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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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奪われた明珠

中華風の世界を舞台にした、龍帝と「番」の物語です。

お楽しみいただけましたら嬉しいです。

 龍の一族にとって、番は命よりも重い。

 生涯に、ただ一人。

 龍は魂で、その相手を知る。

 姿が変わろうと。

 名が変わろうと。

 本来なら、龍が己の番を違えることなどない。


 ◇


 離宮から皇城へ戻る馬車は、春の夕暮れの中をゆっくりと進んでいた。

 朱塗りの車体には金で龍が描かれ、窓を覆う薄絹が風を孕んでかすかに揺れる。遠くには青く霞む山々。道沿いには薄桃色の花が咲き、夕陽を受けた川面が木々の向こうできらめいていた。

 その華やかな馬車の中で、六歳の皇子・蕭景焱は、一歳になったばかりの白明珠を膝に抱いていた。


「殿下。また明珠(めいじゅ)様を抱いていらっしゃるのですか」

「悪いか」


 向かいに座る侍女・青蘭(せいらん)が、わずかに笑う。


「いいえ」

「ならばよい」


 景焱(けいえん)はそれきり明珠へ視線を戻した。

 朝から離宮の庭で遊び回った明珠は、馬車へ乗るなり眠ってしまった。

 小さな手には、景焱が摘んでやった花が握られている。すっかり潰れてしまっているのに、眠っても離そうとしない。

 景焱は白い頬に貼りついた花びらを、そっと指先で取った。

 雪のような肌には、遊び疲れたせいか淡い桃色が差している。まだ短い黒髪には、小さな白玉の髪飾り。淡桃色の襦裙の上には、柔らかな白絹の上衣が重ねられていた。

 やがて、長い睫毛が震えた。

 大きな黒い瞳が開く。


「あぅ」

「起きたか」

「あー」


 景焱は真面目な顔で頷いた。

 青蘭が、少しだけ首を傾げる。


「……お分かりになるのですか?」

「分からぬ」

「では、なぜお返事を」

「明珠が予に話している」


 それで十分らしい。


「あぅ!」

「ああ」


 青蘭は口元を押さえた。

 景焱がじろりと見る。


「笑ったな」

「いいえ」


 まだ六歳。

 けれど景焱は、すでに幼子らしからぬ整った顔立ちをしていた。

 白い肌に、すっと通った鼻梁。切れ長の黒い瞳を、驚くほど長い睫毛が縁取っている。

 肩を越えた艶やかな黒髪は銀の髪飾りで半ばを結い、残りを背へ流していた。

 身に纏うのは、淡い青白の長衣。襟と袖には銀糸で雲と龍が縫い取られ、腰には白玉が揺れている。

 黙っていれば、幼い皇子とは思えぬほど凛々しい。


「あー!」


 明珠が、その襟を掴んだ。


「引っ張るな」


 襟元が緩み、白い胸元が覗く。

 そこには、黒い紋があった。

 龍紋。

 龍の血を濃く受け継ぐ者の身体に、生まれながらに現れる証だ。

 明珠の小さな手が、何のためらいもなくそこへ触れる。

 景焱が目を瞬いた。

 強い龍気を宿す景焱の龍紋は、ときおり熱を持つ。

 けれど。

 明珠が触れた途端、その熱がすっと引いた。

 張りつめていた何かがほどけていく。

 凪いだ水面のように。


「……やはり、不思議だな」

「あー」

「褒めている」


 分かったのか分からないのか、明珠はにこりと笑った。

 景焱の口元も、ほんの少し緩む。

 青蘭は何も言わず、そんな二人を見つめていた。

 白明珠は、景焱の番だ。

 龍にとって、生涯ただ一人の存在。

 この小さな娘は、これから先もずっと大切にされるはずだ。

 たくさんの者に愛され、守られて。

 飢えも。

 寒さも。

 痛みも知らず。

 何一つ恐ろしいものなど知らないまま、景焱のそばで笑っている。


 そうなるはずだ。


 ――ヒュッ。


 鋭い音が、夕暮れの空気を裂いた。


「ぐっ……!」


 馬車の外で、誰かが呻く。

 直後。


 ――ドッ!


