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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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柔らかな靴

 秋の気配が濃くなり始めた市は、昼前から多くの人で賑わっていた。

 軒先には夏の薄物に代わって、藍や藤、山吹色の厚手の反物が並び、乾物屋には干した茸や木の実が籠いっぱいに積まれている。

 菓子屋の蒸籠からは白い湯気が上がり、胡麻と蜜の甘い香りが涼しい風に混じって流れてきた。

 春蘭と桂花の少し後ろを、玉鈴が歩いている。

 淡い緑の上衣に、白に近い薄青の裙。黒髪には、市で初めて自分の給金で買った淡紅色の髪紐が結ばれていた。歩くたび、先についた小さな白玉が背で揺れる。


「奥様、茶葉も買いましたし、これで全部ですね」

「ええ。そろそろ戻りましょうか」


 答えかけた春蘭が、ふと足を止めた。

 履物屋だった。

 店先には、普段使いの丈夫なものから、色糸で刺繍を施した若い娘向けの布靴まで、大小さまざまな履物が並んでいる。

 その中に、淡い青の布靴があった。

 柔らかな布で仕立てられた小ぶりな靴で、爪先には白と薄紅の糸で、小さな蝶が一匹ずつ刺繍されている。


「まあ、可愛い」


 春蘭が足を止め、靴を手に取った。


「これ、玉鈴に似合いそうじゃない?」


 桂花がその手元を見て、くすりと笑う。


「奥様。またですか?」

「またって何よ」

「この前は髪飾り、その前はお菓子。市へ出るたび、玉鈴のものばかり見ていらっしゃるじゃありませんか」


「……そうだったかしら」


 そう言いながらも、春蘭は靴を棚へ戻そうとはしなかった。


「玉鈴、ちょっと履いてみない?」


 突然話を向けられ、玉鈴が目を瞬いた。


「……私?」

「ええ。きっと似合うわ」


 玉鈴は差し出された靴を見つめ、そっと手を伸ばした。

 白と薄紅の糸で縫い取られた蝶を、指先でなぞる。


 ほんのわずかに、その顔がほころんだ。


 それを見た春蘭の顔まで、ぱっと明るくなる。


「ほら。やっぱり気に入ったのね」


 店先の椅子へ腰掛け、今履いている布靴を脱ぐ。新しい靴へ足を入れて立ち上がると、大きさもちょうどよかった。


「歩いてみて」


 言われるまま数歩歩く。淡い緑の裙が揺れるたび、爪先から二匹の蝶が交互に覗いた。

 玉鈴は足元を見たまま、もう一度歩いた。


「どう?」

「……柔らかいです」

「蝶は?」


 視線が再び爪先へ落ちる。


「……好きです」


 その答えに、春蘭の顔が綻んだ。


「では、これをいただくわ」


 女主人へ銭を渡すと、玉鈴が顔を上げた。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 春蘭は満足そうに玉鈴の足元を眺めた。


「よく似合ってるわ」


 玉鈴も二匹の蝶を見下ろした。

 帰り道も、新しい靴を履いたままだった。


 ◇


 それから、外へ出る日の玉鈴は、よくその靴を履いた。雨が降りそうな日は履かず、市から戻れば柔らかな布で土埃を落とす。刺繍の間に砂が入り込めば、細い指で一つずつ丁寧に取り除いた。

 淡紅色の髪紐と同じように、大切にしていた。

 春蘭が、玉鈴に似合うと思って選んでくれたものだった。


 ◇


 ある日の夕刻。

 夕餉の支度が整う頃、子昂が皇城から戻ってきた。

 玉鈴は桂花とともに、厨房から夕餉の膳を運んでいた。廊下へ出たところで、ちょうど向こうから歩いてくる子昂と顔を合わせる。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「ああ。ただいま」


