柔らかな靴
秋の気配が濃くなり始めた市は、昼前から多くの人で賑わっていた。
軒先には夏の薄物に代わって、藍や藤、山吹色の厚手の反物が並び、乾物屋には干した茸や木の実が籠いっぱいに積まれている。
菓子屋の蒸籠からは白い湯気が上がり、胡麻と蜜の甘い香りが涼しい風に混じって流れてきた。
春蘭と桂花の少し後ろを、玉鈴が歩いている。
淡い緑の上衣に、白に近い薄青の裙。黒髪には、市で初めて自分の給金で買った淡紅色の髪紐が結ばれていた。歩くたび、先についた小さな白玉が背で揺れる。
「奥様、茶葉も買いましたし、これで全部ですね」
「ええ。そろそろ戻りましょうか」
答えかけた春蘭が、ふと足を止めた。
履物屋だった。
店先には、普段使いの丈夫なものから、色糸で刺繍を施した若い娘向けの布靴まで、大小さまざまな履物が並んでいる。
その中に、淡い青の布靴があった。
柔らかな布で仕立てられた小ぶりな靴で、爪先には白と薄紅の糸で、小さな蝶が一匹ずつ刺繍されている。
「まあ、可愛い」
春蘭が足を止め、靴を手に取った。
「これ、玉鈴に似合いそうじゃない?」
桂花がその手元を見て、くすりと笑う。
「奥様。またですか?」
「またって何よ」
「この前は髪飾り、その前はお菓子。市へ出るたび、玉鈴のものばかり見ていらっしゃるじゃありませんか」
「……そうだったかしら」
そう言いながらも、春蘭は靴を棚へ戻そうとはしなかった。
「玉鈴、ちょっと履いてみない?」
突然話を向けられ、玉鈴が目を瞬いた。
「……私?」
「ええ。きっと似合うわ」
玉鈴は差し出された靴を見つめ、そっと手を伸ばした。
白と薄紅の糸で縫い取られた蝶を、指先でなぞる。
ほんのわずかに、その顔がほころんだ。
それを見た春蘭の顔まで、ぱっと明るくなる。
「ほら。やっぱり気に入ったのね」
店先の椅子へ腰掛け、今履いている布靴を脱ぐ。新しい靴へ足を入れて立ち上がると、大きさもちょうどよかった。
「歩いてみて」
言われるまま数歩歩く。淡い緑の裙が揺れるたび、爪先から二匹の蝶が交互に覗いた。
玉鈴は足元を見たまま、もう一度歩いた。
「どう?」
「……柔らかいです」
「蝶は?」
視線が再び爪先へ落ちる。
「……好きです」
その答えに、春蘭の顔が綻んだ。
「では、これをいただくわ」
女主人へ銭を渡すと、玉鈴が顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
春蘭は満足そうに玉鈴の足元を眺めた。
「よく似合ってるわ」
玉鈴も二匹の蝶を見下ろした。
帰り道も、新しい靴を履いたままだった。
◇
それから、外へ出る日の玉鈴は、よくその靴を履いた。雨が降りそうな日は履かず、市から戻れば柔らかな布で土埃を落とす。刺繍の間に砂が入り込めば、細い指で一つずつ丁寧に取り除いた。
淡紅色の髪紐と同じように、大切にしていた。
春蘭が、玉鈴に似合うと思って選んでくれたものだった。
◇
ある日の夕刻。
夕餉の支度が整う頃、子昂が皇城から戻ってきた。
玉鈴は桂花とともに、厨房から夕餉の膳を運んでいた。廊下へ出たところで、ちょうど向こうから歩いてくる子昂と顔を合わせる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ。ただいま」
子昂は二人が運んでいる膳を見てから、玉鈴に目を向けた。
「お前は食ったのか」
玉鈴が首を横に振る。
「まだか」
今度は頷いた。
「なら、一緒に食えばいい」
「旦那様。それはさすがに……」
すかさず桂花が口を挟んだ。
「使用人を旦那様方と同じ卓につかせる家など、聞いたことがございませんよ」
「飯を食うだけだろう」
「旦那様にはそうでしょうけどねえ」
子昂は何が問題なのか分からないという顔をしている。