 一本の矢が、馬車の壁へ深々と突き刺さった。


「伏せろ!」


 景焱の声と同時に、青蘭が明珠へ覆い被さる。

 外で馬が激しく嘶いた。


「敵襲!」

「殿下をお守りしろ!」


 剣を抜く音。怒号。馬蹄。

 穏やかだった街道が、一瞬で戦場へ変わった。


「ふぇ……」


 明珠の顔が歪む。


「うわぁぁん!」

「明珠!」


 景焱が抱き寄せた。

 そのとき、馬車の外から男の声が飛んだ。


「番は中だ!」


 景焱の顔から、幼さが消えた。


「……明珠が狙いか」


「番を殺せ!」


 龍を討てぬのなら、その番を殺せばいい。

 番を失った龍は、やがて己の強大な力を制御できなくなる。

 眠れなくなり。

 心を乱し。

 最後には、周囲すら巻き込む。

 龍帝の番を奪うことは、帝国そのものを揺るがすことに等しかった。


「青蘭」

「はい」


 景焱は泣く明珠を青蘭へ渡した。


「明珠を頼む」

「この命に代えましても」

「死ぬな」


 青蘭が目を見開く。


「お前が死ねば、明珠を守れぬ」

「……承知いたしました」


 景焱は腰の剣を抜いた。

 馬車の扉を開く。


「殿下!」

「予に構うな。明珠を守れ!」


 飛び降りた景焱へ、一人の刺客が斬りかかった。

 速い。

 けれど。

 景焱の剣は、それより速かった。

 甲高い音とともに相手の剣が弾かれる。

 踏み込み、返す刃で薙ぐ。


「ぐっ……!」


 男が崩れた。

 背後から別の刃。

 景焱は振り返ることさえせず、身を沈めてかわす。

 そのまま身体を返した。


「がっ……!」


 二人目が倒れる。


「これが……龍の血か」

「まともに相手をするな!」


 刺客の一人が叫んだ。


「番を狙え!」


 数人が一斉に景焱へ襲いかかる。

 勝つためではない。

 景焱を、そこへ縫い止めるために。


「邪魔だ!」


 一人を斬る。

 その向こうで声がした。


「いたぞ! 番だ!」


 景焱が振り返る。

 馬車の扉が、開いていた。


 ◇


「下がりなさい!」


 青蘭の左腕には明珠。

 右手には短刀が握られていた。

 龍の番に仕える侍女は、身の回りの世話だけをする女ではない。いざというとき、その命を守れるよう護身の術も叩き込まれている。

 けれど、相手は武装した男たちだった。

 しかも腕には、一歳の明珠がいる。


「女一人だ!」


 刺客が馬車へ乗り込んだ。

 振り下ろされた刃を、青蘭が短刀で受ける。


「っ……!」


 狭い馬車の中で金属音が弾けた。


「うわぁぁん!」

「大丈夫です。明珠様」


 青蘭は明珠を抱く腕だけは緩めなかった。

 もう一撃。

 避ける。

 背が馬車の壁へ当たった。


 ――ここでは守れない。


 青蘭は刺客の腕を払い、その隙に馬車から飛び降りた。


「逃がすな!」


 外にも男がいる。

 刃が明珠へ向かった。


「させません!」


 青蘭が身体を捻る。

 短刀で受け、押し返す。

 さらに一人。

 一歩。

 また一歩。

 気づかぬうちに、青蘭は街道の端まで追い詰められていた。


「青蘭!」


 遠くで景焱が叫んだ。

 青蘭には振り返る余裕がない。


「後ろだ!」

「――!」


 足が止まった。

