

 なぜ立ち上がろうとした。

 なぜ、あの娘から目を離せない。

 名も知らない。

 大きすぎる女中の衣に身体ごと埋もれているような、ひどく小さな娘だ。

 年も十を少し越えた程度にしか見えない。

 痩せた頬。

 艶を失った黒髪。

 床へついた手は、子供のものとは思えないほど荒れている。

 知らない娘だ。

 そのはずなのに。


「謝って済むと思っているのか!」


 男が一歩近づいた。

 玉鈴が身を縮める。

 腕が再び上がった。


「もうよい!」


 低い声が広間を打った。

 男の腕が止まる。

 景焱は立ち上がっていた。

 自分でも、なぜこれほど強い声が出たのか分からない。

 ただ。

 もう一度、あの娘が打たれるところを見たくなかった。


「興が醒めた。その娘を下がらせろ」

「は、はい!」


 使用人たちが慌てて動く。

 年嵩の女中が玉鈴へ駆け寄り、その細い腕を取った。

 玉鈴は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

 それでも自分で立とうとする。

 女中が何も言わず、身体を支えた。

 玉鈴は頭を下げた。


「……申し訳ございません」


 それだけを残し、支えられながら広間を出ていく。

 景焱はその背中を見ていた。

 扉の向こうへ消えるまで。

 胸のざわつきが消えない。

 何だった。

 今のは。

 ほんのわずかに。

 何かを感じたような気がした。

 けれど、あまりにも弱い。

 掴もうとすれば、指の間から消えてしまうほどに。


「陛下」


 文徳の声で、景焱はようやく視線を戻した。


「先ほどは大変な無礼を。申し訳ございません」

「もうよい」


 短く答える。

 それでも意識の一部は、先ほど娘が消えた扉へ残っていた。


「陛下。ぜひ、ご紹介申し上げたい者がございます」


 文徳が合図をした。

 広間の扉が開く。

 一人の少女が入ってきた。

 柳華蓮《りゅう・かれん》。

 十五歳。

 淡紅の襦裙は柔らかな絹で仕立てられ、裾には金糸と銀糸で牡丹が刺繍されている。歩くたび、重ねた薄絹が花びらのように揺れた。

 腰まで届く豊かな黒髪は艶やかに結い上げられ、金細工の簪と白玉が灯火を弾いている。

 先ほどの玉鈴とは、何もかもが違った。

 同じ年頃の娘とは、とても思えないほどに。

 華蓮は広間へ進み、教えられたとおり優雅に礼を取った。


「柳華蓮と申します。陛下にお目にかかれましたこと、恐悦至極に存じます」


 景焱が華蓮を見る。

 その瞬間だった。


「――」


 息が止まった。

 甘く、柔らかく、懐かしいものが漂っている。

 忘れたことなどない。

 忘れられるはずもない。

 十四年間。

 ずっと求め続けてきたもの。


「……まさか」


 景焱が立ち上がる。

 華蓮が驚いたように顔を上げた。

 けれど景焱には、もう周囲が見えていなかった。

 降りしきる雨。

 崩れる川岸。

 濁流へ消えた、小さな身体。

 伸ばした手。

 届かなかった指先。


 ――明珠。


 六歳だった。

 何もできなかった。

 ただ探した。

 日が暮れても。

 夜が明けても。

 春が来ても。

 冬が来ても。

 皇子から龍帝となり、国中へ人を遣わせることができるようになってからも探し続けた。

 似た年頃の娘がいると聞けば確かめさせた。

 遠い州から知らせが届けば、人を送った。

 そのたびに違った。

 生きている。

 それだけは分かっているのに。

 どこにいるのかだけが分からなかった。

 寒くはないか。

 腹を空かせてはいないか。

 泣いてはいないか。

 十四年間。

 一日たりとも忘れたことはない。

 その気配が。

 今、目の前にある。

 景焱は上座を降りた。

 一歩。

 また一歩。

 華蓮へ近づいていく。

 華蓮は動かなかった。

 若き龍帝が、自分だけを見つめながら歩いてくる。

 その事実に息をすることすら忘れていた。

 景焱が目の前で足を止める。


「……ここに」


 声が掠れた。


「ここに、いたのか」


 華蓮の目が大きくなる。

 景焱は、目の前の少女に漂う気を確かめるように見つめた。

 甘く。

 柔らかく。

 あの日と同じ。

 そう思った。


「……明珠」

「……え?」


 華蓮だけではない。

 文徳も、その傍らにいた妻・蘇麗華《そ・れいか》も顔を上げた。


「明珠だ」


 景焱の声に、迷いはなかった。


