奪われたもの
玉鈴が押し込まれた馬車は、すぐに走り出した。
車輪が石敷きを激しく叩き、狭い車内が揺れる。
両脇には体格のいい男が一人ずつ座り、逃げようと身体を動かすだけで、その腕がすぐ届く距離だった。
口を塞いでいた布が外されても、玉鈴は声を上げなかった。
荒い息を繰り返しながら、向かいを見る。
濃紺の長衣。
胸元には雲紋が縫い取られ、腰には玉飾りが下がっている。
見覚えのある顔だった。
玉鈴の身体が強張る。
「久しぶりだな、玉鈴」
柳文徳だった。
柳家にいた頃、逆らうことなど考えたこともなかった相手を前に、指先が震え始める。
「……旦那様」
「騒ぐな。すぐに済む」
文徳はそれだけ言った。
玉鈴は固く閉ざされた扉へ目を向け、膝の上で手を握りしめる。
「……帰してください」
文徳の眉が、わずかに動いた。
「どこへ帰るのだ?」
玉鈴は息を呑んだ。文徳の顔から、すっと表情が消える。
「お前は柳家の奴隷だ」
――違う。
胸の奥に、子昂の声が蘇った。
この国には、もう奴隷という身分はない。
そう教えてくれた。
けれど、それを文徳に言い返すことはできなかった。
怖かった。柳家で過ごした日々は、韓家の娘になったからといって、数日で消えてくれるものではない。
「華蓮がお前を必要としている」
その名を聞いた途端、玉鈴の顔から血の気が引いた。
何をされるのか、分からないはずがない。華蓮に必要とされる理由など、一つしかなかった。
膝の上で握った手に、さらに力がこもる。
文徳はそれを見ても、何も言わなかった。
馬車は玉鈴を乗せたまま、皇城へ向かって走り続けた。
◇
「玉鈴がいない?」
春蘭の手から、茶器が滑り落ちた。
白磁の器が床へぶつかり、乾いた音を立てて砕ける。淡い茶が敷物へ広がったが、誰一人そちらを見なかった。
「申し訳ございません……!」
桂花は青ざめた顔で、片方の靴を差し出した。
「私が店の者と話している間に……ほんの少しだったんです。振り返ったら、もう……」
春蘭は何も言わず、それを受け取った。
淡い青の布靴。その爪先には、白と薄紅の蝶が刺繍されている。間違えるはずがない。
あの日、市で玉鈴に履かせたものだった。
「私が目を離したから……」
「桂花」
春蘭が顔を上げる。
「桂花のせいじゃない」
そう言った春蘭の手も、震えていた。
玉鈴が、この靴を自分から置いていくはずがない。
片方だけが、道端に残されていた。
それだけで十分だった。
春蘭は立ち上がる。
「旦那様に知らせて」
◇
華蓮は寝台の上で身体を起こしていた。
几帳の向こうから差し込む昼の光は柔らかい。それでも、青白く痩せた顔を隠してはくれなかった。
胸の苦しさは日を追うごとに増し、御典医の薬を飲んでも、以前のようには効かない。少し身じろぎするだけで息が上がり、額には薄く汗が滲んでいた。
扉が開いた。
文徳が入ってくる。その後ろから連れてこられた娘を見て、華蓮の目が止まった。
玉鈴だった。
華蓮の視線が、ゆっくりと上から下へ動く。
頬には少し肉が戻り、青白かった肌にも以前より血色がある。まだ痩せてはいるものの、柳家にいた頃のような、今にも折れそうな危うさは薄れていた。
何より、身なりが違った。
黒髪はきれいに結われ、淡紅色の髪紐の先で小さな白玉が揺れている。
身につけているのは、淡い藤色の上衣と白銀に近い薄青の裙。上衣には細い銀糸で花枝が縫い取られ、袖口には薄紅の刺繍が入っている。腰には白い組紐が結ばれ、小さな玉飾りまで下がっていた。
足元には片方だけ、淡い青の蝶の靴。
どこから見ても、良家の娘だった。
華蓮の顔が歪んだ。
「……何、その格好」
玉鈴の肩がびくりと強張る。
「誰に許されて、そんなものを身につけてるの?」
玉鈴は答えない。
「こっちへ来なさい」
動かなかった。
華蓮の目が細くなる。
「あんた、聞こえなかったの?」
