奪われた明珠
中華風の世界を舞台にした、龍帝と「番」の物語です。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
龍の一族にとって、番は命よりも重い。
生涯に、ただ一人。
龍は魂で、その相手を知る。
姿が変わろうと。
名が変わろうと。
本来なら、龍が己の番を違えることなどない。
◇
離宮から皇城へ戻る馬車は、春の夕暮れの中をゆっくりと進んでいた。
朱塗りの車体には金で龍が描かれ、窓を覆う薄絹が風を孕んでかすかに揺れる。遠くには青く霞む山々。道沿いには薄桃色の花が咲き、夕陽を受けた川面が木々の向こうできらめいていた。
その華やかな馬車の中で、六歳の皇子・蕭景焱は、一歳になったばかりの白明珠を膝に抱いていた。
「殿下。また明珠様を抱いていらっしゃるのですか」
「悪いか」
向かいに座る侍女・青蘭が、わずかに笑う。
「いいえ」
「ならばよい」
景焱はそれきり明珠へ視線を戻した。
朝から離宮の庭で遊び回った明珠は、馬車へ乗るなり眠ってしまった。
小さな手には、景焱が摘んでやった花が握られている。すっかり潰れてしまっているのに、眠っても離そうとしない。
景焱は白い頬に貼りついた花びらを、そっと指先で取った。
雪のような肌には、遊び疲れたせいか淡い桃色が差している。まだ短い黒髪には、小さな白玉の髪飾り。淡桃色の襦裙の上には、柔らかな白絹の上衣が重ねられていた。
やがて、長い睫毛が震えた。
大きな黒い瞳が開く。
「あぅ」
「起きたか」
「あー」
景焱は真面目な顔で頷いた。
青蘭が、少しだけ首を傾げる。
「……お分かりになるのですか?」
「分からぬ」
「では、なぜお返事を」
「明珠が予に話している」
それで十分らしい。
「あぅ!」
「ああ」
青蘭は口元を押さえた。
景焱がじろりと見る。
「笑ったな」
「いいえ」
まだ六歳。
けれど景焱は、すでに幼子らしからぬ整った顔立ちをしていた。
白い肌に、すっと通った鼻梁。切れ長の黒い瞳を、驚くほど長い睫毛が縁取っている。
肩を越えた艶やかな黒髪は銀の髪飾りで半ばを結い、残りを背へ流していた。
身に纏うのは、淡い青白の長衣。襟と袖には銀糸で雲と龍が縫い取られ、腰には白玉が揺れている。
黙っていれば、幼い皇子とは思えぬほど凛々しい。
「あー!」
明珠が、その襟を掴んだ。
「引っ張るな」
襟元が緩み、白い胸元が覗く。
そこには、黒い紋があった。
龍紋。
龍の血を濃く受け継ぐ者の身体に、生まれながらに現れる証だ。
明珠の小さな手が、何のためらいもなくそこへ触れる。
景焱が目を瞬いた。
強い龍気を宿す景焱の龍紋は、ときおり熱を持つ。
けれど。
明珠が触れた途端、その熱がすっと引いた。
張りつめていた何かがほどけていく。
凪いだ水面のように。
「……やはり、不思議だな」
「あー」
「褒めている」
分かったのか分からないのか、明珠はにこりと笑った。
景焱の口元も、ほんの少し緩む。
青蘭は何も言わず、そんな二人を見つめていた。
白明珠は、景焱の番だ。
龍にとって、生涯ただ一人の存在。
この小さな娘は、これから先もずっと大切にされるはずだ。
たくさんの者に愛され、守られて。
飢えも。
寒さも。
痛みも知らず。
何一つ恐ろしいものなど知らないまま、景焱のそばで笑っている。
そうなるはずだ。
――ヒュッ。
鋭い音が、夕暮れの空気を裂いた。
「ぐっ……!」
馬車の外で、誰かが呻く。
直後。
――ドッ!