「予が十四年間、探し続けていた番だ」


 広間が静まり返った。


「……番?」


 華蓮が呟く。

 景焱は頷いた。


「そなたが、予の番だ」


 龍が、己の番を違えるはずがない。

 この気を忘れるはずもない。

 十四年間。

 ずっとそう信じてきた。


「十四年前、増水した川で行方が分からなくなった。当時、一歳だった」


 文徳の表情が変わった。

 ほんのわずかに。

 だが、その変化を麗華は見逃さなかった。

 夫婦の視線が交わる。


「川……」


 文徳が呟く。

 景焱が振り向いた。


「何か知っているのか」


 一瞬の沈黙。

 やがて文徳はゆっくりと膝をついた。


「……陛下。お許しくださいませ」


 景焱の目が細くなる。


「何をだ」

「華蓮を拾ったのは……十四年前にございます」


 麗華の目がわずかに見開かれた。

 華蓮も父を見る。

 だが、文徳は娘へ目を向けなかった。


「川辺で、一人の赤子を見つけました。身元を示すものは何もなく……そのまま我が家へ連れ帰ったのでございます」


 広間の誰も声を発しない。

 景焱は文徳を見下ろした。


「予が明珠を探していることは」

「……存じておりました」

「ならば、なぜ知らせなかった」


 先ほどまでとは違う声だった。

 低く、静かで。

 だからこそ、広間の者たちは一斉に息を詰めた。

 文徳が額を床へつける。


「共に暮らすうち……情が移りました。妻も私も、この子を我が子として手放せなくなったのでございます」


 景焱は何も言わなかった。

 十四年。

 六歳から二十歳まで。

 どれほど探したか。

 この男は、それを知りながら隠していたという。


「どのような罰も、お受けいたします」


 文徳の言葉を聞きながら、景焱は華蓮へ目を向けた。

 血色のよい頬。

 艶やかな髪。

 金糸を惜しみなく使った衣。

 大切に育てられたことは、一目で分かった。

 十四年前の明珠は、一歳だった。

 一人では何もできない赤子だった。

 もし誰にも拾われなければ、生き延びられなかったかもしれない。


「……本来なら、許されることではない」


 文徳の頭がさらに下がる。


「だが、この娘を拾い、今日まで育てたことまで否定するつもりはない」


 景焱は華蓮を見る。

 華蓮もまた、景焱を見つめていた。

 若く、美しい龍帝。

 この国で最も高い場所にいる男。

 その男が十四年間、ただ一人の番を探していた。

 そして。

 その相手が自分だという。

 頬が熱を持つ。

 龍が番を違えることなどない。

 ならば、本当に自分なのだ。

 華蓮はゆっくりと目を伏せた。

 景焱はその姿を見つめる。

 一歳だった頃の面影など、残っていなくて当然だ。

 何も覚えていなくてもおかしくない。

 姿が変わろうと。

 名が変わろうと。

 龍は魂で番を知る。

 そう教えられてきた。

 だから。

 疑わなかった。


「やっと……見つけた」


 十四年分の息を吐き出すように、景焱が呟く。


「そなたが、予の番だ」


 ◇


 宴の広間から遠く離れた小部屋で、玉鈴は椅子の端に腰掛けていた。

 濡らした布が、赤く腫れた頬へ当てられる。


「……っ」


 ほんの少し、肩が揺れた。


「痛むかい」


 年嵩の女中が手を緩める。

 玉鈴は小さく首を横へ振った。


「……大丈夫です」


 頬は熱を持っている。

 床へ倒れたときに打った肩も痛い。

 それでも、玉鈴が気にしていたのは別のことだった。

 広間で感じた、あの香り。

 目を閉じる。

 深藍の衣。

 長い黒髪。

 自分を打とうとした男を止めた、低い声。

 あの人のそばにいたほんの短い間だけ、身体が少し楽だった。

 ずっと身体の奥にあった重さが、遠のいた。

 もう少し。

 あそこにいたかった。

 けれど。

 自分には関係のない人だ。

 この国の龍帝と、柳家の奴隷。

 二度と近くへ行くことなどないだろう。

 玉鈴は膝の上へ置いた手を見つめた。

 それ以上、何も言わなかった。


 広間では今。

 十四年間、ただ一人を探し続けた龍帝が、ようやく己の番を見つけたと信じていた。


 そのすぐ近くに。

 本当に探し続けていた少女がいるとも知らずに。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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