文徳が玉鈴の背を押した。
数歩、前へ出る。
片方だけの靴が床を擦った。
華蓮の視線が、髪へ向いた。
「それ」
細い指が伸びる。
髪紐を掴まれた瞬間、玉鈴が反射的に頭を引いた。
華蓮の手が止まる。
「……何?」
玉鈴は髪紐へ手を添えた。
怖い。
身体は、柳家にいた頃を覚えている。
逆らえばどうなるかも。
何をされるかも。
それでも。
「……やめてください」
華蓮が目を見開いた。
「は?」
一瞬、部屋が静まり返った。
華蓮の顔から、すっと表情が消える。
「あんた、奴隷のくせに何口答えしてんの?」
髪紐を乱暴に引き抜いた。
結われていた黒髪がほどけ、玉鈴の肩から背へ落ちる。
華蓮は淡紅色の紐を指先につまみ、鼻で笑った。
「返してください……」
玉鈴は、髪紐を見つめた。
華蓮はそれを卓の上へ放る。
「そんなことより、早くしなさい」
玉鈴の顔が強張った。
何を言われているのか。
分からないはずがなかった。
「……嫌です」
華蓮の手が止まった。
文徳も玉鈴を見る。玉鈴は俯いたまま、震える両手を握りしめた。
それでも、今度は黙らなかった。
「……嫌です」
「何ですって?」
華蓮の声が低くなる。
玉鈴は胸元の衣をぎゅっと握った。
「これは……私のものです」
「何を言ってるの。あなたの気は、私のためにあるのよ」
怖くて、喉が狭くなる。
それでも玉鈴は、首を横に振った。
「あなたには……あげません」
華蓮の顔が歪んだ。
「――あんた」
腕を掴まれる。
「奴隷のくせに!」
次の瞬間、身体の奥から何かが引き剥がされた。
「……っ!」
玉鈴の膝が折れる。
ただ力が抜けたのではない。もっと深いところから、自分を形作っているものそのものが抜き取られていく。
華蓮の胸へ、熱が流れ込んだ。
苦しかった呼吸が楽になり、胸を締めつけていた痛みが薄れていく。冷たかった指先にまで、じわりと温かさが戻った。
華蓮は手を離さなかった。
もっと。
もう少し。
玉鈴の身体から、気を貪るように吸い上げていく。
華蓮の頬に血色が戻っていく一方で、玉鈴は床に手をついた。片方だけの蝶の靴が滑り、ほどけた黒髪が肩から流れ落ちる。
息が浅くなる。
視界が暗くなっていく。
それでも、華蓮は手を離さなかった。
ようやく手を離したとき、玉鈴はその場に崩れ落ちた。
床に横たわった身体は動かない。黒髪に半ば覆われた顔からは血の気が失われ、唇まで白くなっている。
胸がかすかに上下していなければ、生きていることさえ分からないほどだった。
文徳が眉を寄せた。
「華蓮」
「何?」
「取りすぎたのではないか」
華蓮は自分の手を見た。
指先まで温かい。胸の痛みも消えている。大きく息を吸っても、もう苦しくなかった。
「大丈夫でしょう」
床の玉鈴へ目を落とす。
「休ませておけば、また戻るわよ」
今までもそうだった。
気を取れば弱る。寝込むこともあった。それでも、しばらくすればまた立ち上がった。
華蓮はそれ以上、玉鈴を見なかった。
「お父様。鏡を」
侍女が差し出した鏡を覗き込む。
青白かった頬には色が戻り、落ち窪んでいた目にも力がある。華蓮の口元が、ゆっくりと緩んだ。
そのときだった。
「華蓮様」
廊下から、慌ただしい声がした。
「陛下がお見えになります」
華蓮が振り返る。
「……陛下が?」
「はい。すでにこちらへ向かわれております」
華蓮の顔に、ぱっと喜びが浮かぶ。
だが、床に倒れた玉鈴が目に入った途端、その笑みが消えた。
「隠して」
侍女が戸惑った。
「え……?」
「それを隠して。陛下に見つからないところへ」
「ですが、この娘……息が……」
「休ませておけば戻るって言ってるでしょう!」
華蓮の鋭い声が響いた。
「早くして。陛下がお見えになるのよ」
文徳が侍女へ目を向ける。
「人を呼べ」
男たちが入り、玉鈴の身体を抱え上げた。
