真の番
轟音とともに、格子窓が弾けた。
砕けた木片が磨かれた床へ散り、薄絹の帳が激しく翻る。卓上の茶器が跳ね、華蓮は短い悲鳴を上げて寝台へ身を伏せた。
景焱から溢れた龍気が、部屋を押し潰すように満ちていた。漆黒の長髪が風もないのに大きく揺れ、長衣の広い袖がはためいている。普段は感情の読めない端正な顔から、今はすべての余裕が消えていた。
廊下に控えていた侍女たちはその場へ膝をつき、床へ手をついたまま顔を上げることすらできない。
「答えろ! その気を、誰から奪った!」
「陛下!」
文徳が声を上げた。
彼もまた強大な龍気に押され、片膝をついている。それでも身体を起こし、華蓮を庇うように前へ出た。
「どうか、お静まりください。華蓮は病弱なのです。これほどの龍気にあてられては、倒れてしまいます」
「そんなことはどうでもよい」
華蓮の顔が強張った。
文徳も一瞬、言葉を失う。
景焱は華蓮から目を逸らさなかった。つい先ほどまで病人だったとは思えないほど、その頬には血色が戻っている。胸元まで流れる黒髪も艶を取り戻し、華やかな衣の上からでも、身体に力が満ちていることが分かった。
「数日前まで、この女から番の気は消えていた」
文徳の顔色が変わった。
「それが今は、これほどまでに満ちている」
景焱が一歩進む。
靴底が床を踏む音に、華蓮が怯えたように後ずさった。
「そして同じ時に、予の番の命が消えかけている」
文徳の目が見開かれる。
景焱には、番がどこにいるのか分からなかった。だが、己と繋がった命が急速に弱まっていることだけは、身体の奥で荒れ狂う龍が嫌というほど伝えてくる。今にも、その繋がりが途切れてしまいそうだった。
「なぜだ」
誰も答えない。
「なぜ華蓮に番の気が満ちた途端、予の番が死にかける」
華蓮の指が、寝台の端を強く掴んだ。
その小さな動きを、景焱は見逃さなかった。
「柳文徳」
低い声に、文徳の肩が強張る。
「お前は知っているな」
「陛下――」
「誰だ」
景焱の瞳に、再び金が滲んだ。
「予の番は、誰だ」
文徳は答えない。
景焱から溢れる龍気がさらに膨れ上がり、柱が低く軋んだ。床に散った木片が震え、華蓮が息を呑む。
「答えろ」
「……陛下」
「今すぐ答えろ」
「まずは、お静まりください。お話は――」
「死にかけている!」
文徳の言葉が途切れた。
「予の番が、今、この瞬間にも死にかけているのだ!」
景焱の声に呼応するように床が震え、華蓮が耳を塞いで寝台の端へ身を縮めた。
そのとき、景焱の胸を再び鋭い痛みが貫いた。
「……っ」
胸元を押さえ、わずかに身体を折る。
先ほどよりも、番の気配が弱くなっていた。辛うじて繋がっているものが、少しずつ遠ざかっていく。その感覚に、身体の奥の龍が激しく抗う。
探せ。見つけろ。失うな。
景焱は顔を上げた。
「どこにいる」
金に染まり始めた瞳が、まっすぐ文徳を射抜く。
「予の番は、どこにいる」
文徳は唇を引き結んだ。
もう隠し通すことはできない。このまま黙っていれば、真の番が死ぬ。
それは、華蓮一人を守れば済む話ではなかった。
龍帝にとって、番はただの伴侶ではない。互いの気を巡らせ、強大な龍気を安定させる、ただ一人の存在だ。番を失えば龍は均衡を失い、やがて龍気を制御できなくなる。その力は龍帝自身を蝕み、災いは国にまで及ぶ。
番を失った龍帝がどうなるのか、文徳とて知らぬわけではなかった。
長い沈黙の末、文徳の唇が動いた。
「……玉鈴でございます」
景焱の動きが止まった。
「何?」
玉鈴。
その名には、聞き覚えがあった。
――最近、家に一人増えまして。
子昂が、屋敷に迎えた娘のことを話していた。山中で賊に襲われ、傷を負っていた娘。帰る場所がないから屋敷へ置いているのだと。
――玉鈴というんですが。
――あれは本当に可愛いんですよ。
「……子昂が話していた玉鈴か」
「……はい」
景焱の眉が寄った。
韓家を訪れたとき、妙に居心地のいい家だと思った。
「予が初めて華蓮に会った日も、玉鈴は柳家にいたのか」
文徳の肩が強張った。
「答えろ」
「……おりました」
景焱の視線が、ゆっくりと華蓮へ向いた。
「……玉鈴から奪ったのか」
華蓮の唇が震えた。
「……私は……」