一本の矢が、馬車の壁へ深々と突き刺さった。
「伏せろ!」
景焱の声と同時に、青蘭が明珠へ覆い被さる。
外で馬が激しく嘶いた。
「敵襲!」
「殿下をお守りしろ!」
剣を抜く音。怒号。馬蹄。
穏やかだった街道が、一瞬で戦場へ変わった。
「ふぇ……」
明珠の顔が歪む。
「うわぁぁん!」
「明珠!」
景焱が抱き寄せた。
そのとき、馬車の外から男の声が飛んだ。
「番は中だ!」
景焱の顔から、幼さが消えた。
「……明珠が狙いか」
「番を殺せ!」
龍を討てぬのなら、その番を殺せばいい。
番を失った龍は、やがて己の強大な力を制御できなくなる。
眠れなくなり。
心を乱し。
最後には、周囲すら巻き込む。
龍帝の番を奪うことは、帝国そのものを揺るがすことに等しかった。
「青蘭」
「はい」
景焱は泣く明珠を青蘭へ渡した。
「明珠を頼む」
「この命に代えましても」
「死ぬな」
青蘭が目を見開く。
「お前が死ねば、明珠を守れぬ」
「……承知いたしました」
景焱は腰の剣を抜いた。
馬車の扉を開く。
「殿下!」
「予に構うな。明珠を守れ!」
飛び降りた景焱へ、一人の刺客が斬りかかった。
速い。
けれど。
景焱の剣は、それより速かった。
甲高い音とともに相手の剣が弾かれる。
踏み込み、返す刃で薙ぐ。
「ぐっ……!」
男が崩れた。
背後から別の刃。
景焱は振り返ることさえせず、身を沈めてかわす。
そのまま身体を返した。
「がっ……!」
二人目が倒れる。
「これが……龍の血か」
「まともに相手をするな!」
刺客の一人が叫んだ。
「番を狙え!」
数人が一斉に景焱へ襲いかかる。
勝つためではない。
景焱を、そこへ縫い止めるために。
「邪魔だ!」
一人を斬る。
その向こうで声がした。
「いたぞ! 番だ!」
景焱が振り返る。
馬車の扉が、開いていた。
◇
「下がりなさい!」
青蘭の左腕には明珠。
右手には短刀が握られていた。
龍の番に仕える侍女は、身の回りの世話だけをする女ではない。いざというとき、その命を守れるよう護身の術も叩き込まれている。
けれど、相手は武装した男たちだった。
しかも腕には、一歳の明珠がいる。
「女一人だ!」
刺客が馬車へ乗り込んだ。
振り下ろされた刃を、青蘭が短刀で受ける。
「っ……!」
狭い馬車の中で金属音が弾けた。
「うわぁぁん!」
「大丈夫です。明珠様」
青蘭は明珠を抱く腕だけは緩めなかった。
もう一撃。
避ける。
背が馬車の壁へ当たった。
――ここでは守れない。
青蘭は刺客の腕を払い、その隙に馬車から飛び降りた。
「逃がすな!」
外にも男がいる。
刃が明珠へ向かった。
「させません!」
青蘭が身体を捻る。
短刀で受け、押し返す。
さらに一人。
一歩。
また一歩。
気づかぬうちに、青蘭は街道の端まで追い詰められていた。
「青蘭!」
遠くで景焱が叫んだ。
青蘭には振り返る余裕がない。
「後ろだ!」
「――!」
足が止まった。
すぐ後ろを、川が流れている。
数日続いた雨で水かさを増した濁流が、土を削りながら激しく流れていた。
その一瞬を、刺客は見逃さなかった。
「死ね!」
明珠へ刃が振り下ろされる。
青蘭は小さな身体を庇い、大きく身を捻った。
刃が空を切る。
足が、川岸を踏んだ。
ぐしゃり、と嫌な音がした。
増水した川に削られていた土が崩れる。
「――っ」
青蘭の身体が傾いた。
「青蘭!」
景焱が走る。
一人を斬り、もう一人を突き飛ばす。
手を伸ばした。
「手を!」
青蘭も伸ばす。
片腕には、泣き叫ぶ明珠。
あと少し。
指先が触れ――
なかった。
「――殿下!」
青蘭の身体が、崩れた土とともに川へ落ちた。
最後まで。
明珠を胸へ抱きしめたまま。
「明珠!!」
二人の姿が、濁流へ呑まれた。
景焱は剣を投げ捨てた。
「殿下!」
迷うことなく川へ飛び込む。
冷たい。
濁った水の中では、目を開けても何も見えない。
それでも潜った。
手を伸ばす。
泥。
枝。
石。
触れたものを掴んでは手放し、水面へ上がって息を吸い、また潜る。
「明珠!」
違う。
これも違う。
「明珠!」
何度潜ったのか分からなかった。
淡い青白の衣は泥に染まり、銀糸の龍は見る影もない。
結っていた黒髪はほどけ、濡れた髪が白い頬と首へ張りついていた。
長い睫毛から水が滴る。
唇は冷たさで青ざめている。
「殿下! もうお上がりください!」
「離せ!」
護衛が景焱を川から引き上げた。
「まだ見つけていない!」
「これ以上は危険です!」
「離せ!」
六歳の皇子が、護衛の腕の中でもがく。
先ほどまでの凛とした顔は、もうどこにもなかった。
「明珠は生きている!」
護衛の動きが止まる。
「予には分かる!」
番が死ねば、龍には分かる。
今も。
胸の奥に、明珠の存在を感じている。
だから、生きている。
それだけは分かる。
けれど。
どこにいるのかは分からない。
怪我をしているのか。
青蘭と一緒なのか。
泣いているのか。