 子昂は二人が運んでいる膳を見てから、玉鈴に目を向けた。


「お前は食ったのか」


 玉鈴が首を横に振る。


「まだか」


 今度は頷いた。


「なら、一緒に食えばいい」

「旦那様。それはさすがに……」


 すかさず桂花が口を挟んだ。


「使用人を旦那様方と同じ卓につかせる家など、聞いたことがございませんよ」

「飯を食うだけだろう」

「旦那様にはそうでしょうけどねえ」


 子昂は何が問題なのか分からないという顔をしている。

 その隣で、玉鈴もまた、なぜ桂花が止めたのか分からないらしく、二人を交互に見ていた。


「何の話?」


 声とともに、春蘭がやってきた。

 事情を聞くと、春蘭は少し驚いたものの、すぐに玉鈴を見る。


「じゃあ、一緒に食べましょうか」

「奥様まで……」


 桂花が小さく息をついた。


「玉鈴。嫌なら、いつものところで食べてもいいのよ」


 玉鈴は春蘭を見て、それから子昂を見る。

 しばらく考えたあと、小さく口を開いた。


「……ここで、食べます」

「そう」


 春蘭は嬉しそうに笑った。


 ◇


 三人分の膳が並んだ。

 窓の外はもう薄暗く、中庭に面した格子窓から入る秋の風が、卓上の灯火をわずかに揺らしている。

 玉鈴は卓の端へ座っていた。背筋はまっすぐで、膝の上に置いた手にもまだ力が入っている。目の前には、湯気の立つ汁物と焼いた魚、青菜と茸、柔らかく煮た根菜が並んでいた。

 子昂が箸を取り、春蘭も食べ始める。

 玉鈴は二人を見てから、ようやく箸へ手を伸ばした。一口食べ、ゆっくり噛んで飲み込む。それから、もう一口。


「その魚、うまいぞ」


 子昂が言った。

 玉鈴の箸が止まった。


「あなた」


 春蘭が子昂を見る。


「何だ」

「黙って食べさせてあげて」

「うまいと言っただけだ」

「見られていたら食べにくいでしょう」


 子昂は納得していない顔をしながら、自分の膳へ視線を戻した。

 玉鈴の箸が、また動く。

 春蘭も何も言わず煮物へ箸を伸ばした。子昂は魚を食べている。

 誰も自分を見ていない。

 玉鈴は汁物を口へ運んだ。

 温かかった。

 食べ終わる頃には、固く上がっていた肩が少し下がっていた。


 主人夫婦と使用人が、同じ卓を囲む。

 それがどれほど異例なことなのか、世間の常識を知らない玉鈴は少しも気づいていなかった。


 ◇


 その日から毎日、同じ卓で食べるようになったわけではない。

 けれど、ときどき子昂が呼んだ。春蘭が「今日は一緒に食べましょう」と誘う日もあった。最初は卓の端へ小さく座り、二人が箸を取るまで待っていた玉鈴も、何度目かには自分から箸へ手を伸ばすようになった。