「答えろ」
「私は、陛下の番です。明珠です。ずっと、そう――」
「黙れ」
華蓮の声が止まった。
景焱は華蓮を見据えた。そこには今も濃い番の気が満ちている。だが、もう惑わされることはない。
「予の龍は、お前を求めていない」
華蓮の顔から表情が消えた。
「玉鈴に何をした」
「……」
「この気を得るために、何をした」
華蓮が目を逸らした。
その反応を見た景焱の顔からも、すっと表情が消える。
「……そうか」
景焱は踵を返した。
「陛下」
文徳が呼び止める。
「どちらへ」
「韓家だ」
玉鈴。
子昂の屋敷にいる娘。十四年間探し続けた、たった一人。
だが、扉へ向かった景焱の足が止まった。
華蓮はここ数日、この殿舎から出ていない。
それなのに今、その身には濃い番の気が満ちている。
ならば、華蓮が玉鈴から気を奪ったというのなら――。
玉鈴の方が、ここへ来たのではないか。
しかも、文徳もここにいる。
景焱がゆっくりと振り返った。
「……玉鈴は、今どこにいる」
文徳の顔が強張った。
「陛下、それは――」
「どこだ」
答えない。
華蓮もまた、景焱から目を逸らした。
そのとき、景焱の目が床の一点で止まった。
卓の陰に、華やかな室内には似つかわしくない小さなものが落ちている。
景焱が歩み寄り、拾い上げた。
淡紅色の髪紐だった。
その先には、小さな白玉が一つついている。
「これは誰のものだ」
「……」
「華蓮」
「知りません」
答えが早かった。
「知らぬものが、なぜお前の部屋にある」
「侍女のものでは……」
「華蓮様」
侍女の一人が、思わず声を漏らした。
華蓮が鋭く振り返る。
声を上げた侍女は、しまったというように唇を閉ざした。顔を伏せても、その肩が震えている。
景焱の目が細くなった。
「……ここにいたのか」
華蓮の顔から、血の気が引いた。
◇
韓子昂が屋敷へ戻ったとき、門の前から様子が違っていた。
いつもなら静かな門内を使用人たちが慌ただしく行き交い、何人もの男が外へ駆け出していく。馬を引く者、何かを言い交わす者。その向こう、開け放たれた正門の内側に春蘭が立っていた。
「どうした」
子昂は馬を降りながら訊いた。
春蘭が振り返る。
いつも穏やかな顔は青ざめ、唇からも色が失われていた。
「あなた……」
その手には、小さな靴が握られている。
子昂の表情が変わった。
「それは」
「玉鈴が、いなくなったの」
子昂が動きを止める。
「桂花と市へ行って……店でほんの少し目を離した間に」
春蘭の声が震えた。
「これだけが、道に落ちていたの」
差し出された靴を、子昂が受け取った。
淡い青の布靴。その爪先には、白と薄紅の糸で小さな蝶が縫い取られている。
玉鈴が大切に履いていた靴だった。
「桂花は」
「まだ市で探してる。店の人たちも一緒に」
「見た者は」
「今、聞いて回ってもらってる」
子昂は小さな靴を握りしめた。
玉鈴が自分からいなくなったのではない。そんなことは考えるまでもなかった。
「人を出せ」
声が変わった。
「市から延びる道を全部当たれ。城門にも人をやれ。今日、市を出た馬車と荷車を調べろ」
使用人たちが一斉に動き出す。
子昂もすぐに踵を返した。
「あなた」
呼び止められ、振り返る。
春蘭は何も言わなかった。言葉にできないまま、子昂の手の中にある小さな靴を見ている。
子昂は春蘭のもとへ戻ると、大きな手でその肩を掴んだ。
「見つける」
それだけ言った。
「必ず連れて帰る」
春蘭が唇を噛み、頷いた。
◇
「どこへ隠した」
景焱の声が落ちた。
荒れた室内には、砕けた格子の破片が散っている。吹き込んだ風に薄絹の帳が揺れ、その向こうで華蓮が青ざめた顔をしていた。
「陛下、誤解でございます」
文徳が前へ出る。
「その髪紐一つで――」
「では、誰のものだ」
「……」
「答えろ」
文徳が黙る。
「玉鈴のものか」
華蓮の肩が揺れた。
それだけでよかった。
「ここに連れてきたな」
「陛下!」
「どこだ!」
龍気が爆ぜた。
卓上の茶器が床へ落ち、華蓮が悲鳴を上げる。文徳も耐えきれず、片手を床についた。
「お静まりください!」
「ならば答えろ!」
「玉鈴は――」
文徳の言葉が止まった。
その瞬間、景焱の胸を再びあの感覚が襲った。