 すぐ後ろを、川が流れている。

 数日続いた雨で水かさを増した濁流が、土を削りながら激しく流れていた。

 その一瞬を、刺客は見逃さなかった。


「死ね!」


 明珠へ刃が振り下ろされる。

 青蘭は小さな身体を庇い、大きく身を捻った。

 刃が空を切る。

 足が、川岸を踏んだ。

 ぐしゃり、と嫌な音がした。

 増水した川に削られていた土が崩れる。


「――っ」


 青蘭の身体が傾いた。


「青蘭!」


 景焱が走る。

 一人を斬り、もう一人を突き飛ばす。

 手を伸ばした。


「手を!」


 青蘭も伸ばす。

 片腕には、泣き叫ぶ明珠。

 あと少し。

 指先が触れ――


 なかった。


「――殿下!」


 青蘭の身体が、崩れた土とともに川へ落ちた。

 最後まで。

 明珠を胸へ抱きしめたまま。


「明珠!!」


 二人の姿が、濁流へ呑まれた。

 景焱は剣を投げ捨てた。


「殿下!」


 迷うことなく川へ飛び込む。

 冷たい。

 濁った水の中では、目を開けても何も見えない。

 それでも潜った。

 手を伸ばす。

 泥。

 枝。

 石。

 触れたものを掴んでは手放し、水面へ上がって息を吸い、また潜る。


「明珠!」


 違う。

 これも違う。


「明珠!」


 何度潜ったのか分からなかった。

 淡い青白の衣は泥に染まり、銀糸の龍は見る影もない。

 結っていた黒髪はほどけ、濡れた髪が白い頬と首へ張りついていた。

 長い睫毛から水が滴る。

 唇は冷たさで青ざめている。


「殿下! もうお上がりください!」

「離せ!」


 護衛が景焱を川から引き上げた。


「まだ見つけていない!」

「これ以上は危険です!」

「離せ!」


 六歳の皇子が、護衛の腕の中でもがく。

 先ほどまでの凛とした顔は、もうどこにもなかった。


「明珠は生きている!」


 護衛の動きが止まる。


「予には分かる!」


 番が死ねば、龍には分かる。

 今も。

 胸の奥に、明珠の存在を感じている。

 だから、生きている。

 それだけは分かる。

 けれど。

 どこにいるのかは分からない。

 怪我をしているのか。

 青蘭と一緒なのか。

 泣いているのか。

 何一つ。


「明珠は一歳だ」


 景焱の声が震えた。


「一人では、何もできぬ」


 泥だらけの手を握りしめる。


「泣いているかもしれない」


 唇を噛んだ。


「寒いかもしれない」


 それでも濁流を睨みつける。


「だから……早く見つけてやらねばならぬ」


 その日、日が沈んでも捜索は続いた。

 翌日も。

 その翌日も。

 川下まで兵を送り、周辺の村を回り、街道を封じた。

 けれど。

 青蘭も。

 明珠も。

 見つからなかった。

 一月。

 一年。

 二年。

 三年。

 五年。

 手がかりはない。

 それでも景焱は探すことをやめなかった。

 明珠は生きている。

 いつか必ず見つける。

 それだけを信じて。


 そして――十四年。


 ◇


「玉鈴(ぎょくれい)!」


 鋭い声に、小さな身体がびくりと跳ねた。


「……はい」

「いつまで寝ているの。華蓮様の具合が悪いのよ」


 玉鈴はすぐに身体を起こした。

 