 夕暮れに市から戻れば、「ただいま戻りました」と門をくぐる。


「おかえり、玉鈴」


 春蘭が返す。

 子昂が先に戻っていれば、大きな手が頭へ載る。厨房を通れば、料理人が作った菓子を一つもらうこともあった。桂花は相変わらず、きちんと食べたかと目を光らせている。

 朝になれば仕事をする。布を畳み、棚を拭き、軽い器を運ぶ。

 韓家へ来た頃と同じことをしているはずなのに、帰ってくれば迎える声があり、食卓には自分が座ることのある場所ができていた。


 ◇


 その頃。

 韓家から少し離れた茶屋に、一人の男が座っていた。

 柳家から送られてきた者だった。

 男は茶を飲みながら、通りの向こうにある韓家の門を眺めていた。一日目は何もない。二日目も、使用人が何人か出入りしただけだった。

 三日目。

 昼を過ぎた頃、門が開いた。

 三人の女が出てくる。

 一人は、上品な身なりの女。韓子昂の妻、林春蘭。その隣には年嵩の女中。

 そして、二人の間に小さな娘がいた。

 男の目が止まった。

 淡い緑の衣。細い身体。黒髪。十か十一ほどにしか見えない。

 髪には淡紅色の紐。

 足元には、蝶の刺繍が入った淡青の靴。

 三人は何か話しながら、市の方へ歩いていく。

 男は追わなかった。

 残っていた茶を飲み干すと、銭を置いて席を立った。


 ◇


「見つけたか」


 報告を受けた文徳は、椅子から立ち上がった。


「韓家に、小柄な娘がおります。十か十一ほどに見え、黒髪。韓家の奥方と女中とともに市へ出るところを確認いたしました」


 文徳の目が細くなる。


「顔は」

「遠目ですが、特徴は近いかと」

「いつからいる」

「近隣の者によれば、数か月ほど前からだそうです」


 時期も合う。


「韓家では何をしている」

「使用人として働いているようです」


 文徳は黙った。

 韓子昂が山中で賊を捕らえた。その後、小柄な負傷した娘を抱えているところを見た者がいる。

 そして今、その韓家に玉鈴によく似た娘がいる。

 偶然と考えるには、重なりすぎていた。


「……玉鈴」


 低く名を呼ぶ。


「どういたしますか」

「まだ手を出すな」


 文徳はすぐに答えた。

 韓子昂は龍帝の側近だ。その屋敷へ踏み込むことはできない。まして柳家の奴隷だから返せと正面から要求すれば、なぜ何か月も一人の奴隷を捜し続けていたのかと問われる。


「本人か確かめろ」

「は」

「韓家の者には気づかれるな」


 ◇


 皇城。

 華蓮は、ここ数日ほとんど寝台を離れていなかった。

 薄紅の絹帳に囲まれた寝台の傍らには、御典医が調合した薬の入った白磁の椀が置かれている。苦い薬草の匂いが、焚かれた香よりも濃く室内に残っていた。

 起き上がれば息が切れる。少し歩くだけで胸が苦しくなり、夜には脈が激しく乱れることもあった。


「……柳家から、何か知らせは来ていない?」


 枕に頭を預けたまま、華蓮が訊く。

 侍女が首を横に振った。


「本日は、まだ何も」

「そう……」


 華蓮は目を閉じた。

 父は何をしているのだ。

 玉鈴さえ戻ればいい。

 あの娘から、また気を取ればいい。そうすれば、この身体は元へ戻る。

 病が治ったのではない。

 幼い頃から弱かった心の臓は、玉鈴から気を取るようになってから、症状が出なくなっていただけなのだから。


「陛下がお見えです」


 侍女の声に、華蓮が目を開いた。

 起き上がろうとした途端、胸が強く脈打つ。


「そのままでよい」


 低い声とともに、景焱が入ってきた。

 黒に近い深藍の長衣には銀糸で龍が縫い取られ、長い黒髪は高く結われている。景焱は寝台のそばまで来ると、華蓮を見下ろした。


「申し訳ございません……」

「謝ることではない。御典医は何と」

「心の臓が弱っていると……」


 景焱の眉が寄った。

 頬は以前より痩せ、唇からも色が失われている。艶やかだった黒髪も、どこか乾いて見えた。

 苦しそうに息を整える華蓮を見つめていて、景焱はふと気づいた。

 ――何も感じない。

 華蓮は目の前にいる。手を伸ばせば届くほど近くにいるというのに、番の気がまったく感じられなかった。

 皇城へ迎えた頃には、まだあった。

 微かではあっても、確かに感じていた気配。それが日を追うごとに弱くなり、今はもう、どこにもない。

 柳家で華蓮を見つけた、あの日。

 身体の奥を突き上げた歓喜。血が沸き立つような、強烈な感覚。

 あれも、二度と起きていない。


「……陛下?」


 華蓮の声に、景焱は目を上げた。


「いや。休め」


 華蓮の身体が弱っているせいなのか。

 そう考えれば、説明はつく。

 だが、景焱の胸に生じた違和感は消えなかった。


 ◇


 その翌朝。

 朝議の場で、皇叔は景焱を見ていた。

 高い天井を支える朱塗りの柱が整然と並び、その間には龍と瑞雲を織り出した垂幕が下がっている。磨き上げられた石床には格子窓から朝の光が差し込み、居並ぶ臣下たちの影を長く伸ばしていた。