先ほどよりも、さらに弱い。細い糸で辛うじて繋がっているものが、今にも切れようとしている。
景焱の顔から、さっと血の気が引いた。
「……時間がない」
怒りに満ちていた声が変わった。
「どこだ」
景焱は文徳を見据える。
「今すぐ言え」
文徳はしばらく動かなかったが、やがて観念したように顔を伏せた。
「……下でございます」
「何?」
「この殿舎の地下に、物を収める部屋がございます」
「お父様!」
華蓮が叫んだ。
文徳が振り返る。
「黙れ!」
それまで自分を庇っていた父の怒声に、華蓮が凍りついた。
「どこから入る」
「奥の間にございます」
景焱は最後まで聞かなかった。
奥の間へ踏み込み、文徳が示した棚を動かす。
その向こうに、人一人がようやく通れるほどの狭い階段が現れた。地下からは冷えた空気が這い上がり、陽の届かない石壁には湿り気が浮いている。
景焱は灯りを待たず、階段を駆け下りた。
下りるほどに胸の奥が激しく騒ぎ、番の気配が近づいてくる。
弱い。
それでも、確かにいる。
この下にいる。
地下には、衣装や調度を収める箱がいくつも並んでいた。地上の華やかな部屋とは違い、空気は冷たく、古い木と布の匂いが籠もっている。
景焱は箱の間を縫うように奥へ進み、一番奥に置かれた大きな衣装櫃の前で足を止めた。
ここだ。
蓋へ伸ばした指が震えた。
十四年間、どれほど探しても見つからなかった。
生きている。ただそれだけを頼りに、探し続けた。
それなのに今、衣装櫃の中から感じる命は、あまりにも弱い。
景焱が蓋を開けた。
小さな身体が、窮屈そうに横たわっていた。
淡い藤色の上衣は乱れ、銀糸で縫い取られた花枝が薄暗がりの中でかすかに光っている。白銀に近い薄青の裙は皺になり、足には淡い青の布靴が片方だけ残っていた。
乱れた黒髪の下に覗く頬からは血の気が失われ、細い腕は力なく胸にのっている。胸がかすかに上下していなければ、生きていることさえ分からないほどだった。
景焱はその場へ膝をついた。
「……明珠」
返事はない。
恐る恐る頬へ手を伸ばし、指先が冷たい肌に触れた。
――その瞬間だった。
全身が歓喜した。
身体を形作る一つ一つが、一斉に目を覚ましたようだった。視界が鮮明になり、耳に届く音が澄み渡る。血が一気に巡り、身体の奥深くにある龍気が激しく沸き立った。
十四年間、何をしても埋まらなかった場所へ、失われていたものがぴたりと戻る。
柳家で感じたものとは、比べものにならない。
気でも、香りでもない。理屈など必要なかった。
――これが、番か。
景焱の龍が歓喜していた。
見つけた。
ようやく、十四年探し続けた、たった一人を。
だが、その歓喜は一瞬で絶望へ変わった。
触れたことで、はっきりと分かってしまった。
明珠の胸の奥で刻まれている鼓動は、今にも途切れそうなほど頼りない。呼吸も浅く、命そのものが指の間から零れ落ちていくようだった。
「……明珠」
景焱の声が震えた。
見つけたのに。
ようやく見つけたのに、このままでは失う。
景焱は明珠の身体を抱き上げた。腕に収まった身体は驚くほど軽く、長い黒髪が腕から零れ、力のない頭が景焱の胸へ預けられる。
「明珠」
返事はない。
景焱は迷わず、自らの龍気を流し込んだ。
冷えた身体へ、消えかけている命へ、惜しむことなく注ぎ込む。
腕の中の明珠が、ほんのわずかに息をした。
「……明珠」
景焱はさらに龍気を送り込んだ。
どうすれば助かるのかなど分からない。ただ、本能だけが、この命を繋ぎ止めろと告げている。
長い黒髪が肩から滑り、明珠の白い頬へ落ちた。景焱はそれを払うことさえせず、腕の中の小さな顔を見つめた。
「明珠」
何度呼んでも、瞼は動かない。
景焱は小さな身体を抱く腕に力を込めた。
「頼む」
背後まで追ってきた文徳が、息を呑んだ。
命令ではなかった。
十四年間、誰にも見せることのなかった懇願だった。
「目を開けてくれ」
返事はない。
それでも景焱は、腕の中の命を繋ぎ止めるように龍気を送り続けた。
「……今度こそ」
声が掠れる。
「今度こそ、予を置いていくな」
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