何一つ。
「明珠は一歳だ」
景焱の声が震えた。
「一人では、何もできぬ」
泥だらけの手を握りしめる。
「泣いているかもしれない」
唇を噛んだ。
「寒いかもしれない」
それでも濁流を睨みつける。
「だから……早く見つけてやらねばならぬ」
その日、日が沈んでも捜索は続いた。
翌日も。
その翌日も。
川下まで兵を送り、周辺の村を回り、街道を封じた。
けれど。
青蘭も。
明珠も。
見つからなかった。
一月。
一年。
二年。
三年。
五年。
手がかりはない。
それでも景焱は探すことをやめなかった。
明珠は生きている。
いつか必ず見つける。
それだけを信じて。
そして――十四年。
◇
「玉鈴!」
鋭い声に、小さな身体がびくりと跳ねた。
「……はい」
「いつまで寝ているの。華蓮様の具合が悪いのよ」
玉鈴はすぐに身体を起こした。
柳州でも指折りの富家、柳家。
表には朱塗りの柱が並び、広い中庭には奇岩と池が配されている。季節の花が咲き、客間には絹の帳と香木の香り。
けれど、その華やかさは使用人棟の奥までは届かない。
玉鈴が眠っていたのは寝台ではなく、冷たい板床に敷いた一枚の筵だった。
薄い布を畳み、枕代わりにしていた古い衣を脇へ置く。
玉鈴。
それが、彼女の名前だった。
何歳なのかは知らない。
生まれた日も。
父も。
母も。
生まれた家も知らなかった。
見た目は、十か十一ほど。
小さな身体はひどく痩せていた。
肩は狭く、腕も脚も細い。青白い頬はこけ、長い黒髪も艶を失っている。
大きな黒い瞳を長い睫毛が縁取っていたが、そこには幼い娘らしい無邪気さはほとんど残っていなかった。
身に纏うのは、灰褐色の粗末な衣。
誰かのお下がりなのか、痩せた身体には大きすぎる。袖には何度も繕った跡があり、裾は擦り切れていた。
「早くなさい」
「はい」
立ち上がった瞬間、視界が揺れた。
身体が重い。
寒い。
けれど玉鈴は何も言わなかった。
壁へ手をつき、眩暈が過ぎるのを待つ。
それから、いつものように仕事へ向かった。
◇
夜明け前から火の入った厨房では、白い湯気が立ち昇っていた。
華蓮の朝餉には、鶏を煮込んだ粥、蒸した白身魚、蓮の実を浮かべた羹。艶やかな白磁の器が次々と盆へ並べられていく。
玉鈴は薪を運び、水甕を満たし、使い終えた器を洗った。
小さな手は、冷たい水で赤くなっていた。
「玉鈴、次は華蓮様のお部屋よ」
「はい」
返事をして、濡れた手を衣で拭う。
そのとき。
背後で、二人の女中が話しているのが聞こえた。
「ねえ。奴隷って、もういないんでしょう?」
「何よ、急に」
「この前、町で聞いたのよ。ずいぶん前に禁じられたって」
「そうらしいわね」
もう一人は、さほど興味もなさそうだった。
「じゃあ、あの子も本当は奴隷じゃないんじゃない?」
視線が、玉鈴へ向いた。
「奥様たちが何もおっしゃらないんだから、私たちには関係ないでしょう」
「でも――」
「本人だって奴隷だと思ってるのよ。わざわざ余計なことを教えて、仕事を増やしてどうするの」
女中は洗い物の山を見て、肩を竦めた。
「あの子がやってくれるから、私たちだって楽なんだもの」
「……それもそうね」
それだけだった。
すぐに二人は別の話を始める。
玉鈴は俯いた。
――奴隷が、いない?
言葉の意味が、よく分からなかった。
自分は奴隷だ。
ずっと、そう言われてきた。
物心ついた頃には、いくつもの家を転々としていた。
六つか七つの頃にいた家のことなら、少し覚えている。
身体が小さく、力も弱かった。
役に立たなければ、別の家へ売られた。
主人が変わることを、不思議だと思ったこともない。
奴隷とは、そういうものだと思っていた。
柳家へ来てからは、ずっとここにいる。
呼ばれれば行く。
命じられれば従う。
失敗すれば罰を受ける。
そうすれば、ここに置いてもらえる。
それ以外の生き方など、知らない。
「玉鈴!」
呼ばれた。
玉鈴は顔を上げる。
「華蓮様をお待たせしないで」
「……はい」
考えるのをやめた。
盆を持ち上げ、華蓮の部屋へ向かう。
回廊の向こうには、美しく手入れされた庭が見えた。
池には赤い魚が泳ぎ、柳の細い枝が風に揺れている。
朝露を含んだ牡丹が、淡い光の中で大きく花を開いていた。
けれど玉鈴は、そちらを見ることもなく歩いた。
自分が本当は誰なのか。
生まれたとき、何という名を与えられたのか。
なぜ十五歳でありながら、十歳ほどにしか見えないのか。
そして。
遠い皇城で、十四年間、一日も諦めずに自分を探し続けている男がいることも。
何も知らない。
ただ。
自分は奴隷なのだと。
そう信じて、玉鈴は生きていた。
お読みいただきありがとうございます。
次話、十四年ぶりに景焱と玉鈴が出会います。
2日に1回、20時10分の更新予定です。
続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。