 景焱が苛立っているわけではない。声を荒らげてもいない。玉座に座り、上奏を聞き、必要な命を下している。

 いつもと変わらぬ朝議だった。

 それなのに、広間の空気が重い。


「西方三郡の収穫については――」


 報告していた老臣が、一瞬言葉に詰まった。

 景焱の目が向く。

 ただ、それだけで老臣の額に汗が浮いた。


「続けよ」

「は……はい」


 低い声が落ち、居並ぶ臣下の肩がわずかに強張った。

 皇叔は目を細める。

 龍気が漏れている。

 景焱自身は抑えているつもりなのだろう。だが、強大な龍気が時折その身から滲み、周囲を圧していた。

 以前にもあったことだ。

 十四年ものあいだ番を欠き、己一人で龍気を抱え続けてきた。だから不安定になること自体は、おかしくない。

 だが。

 今は違う。

 番は、戻ったはずなのだ。


 ◇


 朝議を終えたあと、皇叔は自室へ戻ると人払いをした。残したのは、長く仕える側近一人だけだった。


「……おかしい」

「何がでございますか」

「景焱だ。龍気が乱れている」

「以前から、時折そのようなことはございましたが」

「ああ。番がいなかった頃ならばな」


 十四年前に失われた、ただ一人の番。それをようやく見つけ、皇城へ迎えた。

 本来なら、龍帝の気は安定へ向かうはずだった。龍帝と番、二つの気が巡ることで強大すぎる龍気は鎮まり、均衡を取り戻す。歴代の記録にもそう残されている。


「柳華蓮は?」

「ここ数日、床に伏しているようです。御典医が出入りしております」


 皇叔の指が、肘掛けを一度叩いた。

 番は弱り、龍帝の龍気は安定するどころか乱れている。


「柳文徳は現在も領地におります」


 側近が続けた。

 皇叔が目を上げる。


「何をしている」

「一人の娘を捜しているようです」

「娘?」

「はい。柳家で働いていた娘だそうです」

「娘が龍帝の番として皇城へ入ったというのに、本人は領地で使用人を探しているのか」

「はい」

「妙だな。そこまでして取り戻したい娘とは、何者だ」

「詳しいことは、まだ分かっておりません」


 皇叔は黙った。


「名は」

「玉鈴と」

「玉鈴……」


 その名を一度、口の中で転がす。


「調べろ。なぜ柳文徳が、その娘を執拗に捜しているのか。それと、華蓮の病状もだ」

「承知いたしました」

「文徳には気づかれるな」


 側近が頭を下げ、退出する。

 皇叔は一人、椅子へ深く身を沈めた。

 番が戻ったはずなのに、景焱には歴代の記録にあるほど明確な安定が現れていない。その一方で、番であるはずの華蓮は身体を弱らせている。

 そして華蓮の父は、一人の奴隷を執拗に捜している。

 何かがある。

 だが、まだ分からない。

 皇叔はもう一度、報告書に書かれた名を見た。

 玉鈴。


 ◇


 数日後。


「間違いございません」


 文徳の書斎で、男が深く頭を下げた。


「本人か」

「はい。近くで顔を確認いたしました。玉鈴です」


 文徳の手が、紫檀の卓の上で止まった。


「……そうか」


 生きていた。

 しかも韓子昂の屋敷にいる。


「韓家での扱いは」

「使用人として働いております。ただ……」

「何だ」

「韓夫人と頻繁に市へ出ております。屋敷の者の話では、韓様ご夫妻と同じ卓で食事をすることもあるようです」


 文徳の眉が寄った。


「奴隷が?」

「韓家では、そのようには扱われていないようです」


 文徳は黙った。

 やはり、あのとき韓子昂に拾われたのだ。


「華蓮からは」

「今朝も使いが。お身体がさらに悪くなっているとのことです」


 文徳の顔が硬くなる。

 時間はない。玉鈴を連れ戻さなければ、華蓮の命が危うい。

 だが、韓子昂は龍帝の側近だ。その屋敷へ踏み込み、無理に連れ去るわけにはいかない。