その隣で、玉鈴もまた、なぜ桂花が止めたのか分からないらしく、二人を交互に見ていた。
「何の話?」
声とともに、春蘭がやってきた。
事情を聞くと、春蘭は少し驚いたものの、すぐに玉鈴を見る。
「じゃあ、一緒に食べましょうか」
「奥様まで……」
桂花が小さく息をついた。
「玉鈴。嫌なら、いつものところで食べてもいいのよ」
玉鈴は春蘭を見て、それから子昂を見る。
しばらく考えたあと、小さく口を開いた。
「……ここで、食べます」
「そう」
春蘭は嬉しそうに笑った。
◇
三人分の膳が並んだ。
窓の外はもう薄暗く、中庭に面した格子窓から入る秋の風が、卓上の灯火をわずかに揺らしている。
玉鈴は卓の端へ座っていた。背筋はまっすぐで、膝の上に置いた手にもまだ力が入っている。目の前には、湯気の立つ汁物と焼いた魚、青菜と茸、柔らかく煮た根菜が並んでいた。
子昂が箸を取り、春蘭も食べ始める。
玉鈴は二人を見てから、ようやく箸へ手を伸ばした。一口食べ、ゆっくり噛んで飲み込む。それから、もう一口。
「その魚、うまいぞ」
子昂が言った。
玉鈴の箸が止まった。
「あなた」
春蘭が子昂を見る。
「何だ」
「黙って食べさせてあげて」
「うまいと言っただけだ」
「見られていたら食べにくいでしょう」
子昂は納得していない顔をしながら、自分の膳へ視線を戻した。
玉鈴の箸が、また動く。
春蘭も何も言わず煮物へ箸を伸ばした。子昂は魚を食べている。
誰も自分を見ていない。
玉鈴は汁物を口へ運んだ。
温かかった。
食べ終わる頃には、固く上がっていた肩が少し下がっていた。
主人夫婦と使用人が、同じ卓を囲む。
それがどれほど異例なことなのか、世間の常識を知らない玉鈴は少しも気づいていなかった。
◇
その日から毎日、同じ卓で食べるようになったわけではない。
けれど、ときどき子昂が呼んだ。春蘭が「今日は一緒に食べましょう」と誘う日もあった。最初は卓の端へ小さく座り、二人が箸を取るまで待っていた玉鈴も、何度目かには自分から箸へ手を伸ばすようになった。
夕暮れに市から戻れば、「ただいま戻りました」と門をくぐる。
「おかえり、玉鈴」
春蘭が返す。
子昂が先に戻っていれば、大きな手が頭へ載る。厨房を通れば、料理人が作った菓子を一つもらうこともあった。桂花は相変わらず、きちんと食べたかと目を光らせている。
朝になれば仕事をする。布を畳み、棚を拭き、軽い器を運ぶ。
韓家へ来た頃と同じことをしているはずなのに、帰ってくれば迎える声があり、食卓には自分が座ることのある場所ができていた。
◇
その頃。
韓家から少し離れた茶屋に、一人の男が座っていた。
柳家から送られてきた者だった。
男は茶を飲みながら、通りの向こうにある韓家の門を眺めていた。一日目は何もない。二日目も、使用人が何人か出入りしただけだった。
三日目。
昼を過ぎた頃、門が開いた。
三人の女が出てくる。
一人は、上品な身なりの女。韓子昂の妻、林春蘭。その隣には年嵩の女中。
そして、二人の間に小さな娘がいた。
男の目が止まった。
淡い緑の衣。細い身体。黒髪。十か十一ほどにしか見えない。
髪には淡紅色の紐。
足元には、蝶の刺繍が入った淡青の靴。
三人は何か話しながら、市の方へ歩いていく。
男は追わなかった。
残っていた茶を飲み干すと、銭を置いて席を立った。
◇
「見つけたか」
報告を受けた文徳は、椅子から立ち上がった。
「韓家に、小柄な娘がおります。十か十一ほどに見え、黒髪。韓家の奥方と女中とともに市へ出るところを確認いたしました」
文徳の目が細くなる。
「顔は」
「遠目ですが、特徴は近いかと」
「いつからいる」
「近隣の者によれば、数か月ほど前からだそうです」
時期も合う。
「韓家では何をしている」
「使用人として働いているようです」
文徳は黙った。
韓子昂が山中で賊を捕らえた。その後、小柄な負傷した娘を抱えているところを見た者がいる。