腕が力なく垂れ、ほどけた黒髪が揺れる。
運び出す際、男の袖が卓に触れた。
置かれていた淡紅色の髪紐が床へ落ち、小さな白玉が硬い床の上で一度だけ跳ねた。
華蓮は気づかなかった。
◇
景焱は華蓮の部屋へ続く回廊を歩いていた。
磨かれた石床へ長衣の裾が触れる。左右に並ぶ朱塗りの柱の向こうでは、秋の陽を受けた庭木が風に揺れていた。
ふいに、景焱の足が止まる。
何かが違う。
数日前、寝台に伏す華蓮のそばにいても、番の気をまったく感じなかった。
それが今は、まだ部屋まで距離があるというのに、濃い番の気が回廊にまで満ちている。
景焱の眉が寄った。
扉が開く。
「陛下」
華蓮が立っていた。
景焱の目が細くなる。
つい数日前まで、起き上がることさえ辛そうだった女が、自分の足で立っている。青白かった頬には血色が戻り、唇にも色がある。華やかな衣をまとった姿には、病に伏していた面影すらほとんど残っていなかった。
そして、強い番の気を纏っている。
「ご心配をおかけいたしました。今日は、とても身体の具合がよく――」
景焱は答えなかった。
ただ、華蓮を見ていた。
番の気がする。
間違いなく、柳家で初めてこの女を見たときと同じ気だ。
それなのに、胸は動かなかった。
血が沸き立つことも、身体の奥から歓喜が突き上げることもない。
ただ、そこに番の気がある。
それだけだった。
次の瞬間、景焱の胸を激しい痛みが貫いた。
「――っ」
息が止まり、胸元を掴む。
「陛下?」
華蓮が近づこうとした。
「来るな」
低い声に、華蓮の足が止まった。
だが、景焱にはもう華蓮など見えていなかった。
身体の奥で、龍が荒れ狂っている。
失う。
己と繋がった、ただ一つの命が弱くなっている。
今にも、その繋がりが途切れそうなほどに。
「……明珠」
掠れた声が落ちた。
「はい」
迷いもなく、華蓮が答えた。
景焱がゆっくりと顔を上げる。
違う。
目の前の女ではない。
この女からは確かに番の気がする。
だが、龍が求めているのは、この女ではなかった。
己の番は、別の場所にいる。
そして今、死にかけている。
「……お前」
漆黒だった景焱の瞳に、金が滲んだ。
華蓮の笑みが消える。
「陛下……?」
景焱が一歩、近づいた。
華蓮から漂う気が、鼻につくほど濃い。
数日前まで、ほとんどなかったものが。
「その気は、どうした」
華蓮の顔が強張った。
「……気、でございますか?」
「数日前まで、そなたにはなかった」
景焱の声が低くなる。
「どこで手に入れた」
「陛下、私は――」
空気が震えた。
華蓮が息を呑む。
景焱から溢れ出した龍気が、一瞬で部屋を満たした。格子窓ががたがたと鳴り、垂らされた薄布が大きく翻る。燭台の炎が激しく揺れ、廊下で控えていた侍女たちがその場へ膝をついた。
「陛下……!」
華蓮も立っていられず、寝台へ手をつく。
景焱は止められなかった。
十四年間、失った番を探し続けた。ようやく見つけたと思った。生きていたと思った。
それが、違った。
本当の番は今も別の場所にいる。
その命が消えかけているというのに、そこから奪われた気を、目の前の女が纏っている。
「答えろ」
低い声だった。
華蓮の顔から血の気が引く。
「わ、私は……陛下の番です。明珠です。十四年前に――」
「違う」
華蓮の唇が止まった。
景焱の瞳は、完全に金へ変わっていた。
「お前ではない」
「……え」
「予の番は、お前ではない」
華蓮が後ずさる。
「何を……」
景焱の龍気がさらに膨れ上がった。
柱が軋み、卓上の茶器が細かく震える。
「その気をどうした」
「……っ」
「誰から奪った」
華蓮の目が、ほんの一瞬揺れた。
景焱はそれを見逃さなかった。
「答えろ!」
轟音とともに、格子窓が弾けた。
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