 なぜ一人の娘をそこまで執拗に捜しているのか。事情を問われれば、柳家が隠してきたことまで探られかねない。


「もう少し様子を見ろ」

「しかし、華蓮様が――」

「分かっている」


 文徳の声が低くなる。


「必ず連れ戻す。だが、韓家相手に強引な真似はできん」


「なぜ奴隷一人にそこまで執着するのかと探られれば、厄介なことになる」


 男が口を閉じた。


「韓家の出入りを調べろ。玉鈴が一人になる時を探せ」

「……承知いたしました」


 ◇


 その日の夕刻。


「ただいま戻った」


 韓家の門をくぐった子昂の声に、奥から桂花が出てきた。


「おかえりなさいませ」


 その後ろから、玉鈴も顔を覗かせる。


「……おかえりなさいませ」

「ああ」


 子昂の視線が自然と足元へ落ちた。


「今日もそれを履いていたのか」


 玉鈴も自分の足を見る。

 蝶の刺繍の靴。

 小さく頷いた。


「気に入ったんだな」


 もう一度、頷く。

 子昂の大きな手が伸び、ぽん、と頭へ載った。


「あなた、おかえりなさい」


 春蘭も奥から出てくる。


「今日はね、玉鈴が――」


 春蘭が話し始める。

 子昂は上衣を脱ぎながら聞き、桂花が横から一言挟む。

 玉鈴は三人のそばに立っていた。

 それから、しばらくして。

 玉鈴が韓家へ来てから、季節が一つ進んだ。


 ◇


 朝晩の風が少し冷たくなり、庭の木々にも黄色い葉が混じり始めている。

 その朝、玉鈴は廊下を拭いていた。濡らした布を固く絞り、板目に沿って動かす。一度拭いたところを横から見て、薄く残った跡に気づくと、もう一度。


「玉鈴」


 呼ばれて顔を上げた。

 春蘭が廊下の向こうに立っている。


「ちょっと来て」


 玉鈴は布を置き、立ち上がった。

 春蘭のところまで行くと、小さな包みを差し出される。


「昨日、お客様からいただいたの。美味しかったから、玉鈴にも残しておいたのよ」


 包みの中には、胡麻を散らした焼き菓子が二つ入っていた。

 玉鈴は菓子を見て、それから春蘭を見上げる。


「……ありがとうございます」

「お茶の時間に食べなさい」


 玉鈴は包みを両手で受け取った。

 春蘭はそのまま行きかけて、ふと思い出したように振り返る。


「そうだ。今日、市へ行くけど、一緒に行く?」


 玉鈴は少し考えてから、首を横に振った。


「今日は行かない?」


 頷く。


「そう。分かったわ。じゃあ、お留守番お願いね」

「……はい」


 春蘭はそれ以上勧めず、廊下を歩いていった。


 ◇


 市へ出た春蘭は、布屋の前で足を止めた。

 秋物の反物が軒先いっぱいに並んでいる。深い藍に銀鼠、山吹、薄紅。夏の軽い布とは違い、指で触れると少し厚みがあった。

 その中の一枚へ手を伸ばす。

 淡い藤色だった。


「奥様?」


 一緒に来ていた桂花が振り返る。


「これ、玉鈴に似合いそうだと思って」


 桂花が笑う。


「またですか」

「また?」

「この前も髪飾りを見ながら、同じことを仰ってましたよ。その前は菓子屋で」


 春蘭は手にした布を見た。

 柔らかな藤色の向こうに、小さな姿が浮かぶ。


「……そうだったかしら」

「ええ」


 結局、その日は買わなかった。

 今度、玉鈴を連れてきて選ばせよう。

 そう思って、布から手を離した。


 ◇


 同じ日の夕刻。

 皇城からの帰り道、子昂は菓子屋の前で足を止めた。

 西へ傾いた陽が通りの屋根を赤く染め、店先には焼き上がったばかりの丸い菓子が並んでいる。


「韓様、いかがです?」


 顔馴染みの店主が声を掛けた。


「今日のは胡桃と蜜を練った餡ですよ」

「甘いか」

「ええ。女子供には人気です」