そして今、その韓家に玉鈴によく似た娘がいる。
偶然と考えるには、重なりすぎていた。
「……玉鈴」
低く名を呼ぶ。
「どういたしますか」
「まだ手を出すな」
文徳はすぐに答えた。
韓子昂は龍帝の側近だ。その屋敷へ踏み込むことはできない。まして柳家の奴隷だから返せと正面から要求すれば、なぜ何か月も一人の奴隷を捜し続けていたのかと問われる。
「本人か確かめろ」
「は」
「韓家の者には気づかれるな」
◇
皇城。
華蓮は、ここ数日ほとんど寝台を離れていなかった。
薄紅の絹帳に囲まれた寝台の傍らには、御典医が調合した薬の入った白磁の椀が置かれている。苦い薬草の匂いが、焚かれた香よりも濃く室内に残っていた。
起き上がれば息が切れる。少し歩くだけで胸が苦しくなり、夜には脈が激しく乱れることもあった。
「……柳家から、何か知らせは来ていない?」
枕に頭を預けたまま、華蓮が訊く。
侍女が首を横に振った。
「本日は、まだ何も」
「そう……」
華蓮は目を閉じた。
父は何をしているのだ。
玉鈴さえ戻ればいい。
あの娘から、また気を取ればいい。そうすれば、この身体は元へ戻る。
病が治ったのではない。
幼い頃から弱かった心の臓は、玉鈴から気を取るようになってから、症状が出なくなっていただけなのだから。
「陛下がお見えです」
侍女の声に、華蓮が目を開いた。
起き上がろうとした途端、胸が強く脈打つ。
「そのままでよい」
低い声とともに、景焱が入ってきた。
黒に近い深藍の長衣には銀糸で龍が縫い取られ、長い黒髪は高く結われている。景焱は寝台のそばまで来ると、華蓮を見下ろした。
「申し訳ございません……」
「謝ることではない。御典医は何と」
「心の臓が弱っていると……」
景焱の眉が寄った。
頬は以前より痩せ、唇からも色が失われている。艶やかだった黒髪も、どこか乾いて見えた。
苦しそうに息を整える華蓮を見つめていて、景焱はふと気づいた。
――何も感じない。
華蓮は目の前にいる。手を伸ばせば届くほど近くにいるというのに、番の気がまったく感じられなかった。
皇城へ迎えた頃には、まだあった。
微かではあっても、確かに感じていた気配。それが日を追うごとに弱くなり、今はもう、どこにもない。
柳家で華蓮を見つけた、あの日。
身体の奥を突き上げた歓喜。血が沸き立つような、強烈な感覚。
あれも、二度と起きていない。
「……陛下?」
華蓮の声に、景焱は目を上げた。
「いや。休め」
華蓮の身体が弱っているせいなのか。
そう考えれば、説明はつく。
だが、景焱の胸に生じた違和感は消えなかった。
◇
その翌朝。
朝議の場で、皇叔は景焱を見ていた。
高い天井を支える朱塗りの柱が整然と並び、その間には龍と瑞雲を織り出した垂幕が下がっている。磨き上げられた石床には格子窓から朝の光が差し込み、居並ぶ臣下たちの影を長く伸ばしていた。
景焱が苛立っているわけではない。声を荒らげてもいない。玉座に座り、上奏を聞き、必要な命を下している。
いつもと変わらぬ朝議だった。
それなのに、広間の空気が重い。
「西方三郡の収穫については――」
報告していた老臣が、一瞬言葉に詰まった。
景焱の目が向く。
ただ、それだけで老臣の額に汗が浮いた。
「続けよ」
「は……はい」
低い声が落ち、居並ぶ臣下の肩がわずかに強張った。
皇叔は目を細める。
龍気が漏れている。
景焱自身は抑えているつもりなのだろう。だが、強大な龍気が時折その身から滲み、周囲を圧していた。
以前にもあったことだ。
十四年ものあいだ番を欠き、己一人で龍気を抱え続けてきた。だから不安定になること自体は、おかしくない。
だが。
今は違う。
番は、戻ったはずなのだ。
◇
朝議を終えたあと、皇叔は自室へ戻ると人払いをした。残したのは、長く仕える側近一人だけだった。