 柳州でも指折りの富家、柳家。

 表には朱塗りの柱が並び、広い中庭には奇岩と池が配されている。季節の花が咲き、客間には絹の帳と香木の香り。

 けれど、その華やかさは使用人棟の奥までは届かない。

 玉鈴が眠っていたのは寝台ではなく、冷たい板床に敷いた一枚の筵だった。

 薄い布を畳み、枕代わりにしていた古い衣を脇へ置く。

 玉鈴。

 それが、彼女の名前だった。

 何歳なのかは知らない。

 生まれた日も。

 父も。

 母も。

 生まれた家も知らなかった。

 見た目は、十か十一ほど。

 小さな身体はひどく痩せていた。

 肩は狭く、腕も脚も細い。青白い頬はこけ、長い黒髪も艶を失っている。

 大きな黒い瞳を長い睫毛が縁取っていたが、そこには幼い娘らしい無邪気さはほとんど残っていなかった。

 身に纏うのは、灰褐色の粗末な衣。

 誰かのお下がりなのか、痩せた身体には大きすぎる。袖には何度も繕った跡があり、裾は擦り切れていた。


「早くなさい」

「はい」


 立ち上がった瞬間、視界が揺れた。

 身体が重い。

 寒い。

 けれど玉鈴は何も言わなかった。

 壁へ手をつき、眩暈が過ぎるのを待つ。

 それから、いつものように仕事へ向かった。


 ◇


 夜明け前から火の入った厨房では、白い湯気が立ち昇っていた。

 華蓮(かれん)の朝餉には、鶏を煮込んだ粥、蒸した白身魚、蓮の実を浮かべた羹。艶やかな白磁の器が次々と盆へ並べられていく。

 玉鈴は薪を運び、水甕を満たし、使い終えた器を洗った。

 小さな手は、冷たい水で赤くなっていた。


「玉鈴、次は華蓮様のお部屋よ」

「はい」


 返事をして、濡れた手を衣で拭う。

 そのとき。

 背後で、二人の女中が話しているのが聞こえた。


「ねえ。奴隷って、もういないんでしょう?」

「何よ、急に」

「この前、町で聞いたのよ。ずいぶん前に禁じられたって」

「そうらしいわね」


 もう一人は、さほど興味もなさそうだった。


「じゃあ、あの子も本当は奴隷じゃないんじゃない?」


 視線が、玉鈴へ向いた。


「奥様たちが何もおっしゃらないんだから、私たちには関係ないでしょう」

「でも――」

「本人だって奴隷だと思ってるのよ。わざわざ余計なことを教えて、仕事を増やしてどうするの」


 女中は洗い物の山を見て、肩を竦めた。


「あの子がやってくれるから、私たちだって楽なんだもの」

「……それもそうね」


 それだけだった。

 すぐに二人は別の話を始める。

 玉鈴は俯いた。


 ――奴隷が、いない?


 言葉の意味が、よく分からなかった。

 自分は奴隷だ。

 ずっと、そう言われてきた。

 物心ついた頃には、いくつもの家を転々としていた。

 六つか七つの頃にいた家のことなら、少し覚えている。

 身体が小さく、力も弱かった。

 役に立たなければ、別の家へ売られた。

 主人が変わることを、不思議だと思ったこともない。

 奴隷とは、そういうものだと思っていた。

 柳家へ来てからは、ずっとここにいる。

 呼ばれれば行く。

 命じられれば従う。

 失敗すれば罰を受ける。

 そうすれば、ここに置いてもらえる。

 それ以外の生き方など、知らない。


「玉鈴!」


 呼ばれた。

 玉鈴は顔を上げる。


「華蓮様をお待たせしないで」

「……はい」


 考えるのをやめた。

 盆を持ち上げ、華蓮の部屋へ向かう。

 回廊の向こうには、美しく手入れされた庭が見えた。

 池には赤い魚が泳ぎ、柳の細い枝が風に揺れている。

 朝露を含んだ牡丹が、淡い光の中で大きく花を開いていた。

 けれど玉鈴は、そちらを見ることもなく歩いた。

 自分が本当は誰なのか。

 生まれたとき、何という名を与えられたのか。

 なぜ十五歳でありながら、十歳ほどにしか見えないのか。

 そして。

 遠い皇城で、十四年間、一日も諦めずに自分を探し続けている男がいることも。

 何も知らない。


 ただ。

 自分は奴隷なのだと。


 そう信じて、玉鈴は生きていた。

お読みいただきありがとうございます。

次話、十四年ぶりに景焱と玉鈴が出会います。

2日に1回、20時10分の更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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