「そうか。三つくれ」


 包みを受け取り、再び歩き出す。

 なぜ買ったのかと訊かれれば、理由は一つだった。

 玉鈴が好きそうだったからだ。


 ◇


「ただいま戻った」


 夕暮れの韓家に、子昂の声が響いた。


「おかえりなさいませ」


 桂花の後ろから、玉鈴が顔を覗かせる。


「……おかえりなさいませ」

「ああ。これ」


 子昂が持っていた包みを差し出した。

 玉鈴が見る。


「菓子だ。お前に買ってきた」


 そこでようやく両手が出た。


「……私に?」

「ああ」

「……ありがとうございます」


 包みを大切そうに受け取る。


「私には?」


 声がして、春蘭が廊下の向こうから現れた。


「三つある」

「まあ。珍しい」

「何がだ」

「あなたが菓子を買って帰ってくるなんて」

「店の前を通った」

「それだけ?」


 子昂が少し黙った。


「玉鈴が好きそうだった」


 春蘭が目を瞬いた。


「……私も今日、似たようなことをしたわ」

「何を」

「布を見て、玉鈴に似合いそうだと思ったの」


 二人の視線が、同時に玉鈴へ向いた。

 玉鈴は困ったように二人を見返す。

 淡紅色の髪紐の先で、小さな白玉が揺れている。足元には蝶の靴。両手には、子昂からもらった菓子。

 その横で、桂花が堪えきれずに笑った。


 ◇


 その夜。

 玉鈴が部屋へ下がったあと、春蘭は自室で針仕事をしていた。

 青磁の燭台に灯された火が、卓上を柔らかく照らしている。窓の外では秋の風が庭木を揺らし、ときおり乾いた葉が石畳を擦る音がした。

 向かいでは、子昂が皇城から持ち帰った書状を読んでいる。


「あなた」

「ん?」

「私、最近ね。市へ行っても、玉鈴に似合いそうなものばかり見てしまうの」


 子昂は書状から顔を上げた。


「今日も布を見てね。あの子に似合うかしらって」

「俺もだ」


 春蘭の手が止まる。


「あなたも?」

「菓子を見て、あいつが好きそうだと思った」

「あれ、玉鈴のためだったのね」

「ああ」


 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 春蘭が針を置いた。


「……子どもがいたら、こんな感じだったのかしらね」


 子昂はすぐには答えなかった。

 夫婦になって十八年。

 まだ若かった頃には、二人で話したこともあった。子が生まれたら、男の子なら、女の子なら、どちらに似るだろう。

 そんな話をしなくなってからの年月の方が、もう長い。


「そうかもしれんな」


 やがて、子昂が言った。

 春蘭は膝の上の布へ目を落とした。


「あの子が大きくなっても、ここにいてくれたらいいのに」

「ああ」

「使用人としてじゃなくて」


 子昂は書状を卓へ置いた。


「俺もそう思っていた」


 春蘭が顔を上げた。

 それ以上は、どちらも口にしなかった。

 長い間、二人の間から消えていた言葉だった。

 簡単に決めていいことでもなかった。


 ◇


 韓家では、それからも変わらない日々が続いた。

 子昂と春蘭は、あの夜に交わした話をすぐには玉鈴へ伝えなかった。

 養女にするということは、ただ屋敷に置いておくのとは違う。韓家の娘として迎えれば、玉鈴の身分も、これからの人生も変わる。

 何より、玉鈴自身がそれを望むかどうか。

 子昂は必要な手続きを調べた。

 春蘭は玉鈴への接し方を変えなかった。市へ行く日は一緒に行くかと訊き、行かないと言えばそれ以上は勧めない。夕餉をともにする日もある。

 そんなときには、箸の置き方や椀の扱い方など、食事の作法をそれとなく教えた。玉鈴がこの先も韓家にいるかどうかは、まだ分からない。それでも、知っていればいつか役に立つだろうと春蘭は思っていた。