「……おかしい」
「何がでございますか」
「景焱だ。龍気が乱れている」
「以前から、時折そのようなことはございましたが」
「ああ。番がいなかった頃ならばな」
十四年前に失われた、ただ一人の番。それをようやく見つけ、皇城へ迎えた。
本来なら、龍帝の気は安定へ向かうはずだった。龍帝と番、二つの気が巡ることで強大すぎる龍気は鎮まり、均衡を取り戻す。歴代の記録にもそう残されている。
「柳華蓮は?」
「ここ数日、床に伏しているようです。御典医が出入りしております」
皇叔の指が、肘掛けを一度叩いた。
番は弱り、龍帝の龍気は安定するどころか乱れている。
「柳文徳は現在も領地におります」
側近が続けた。
皇叔が目を上げる。
「何をしている」
「一人の娘を捜しているようです」
「娘?」
「はい。柳家で働いていた娘だそうです」
「娘が龍帝の番として皇城へ入ったというのに、本人は領地で使用人を探しているのか」
「はい」
「妙だな。そこまでして取り戻したい娘とは、何者だ」
「詳しいことは、まだ分かっておりません」
皇叔は黙った。
「名は」
「玉鈴と」
「玉鈴……」
その名を一度、口の中で転がす。
「調べろ。なぜ柳文徳が、その娘を執拗に捜しているのか。それと、華蓮の病状もだ」
「承知いたしました」
「文徳には気づかれるな」
側近が頭を下げ、退出する。
皇叔は一人、椅子へ深く身を沈めた。
番が戻ったはずなのに、景焱には歴代の記録にあるほど明確な安定が現れていない。その一方で、番であるはずの華蓮は身体を弱らせている。
そして華蓮の父は、一人の奴隷を執拗に捜している。
何かがある。
だが、まだ分からない。
皇叔はもう一度、報告書に書かれた名を見た。
玉鈴。
◇
数日後。
「間違いございません」
文徳の書斎で、男が深く頭を下げた。
「本人か」
「はい。近くで顔を確認いたしました。玉鈴です」
文徳の手が、紫檀の卓の上で止まった。
「……そうか」
生きていた。
しかも韓子昂の屋敷にいる。
「韓家での扱いは」
「使用人として働いております。ただ……」
「何だ」
「韓夫人と頻繁に市へ出ております。屋敷の者の話では、韓様ご夫妻と同じ卓で食事をすることもあるようです」
文徳の眉が寄った。
「奴隷が?」
「韓家では、そのようには扱われていないようです」
文徳は黙った。
やはり、あのとき韓子昂に拾われたのだ。
「華蓮からは」
「今朝も使いが。お身体がさらに悪くなっているとのことです」
文徳の顔が硬くなる。
時間はない。玉鈴を連れ戻さなければ、華蓮の命が危うい。
だが、韓子昂は龍帝の側近だ。その屋敷へ踏み込み、無理に連れ去るわけにはいかない。
なぜ一人の娘をそこまで執拗に捜しているのか。事情を問われれば、柳家が隠してきたことまで探られかねない。
「もう少し様子を見ろ」
「しかし、華蓮様が――」
「分かっている」
文徳の声が低くなる。
「必ず連れ戻す。だが、韓家相手に強引な真似はできん」
「なぜ奴隷一人にそこまで執着するのかと探られれば、厄介なことになる」
男が口を閉じた。
「韓家の出入りを調べろ。玉鈴が一人になる時を探せ」
「……承知いたしました」
◇
その日の夕刻。
「ただいま戻った」
韓家の門をくぐった子昂の声に、奥から桂花が出てきた。
「おかえりなさいませ」
その後ろから、玉鈴も顔を覗かせる。
「……おかえりなさいませ」
「ああ」
子昂の視線が自然と足元へ落ちた。
「今日もそれを履いていたのか」
玉鈴も自分の足を見る。
蝶の刺繍の靴。
小さく頷いた。
「気に入ったんだな」
もう一度、頷く。
子昂の大きな手が伸び、ぽん、と頭へ載った。
「あなた、おかえりなさい」
春蘭も奥から出てくる。
「今日はね、玉鈴が――」
春蘭が話し始める。
子昂は上衣を脱ぎながら聞き、桂花が横から一言挟む。
玉鈴は三人のそばに立っていた。
それから、しばらくして。
玉鈴が韓家へ来てから、季節が一つ進んだ。
◇
朝晩の風が少し冷たくなり、庭の木々にも黄色い葉が混じり始めている。
その朝、玉鈴は廊下を拭いていた。濡らした布を固く絞り、板目に沿って動かす。一度拭いたところを横から見て、薄く残った跡に気づくと、もう一度。
「玉鈴」
呼ばれて顔を上げた。
春蘭が廊下の向こうに立っている。
「ちょっと来て」
玉鈴は布を置き、立ち上がった。
春蘭のところまで行くと、小さな包みを差し出される。
「昨日、お客様からいただいたの。美味しかったから、玉鈴にも残しておいたのよ」
包みの中には、胡麻を散らした焼き菓子が二つ入っていた。
玉鈴は菓子を見て、それから春蘭を見上げる。
「……ありがとうございます」
「お茶の時間に食べなさい」
玉鈴は包みを両手で受け取った。
春蘭はそのまま行きかけて、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ。今日、市へ行くけど、一緒に行く?」
玉鈴は少し考えてから、首を横に振った。
「今日は行かない?」
頷く。
「そう。分かったわ。じゃあ、お留守番お願いね」
「……はい」
春蘭はそれ以上勧めず、廊下を歩いていった。
◇
市へ出た春蘭は、布屋の前で足を止めた。
秋物の反物が軒先いっぱいに並んでいる。深い藍に銀鼠、山吹、薄紅。夏の軽い布とは違い、指で触れると少し厚みがあった。
その中の一枚へ手を伸ばす。
淡い藤色だった。
「奥様?」
一緒に来ていた桂花が振り返る。
「これ、玉鈴に似合いそうだと思って」
桂花が笑う。
「またですか」
「また?」
「この前も髪飾りを見ながら、同じことを仰ってましたよ。その前は菓子屋で」
春蘭は手にした布を見た。
柔らかな藤色の向こうに、小さな姿が浮かぶ。
「……そうだったかしら」
「ええ」
結局、その日は買わなかった。
今度、玉鈴を連れてきて選ばせよう。
そう思って、布から手を離した。
◇
同じ日の夕刻。
皇城からの帰り道、子昂は菓子屋の前で足を止めた。
西へ傾いた陽が通りの屋根を赤く染め、店先には焼き上がったばかりの丸い菓子が並んでいる。
「韓様、いかがです?」
顔馴染みの店主が声を掛けた。
「今日のは胡桃と蜜を練った餡ですよ」
「甘いか」
「ええ。女子供には人気です」
「そうか。三つくれ」
包みを受け取り、再び歩き出す。
なぜ買ったのかと訊かれれば、理由は一つだった。
玉鈴が好きそうだったからだ。
◇
「ただいま戻った」
夕暮れの韓家に、子昂の声が響いた。
「おかえりなさいませ」
桂花の後ろから、玉鈴が顔を覗かせる。
「……おかえりなさいませ」
「ああ。これ」
子昂が持っていた包みを差し出した。
玉鈴が見る。
「菓子だ。お前に買ってきた」
そこでようやく両手が出た。
「……私に?」
「ああ」
「……ありがとうございます」
包みを大切そうに受け取る。
「私には?」
声がして、春蘭が廊下の向こうから現れた。
「三つある」
「まあ。珍しい」
「何がだ」
「あなたが菓子を買って帰ってくるなんて」
「店の前を通った」
「それだけ?」
子昂が少し黙った。
「玉鈴が好きそうだった」
春蘭が目を瞬いた。
「……私も今日、似たようなことをしたわ」
「何を」
「布を見て、玉鈴に似合いそうだと思ったの」
二人の視線が、同時に玉鈴へ向いた。
玉鈴は困ったように二人を見返す。
淡紅色の髪紐の先で、小さな白玉が揺れている。足元には蝶の靴。両手には、子昂からもらった菓子。
その横で、桂花が堪えきれずに笑った。
◇
その夜。
玉鈴が部屋へ下がったあと、春蘭は自室で針仕事をしていた。
青磁の燭台に灯された火が、卓上を柔らかく照らしている。窓の外では秋の風が庭木を揺らし、ときおり乾いた葉が石畳を擦る音がした。