 間違えても叱らない。ただ「こうすると綺麗よ」と、自分でやって見せる。玉鈴はその手元をじっと見つめ、次からは同じようにした。

 子昂は帰れば、いつの間にか玉鈴の姿を探すようになっていた。見当たらなければ「あいつは?」と桂花に訊く。

 玉鈴もまた、朝になれば起きて、できる仕事を手伝った。

 玄関には、外へ出る日を待つ蝶の靴が並んでいる。

 食卓には、玉鈴が座ることのある場所がある。

 そんな日々が、数日続いた。


 ◇


 夕餉が終わったあとだった。


「玉鈴」


 春蘭に呼ばれ、玉鈴は振り返った。


「少し、お話ししてもいい?」


 いつもと違う声だった。

 玉鈴の身体が、わずかに強張る。

 春蘭はすぐに気づいた。


「怒る話じゃないのよ。旦那様も待ってるわ」


 連れていかれたのは、何度か三人で食事をした部屋だった。

 格子窓の向こうには夜の庭が広がり、月明かりを受けた池の水面がかすかに光っている。卓上には青磁の燭台。壁際には花鳥を描いた衝立が置かれ、その前に子昂が座っていた。

 玉鈴が入ると、向かいの席を示した。


「座れ」


 玉鈴は腰を下ろし、膝の上で両手を重ねた。春蘭も隣へ座る。

 少しの間、誰も話さなかった。

 先に口を開いたのは子昂だった。


「玉鈴」

「……はい」

「お前は、これからどうしたい」


 玉鈴の目が動いた。

 意味が分からないようだった。


「ここを出ていけという話じゃない。ここにいたければ、いていい」


 玉鈴は二人を見る。

 春蘭が口を開いた。


「私たちはね、あなたにずっとここにいてほしいと思ってるの」


 玉鈴が瞬きをした。


「働いてくれるからじゃないのよ」


 春蘭は一度、子昂を見る。

 子昂が頷いた。


「使用人としてじゃなくて」


 春蘭は玉鈴へ向き直った。


「私たちの娘にならない?」


 玉鈴の目が止まった。

 部屋が静かになる。

 庭から、風に揺れる葉の音が聞こえてきた。

 玉鈴は何も言わない。春蘭も急かさなかった。子昂も待っている。

 長い沈黙のあと、玉鈴の唇がわずかに動いた。


「……娘」

「ええ」

「私が……?」

「そう」


 春蘭はまっすぐ玉鈴を見た。


「嫌なら、断っていいのよ」


 玉鈴の指が膝の上で動き、衣をきゅっとつまんだ。


「断っても、ここから出ていかなくていいわ。今までと同じように、ここにいていいの」


 玉鈴が顔を上げた。


「……私」


 小さな声だった。


「私……奴隷です」

「違う」


 玉鈴が顔を上げた。


「奴隷という身分は、とうに廃されている。お前は奴隷ではない」

「でも、私は柳家に買われて……」

「それでも、お前は奴隷ではない」


 子昂はまっすぐ玉鈴を見た。


「お前がこれまで、どこでどう生きてきたのか、俺たちは全部知っているわけじゃない。だが、俺たちがお前を娘にしたいと思っていることとは関係ない」


 春蘭が、玉鈴のそばへ手を置いた。

 触れない。

 ただ、手のひらを上にして置く。


「玉鈴が決めていいの」


 春蘭が言った。


「私たちの娘になるかどうかは、あなたが決めていい」


 玉鈴は、差し出された手を見つめた。

 春蘭は急かさない。ただ、玉鈴が自分から触れるのを待っている。


 これも、自分で決めていいのだ。


 やがて、膝の上に置いていた小さな手が動いた。

 春蘭の手のひらへ、指先が触れる。


「……娘に」


 一度、声が途切れた。

 玉鈴は俯いたまま、春蘭の手に指を重ねた。


「……娘に、なりたい」


 春蘭の目が潤んだ。


「そう」


 声が少し震える。

 それでも、すぐには抱きしめなかった。


「抱きしめてもいい?」


 玉鈴が顔を上げた。

 春蘭を見る。

 そして、小さく頷いた。


 春蘭の腕が、ゆっくりと小さな身体を包んだ。

 強くはない。

 逃げようと思えば、いつでも離れられるほどの腕だった。

 玉鈴はしばらく動かなかった。

 頬に触れる衣は柔らかく、春蘭がいつも使っている淡い香の匂いがした。

 温かかった。

 やがて、玉鈴の手が動いた。

 そっと春蘭の衣をつかむ。

 子昂は向かいで二人を見ていた。

 大きな手で、一度だけ顔を擦る。


「あなた」

「何だ」

「泣いてる?」

「泣いてない」


 春蘭が笑った。

 玉鈴の眉尻が、へにゃりと下がる。

 春蘭の衣をつかんだ指は、離れなかった。


 玉鈴が韓家の娘になって、数日が過ぎた。

 変わったことは、いくつもあった。

 朝、いつものように廊下を拭こうとすれば、桂花に布を取り上げられた。


「玉鈴。もう、それはしなくていいんですよ」


 そう言われても、玉鈴にはまだよく分からない。

 何もせずにいる方が落ち着かなくて厨房へ行けば、今度は料理人に「お嬢様が何をなさってるんです」と追い出された。

 それでも何か手伝おうとすると、春蘭には笑われる。


「あなたはもう、この家の使用人じゃないのよ」


 ――韓家の娘。


 あの日、自分でなりたいと言った。

 春蘭に差し出された手を、自分から取った。