向かいでは、子昂が皇城から持ち帰った書状を読んでいる。
「あなた」
「ん?」
「私、最近ね。市へ行っても、玉鈴に似合いそうなものばかり見てしまうの」
子昂は書状から顔を上げた。
「今日も布を見てね。あの子に似合うかしらって」
「俺もだ」
春蘭の手が止まる。
「あなたも?」
「菓子を見て、あいつが好きそうだと思った」
「あれ、玉鈴のためだったのね」
「ああ」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
春蘭が針を置いた。
「……子どもがいたら、こんな感じだったのかしらね」
子昂はすぐには答えなかった。
夫婦になって十八年。
まだ若かった頃には、二人で話したこともあった。子が生まれたら、男の子なら、女の子なら、どちらに似るだろう。
そんな話をしなくなってからの年月の方が、もう長い。
「そうかもしれんな」
やがて、子昂が言った。
春蘭は膝の上の布へ目を落とした。
「あの子が大きくなっても、ここにいてくれたらいいのに」
「ああ」
「使用人としてじゃなくて」
子昂は書状を卓へ置いた。
「俺もそう思っていた」
春蘭が顔を上げた。
それ以上は、どちらも口にしなかった。
長い間、二人の間から消えていた言葉だった。
簡単に決めていいことでもなかった。
◇
韓家では、それからも変わらない日々が続いた。
子昂と春蘭は、あの夜に交わした話をすぐには玉鈴へ伝えなかった。
養女にするということは、ただ屋敷に置いておくのとは違う。韓家の娘として迎えれば、玉鈴の身分も、これからの人生も変わる。
何より、玉鈴自身がそれを望むかどうか。
子昂は必要な手続きを調べた。
春蘭は玉鈴への接し方を変えなかった。市へ行く日は一緒に行くかと訊き、行かないと言えばそれ以上は勧めない。夕餉をともにする日もある。
そんなときには、箸の置き方や椀の扱い方など、食事の作法をそれとなく教えた。玉鈴がこの先も韓家にいるかどうかは、まだ分からない。それでも、知っていればいつか役に立つだろうと春蘭は思っていた。
間違えても叱らない。ただ「こうすると綺麗よ」と、自分でやって見せる。玉鈴はその手元をじっと見つめ、次からは同じようにした。
子昂は帰れば、いつの間にか玉鈴の姿を探すようになっていた。見当たらなければ「あいつは?」と桂花に訊く。
玉鈴もまた、朝になれば起きて、できる仕事を手伝った。
玄関には、外へ出る日を待つ蝶の靴が並んでいる。
食卓には、玉鈴が座ることのある場所がある。
そんな日々が、数日続いた。
◇
夕餉が終わったあとだった。
「玉鈴」
春蘭に呼ばれ、玉鈴は振り返った。
「少し、お話ししてもいい?」
いつもと違う声だった。
玉鈴の身体が、わずかに強張る。
春蘭はすぐに気づいた。
「怒る話じゃないのよ。旦那様も待ってるわ」
連れていかれたのは、何度か三人で食事をした部屋だった。
格子窓の向こうには夜の庭が広がり、月明かりを受けた池の水面がかすかに光っている。卓上には青磁の燭台。壁際には花鳥を描いた衝立が置かれ、その前に子昂が座っていた。
玉鈴が入ると、向かいの席を示した。
「座れ」
玉鈴は腰を下ろし、膝の上で両手を重ねた。春蘭も隣へ座る。
少しの間、誰も話さなかった。
先に口を開いたのは子昂だった。
「玉鈴」
「……はい」
「お前は、これからどうしたい」
玉鈴の目が動いた。
意味が分からないようだった。
「ここを出ていけという話じゃない。ここにいたければ、いていい」
玉鈴は二人を見る。
春蘭が口を開いた。
「私たちはね、あなたにずっとここにいてほしいと思ってるの」
玉鈴が瞬きをした。
「働いてくれるからじゃないのよ」
春蘭は一度、子昂を見る。
子昂が頷いた。
「使用人としてじゃなくて」
春蘭は玉鈴へ向き直った。
「私たちの娘にならない?」
玉鈴の目が止まった。
部屋が静かになる。
庭から、風に揺れる葉の音が聞こえてきた。
玉鈴は何も言わない。春蘭も急かさなかった。子昂も待っている。
長い沈黙のあと、玉鈴の唇がわずかに動いた。
「……娘」
「ええ」
「私が……?」
「そう」
春蘭はまっすぐ玉鈴を見た。
「嫌なら、断っていいのよ」
玉鈴の指が膝の上で動き、衣をきゅっとつまんだ。
「断っても、ここから出ていかなくていいわ。今までと同じように、ここにいていいの」
玉鈴が顔を上げた。
「……私」
小さな声だった。
「私……奴隷です」
「違う」
玉鈴が顔を上げた。
「奴隷という身分は、とうに廃されている。お前は奴隷ではない」
「でも、私は柳家に買われて……」
「それでも、お前は奴隷ではない」
子昂はまっすぐ玉鈴を見た。
「お前がこれまで、どこでどう生きてきたのか、俺たちは全部知っているわけじゃない。だが、俺たちがお前を娘にしたいと思っていることとは関係ない」
春蘭が、玉鈴のそばへ手を置いた。
触れない。
ただ、手のひらを上にして置く。
「玉鈴が決めていいの」
春蘭が言った。
「私たちの娘になるかどうかは、あなたが決めていい」
玉鈴は、差し出された手を見つめた。
春蘭は急かさない。ただ、玉鈴が自分から触れるのを待っている。
これも、自分で決めていいのだ。
やがて、膝の上に置いていた小さな手が動いた。
春蘭の手のひらへ、指先が触れる。
「……娘に」
一度、声が途切れた。
玉鈴は俯いたまま、春蘭の手に指を重ねた。
「……娘に、なりたい」
春蘭の目が潤んだ。
「そう」
声が少し震える。
それでも、すぐには抱きしめなかった。
「抱きしめてもいい?」
玉鈴が顔を上げた。
春蘭を見る。
そして、小さく頷いた。
春蘭の腕が、ゆっくりと小さな身体を包んだ。
強くはない。
逃げようと思えば、いつでも離れられるほどの腕だった。
玉鈴はしばらく動かなかった。
頬に触れる衣は柔らかく、春蘭がいつも使っている淡い香の匂いがした。
温かかった。
やがて、玉鈴の手が動いた。
そっと春蘭の衣をつかむ。
子昂は向かいで二人を見ていた。
大きな手で、一度だけ顔を擦る。
「あなた」
「何だ」
「泣いてる?」
「泣いてない」
春蘭が笑った。
玉鈴の眉尻が、へにゃりと下がる。
春蘭の衣をつかんだ指は、離れなかった。
玉鈴が韓家の娘になって、数日が過ぎた。
変わったことは、いくつもあった。
朝、いつものように廊下を拭こうとすれば、桂花に布を取り上げられた。
「玉鈴。もう、それはしなくていいんですよ」
そう言われても、玉鈴にはまだよく分からない。
何もせずにいる方が落ち着かなくて厨房へ行けば、今度は料理人に「お嬢様が何をなさってるんです」と追い出された。
それでも何か手伝おうとすると、春蘭には笑われる。
「あなたはもう、この家の使用人じゃないのよ」
――韓家の娘。
あの日、自分でなりたいと言った。
春蘭に差し出された手を、自分から取った。
それなのに玉鈴は、娘というものが何をするものなのか、まだよく分からなかった。
物心ついた頃から、働くのが当たり前だった。
朝起きれば命じられたことをして、終われば次の仕事を探す。役に立たなければ叱られた。だから、何もせずにいていいと言われると、かえって不安になる。
今は、ただただ恐れ多かった。
朝、目を覚ませば顔を洗うための湯が用意されている。着替えれば髪を整えてもらい、食卓へ行けば自分の席がある。
誰かに仕えるためではなく、自分のために誰かが動いてくれる。
そんなことは、生まれて初めてだった。
されるたびに、落ち着かなくなる。
自分がこんなことをしてもらっていいのだろうか。
あの日、「娘になりたい」と頷いたことさえ、後悔しそうになるほどだった。
食卓では、春蘭が箸や椀の扱いを教えてくれた。