 それなのに玉鈴は、娘というものが何をするものなのか、まだよく分からなかった。


 物心ついた頃から、働くのが当たり前だった。

 朝起きれば命じられたことをして、終われば次の仕事を探す。役に立たなければ叱られた。だから、何もせずにいていいと言われると、かえって不安になる。


 今は、ただただ恐れ多かった。

 朝、目を覚ませば顔を洗うための湯が用意されている。着替えれば髪を整えてもらい、食卓へ行けば自分の席がある。

 誰かに仕えるためではなく、自分のために誰かが動いてくれる。

 そんなことは、生まれて初めてだった。


 されるたびに、落ち着かなくなる。

 自分がこんなことをしてもらっていいのだろうか。

 あの日、「娘になりたい」と頷いたことさえ、後悔しそうになるほどだった。


 食卓では、春蘭が箸や椀の扱いを教えてくれた。

 客を迎えたときの礼の仕方や、目上の者への挨拶も、少しずつ覚え始めている。

 間違えても叱られることはない。春蘭はそのたびに「大丈夫。ゆっくり覚えればいいのよ」と笑った。


 ◇


 その日、玉鈴は桂花と市へ出ていた。


 秋の市は朝から人が多い。

 通りの両側には藍や山吹色の反物が軒先まで吊られ、竹籠を積んだ店、青磁や白磁の器を並べた店、干した茸や木の実を山のように盛った乾物屋が軒を連ねている。蒸籠から上がる白い湯気の向こうを、荷を担いだ男や買い物籠を下げた女たちが行き交い、あちこちから客を呼ぶ声が飛んでいた。


 韓家へ来てから、何度も歩いた道だった。

 けれど、今日の玉鈴は以前とは少し違って見えた。


 身につけているのは、淡い藤色の上衣と、白銀に近い薄青の裙。

 上衣には細い銀糸で花枝が縫い取られ、袖口には薄紅の刺繍が入っている。腰には白い組紐を結び、小さな玉飾りが歩くたびに揺れた。

 派手すぎる装いではない。けれど、布地も仕立ても上等で、春蘭が娘のために選んだものだと一目で分かる。


 きれいに結われた黒髪には、自分で初めて買った淡紅色の髪紐。

 先についた小さな白玉が、背で揺れている。


 足元には、春蘭が選んだ淡い青の布靴。

 爪先に刺繍された白と薄紅の蝶が、裙の裾から歩くたびに覗いた。

 どこから見ても、良家の娘だった。


 ただ、玉鈴自身はまだ、この姿に慣れていない。

 すれ違った女が衣を見て振り返ると、何かおかしいのだろうかと自分の袖を見下ろした。


「何もついてませんよ」


 隣を歩いていた桂花が笑う。


 玉鈴は袖から顔を上げた。


「……見られたので」

「そりゃあ見ますよ。よくお似合いですから」


 玉鈴は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ袖口を指でつまんだ。

 桂花が馴染みの店先で足を止める。


「桂花さん。この前頼まれてたもの、入ってるよ」

「本当かい。見せておくれ」


 店主が奥から品を取り出した。

 桂花が受け取り、広げる。


 その後ろで、玉鈴は行き交う人を眺めていた。

 籠を背負った男が横を通り過ぎる。

 母親の手を引いた子どもが、湯気の上がる菓子屋へ駆けていく。

 荷車を避けた女たちの笑い声が聞こえた。


 いつもの市だった。

 だから。

 背後から近づいた男にも、気づかなかった。

 突然、口元を塞がれた。


「――っ」


 鼻と口を大きな手で覆われ、身体が後ろへ引かれる。

 足を踏ん張る。

 けれど、小さな身体では、大人の男の力に敵わない。


 人通りから外れた細い路地へ、瞬く間に引きずり込まれていく。

 表通りの喧騒が遠ざかった。


 玉鈴は必死に地面を蹴った。

 その拍子だった。

 片方の靴が脱げた。

 淡い青の、小さな布靴。

 白と薄紅の糸で縫い取られた蝶が、土の上へ転がる。


 玉鈴の目が見開かれた。

 手を伸ばす。

 届かない。

 春蘭が買ってくれた靴が、遠ざかっていく。


「――……っ」


 声にもならなかった。

 玉鈴の身体は路地の奥へ消えた。

 あとには、蝶の靴が片方だけ残された。


「玉鈴、これどう?――」


 桂花が振り返った。

 返事がない。

 つい先ほどまでそこにいた、小さな姿もなかった。


「……玉鈴?」


 桂花が店先から通りへ飛び出し、左右を見回した。

 藍や茶の衣を着た人々が行き交い、その間を荷車が通り抜けていく。買い物籠を下げた女たちの向こうにも、玉鈴の姿はない。

 あの淡い藤色なら、すぐに見つかるはずだった。


「玉鈴!」


 声を張り上げた、そのときだった。

 道端に、淡い青のものが落ちているのが目に入った。


 桂花の足が止まる。


 爪先に、白と薄紅の糸で縫い取られた小さな蝶。

 見間違えるはずがない。

 玉鈴が履いていた布靴だった。


 桂花は人を押し分けるように駆け寄り、それを拾い上げた。


 片方しかない。


「……玉鈴」


 靴を握りしめた桂花の手が、震えた。

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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