客を迎えたときの礼の仕方や、目上の者への挨拶も、少しずつ覚え始めている。
間違えても叱られることはない。春蘭はそのたびに「大丈夫。ゆっくり覚えればいいのよ」と笑った。
◇
その日、玉鈴は桂花と市へ出ていた。
秋の市は朝から人が多い。
通りの両側には藍や山吹色の反物が軒先まで吊られ、竹籠を積んだ店、青磁や白磁の器を並べた店、干した茸や木の実を山のように盛った乾物屋が軒を連ねている。蒸籠から上がる白い湯気の向こうを、荷を担いだ男や買い物籠を下げた女たちが行き交い、あちこちから客を呼ぶ声が飛んでいた。
韓家へ来てから、何度も歩いた道だった。
けれど、今日の玉鈴は以前とは少し違って見えた。
身につけているのは、淡い藤色の上衣と、白銀に近い薄青の裙。
上衣には細い銀糸で花枝が縫い取られ、袖口には薄紅の刺繍が入っている。腰には白い組紐を結び、小さな玉飾りが歩くたびに揺れた。
派手すぎる装いではない。けれど、布地も仕立ても上等で、春蘭が娘のために選んだものだと一目で分かる。
きれいに結われた黒髪には、自分で初めて買った淡紅色の髪紐。
先についた小さな白玉が、背で揺れている。
足元には、春蘭が選んだ淡い青の布靴。
爪先に刺繍された白と薄紅の蝶が、裙の裾から歩くたびに覗いた。
どこから見ても、良家の娘だった。
ただ、玉鈴自身はまだ、この姿に慣れていない。
すれ違った女が衣を見て振り返ると、何かおかしいのだろうかと自分の袖を見下ろした。
「何もついてませんよ」
隣を歩いていた桂花が笑う。
玉鈴は袖から顔を上げた。
「……見られたので」
「そりゃあ見ますよ。よくお似合いですから」
玉鈴は何も言わなかった。
ただ、少しだけ袖口を指でつまんだ。
桂花が馴染みの店先で足を止める。
「桂花さん。この前頼まれてたもの、入ってるよ」
「本当かい。見せておくれ」
店主が奥から品を取り出した。
桂花が受け取り、広げる。
その後ろで、玉鈴は行き交う人を眺めていた。
籠を背負った男が横を通り過ぎる。
母親の手を引いた子どもが、湯気の上がる菓子屋へ駆けていく。
荷車を避けた女たちの笑い声が聞こえた。
いつもの市だった。
だから。
背後から近づいた男にも、気づかなかった。
突然、口元を塞がれた。
「――っ」
鼻と口を大きな手で覆われ、身体が後ろへ引かれる。
足を踏ん張る。
けれど、小さな身体では、大人の男の力に敵わない。
人通りから外れた細い路地へ、瞬く間に引きずり込まれていく。
表通りの喧騒が遠ざかった。
玉鈴は必死に地面を蹴った。
その拍子だった。
片方の靴が脱げた。
淡い青の、小さな布靴。
白と薄紅の糸で縫い取られた蝶が、土の上へ転がる。
玉鈴の目が見開かれた。
手を伸ばす。
届かない。
春蘭が買ってくれた靴が、遠ざかっていく。
「――……っ」
声にもならなかった。
玉鈴の身体は路地の奥へ消えた。
あとには、蝶の靴が片方だけ残された。
「玉鈴、これどう?――」
桂花が振り返った。
返事がない。
つい先ほどまでそこにいた、小さな姿もなかった。
「……玉鈴?」
桂花が店先から通りへ飛び出し、左右を見回した。
藍や茶の衣を着た人々が行き交い、その間を荷車が通り抜けていく。買い物籠を下げた女たちの向こうにも、玉鈴の姿はない。
あの淡い藤色なら、すぐに見つかるはずだった。
「玉鈴!」
声を張り上げた、そのときだった。
道端に、淡い青のものが落ちているのが目に入った。
桂花の足が止まる。
爪先に、白と薄紅の糸で縫い取られた小さな蝶。
見間違えるはずがない。
玉鈴が履いていた布靴だった。
桂花は人を押し分けるように駆け寄り、それを拾い上げた。
片方しかない。
「……玉鈴」
靴を握りしめた桂花の手が、震えた。
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