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龍帝が十四年探し続けた番は、奴隷として生きていた  作者: 平子 天陽


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12/12

真の番

 轟音とともに、格子窓が弾けた。

 砕けた木片が磨かれた床へ散り、薄絹の帳が激しく翻る。卓上の茶器が跳ね、華蓮は短い悲鳴を上げて寝台へ身を伏せた。


 景焱から溢れた龍気が、部屋を押し潰すように満ちていた。漆黒の長髪が風もないのに大きく揺れ、長衣の広い袖がはためいている。普段は感情の読めない端正な顔から、今はすべての余裕が消えていた。

 廊下に控えていた侍女たちはその場へ膝をつき、床へ手をついたまま顔を上げることすらできない。


「答えろ! その気を、誰から奪った!」

「陛下!」


 文徳が声を上げた。

 彼もまた強大な龍気に押され、片膝をついている。それでも身体を起こし、華蓮を庇うように前へ出た。


「どうか、お静まりください。華蓮は病弱なのです。これほどの龍気にあてられては、倒れてしまいます」

「そんなことはどうでもよい」


 華蓮の顔が強張った。

 文徳も一瞬、言葉を失う。


 景焱は華蓮から目を逸らさなかった。つい先ほどまで病人だったとは思えないほど、その頬には血色が戻っている。胸元まで流れる黒髪も艶を取り戻し、華やかな衣の上からでも、身体に力が満ちていることが分かった。


「数日前まで、この女から番の気は消えていた」


 文徳の顔色が変わった。


「それが今は、これほどまでに満ちている」


 景焱が一歩進む。

 靴底が床を踏む音に、華蓮が怯えたように後ずさった。


「そして同じ時に、予の番の命が消えかけている」


 文徳の目が見開かれる。


 景焱には、番がどこにいるのか分からなかった。だが、己と繋がった命が急速に弱まっていることだけは、身体の奥で荒れ狂う龍が嫌というほど伝えてくる。今にも、その繋がりが途切れてしまいそうだった。


「なぜだ」


 誰も答えない。


「なぜ華蓮に番の気が満ちた途端、予の番が死にかける」


 華蓮の指が、寝台の端を強く掴んだ。

 その小さな動きを、景焱は見逃さなかった。


「柳文徳」


 低い声に、文徳の肩が強張る。


「お前は知っているな」

「陛下――」

「誰だ」


 景焱の瞳に、再び金が滲んだ。


「予の番は、誰だ」


 文徳は答えない。

 景焱から溢れる龍気がさらに膨れ上がり、柱が低く軋んだ。床に散った木片が震え、華蓮が息を呑む。


「答えろ」

「……陛下」

「今すぐ答えろ」

「まずは、お静まりください。お話は――」

「死にかけている!」


 文徳の言葉が途切れた。


「予の番が、今、この瞬間にも死にかけているのだ!」


 景焱の声に呼応するように床が震え、華蓮が耳を塞いで寝台の端へ身を縮めた。

 そのとき、景焱の胸を再び鋭い痛みが貫いた。


「……っ」


 胸元を押さえ、わずかに身体を折る。

 先ほどよりも、番の気配が弱くなっていた。辛うじて繋がっているものが、少しずつ遠ざかっていく。その感覚に、身体の奥の龍が激しく抗う。


 探せ。見つけろ。失うな。

 景焱は顔を上げた。


「どこにいる」


 金に染まり始めた瞳が、まっすぐ文徳を射抜く。


「予の番は、どこにいる」


 文徳は唇を引き結んだ。

 もう隠し通すことはできない。このまま黙っていれば、真の番が死ぬ。


 それは、華蓮一人を守れば済む話ではなかった。

 龍帝にとって、番はただの伴侶ではない。互いの気を巡らせ、強大な龍気を安定させる、ただ一人の存在だ。番を失えば龍は均衡を失い、やがて龍気を制御できなくなる。その力は龍帝自身を蝕み、災いは国にまで及ぶ。


 番を失った龍帝がどうなるのか、文徳とて知らぬわけではなかった。

 長い沈黙の末、文徳の唇が動いた。


「……玉鈴でございます」


 景焱の動きが止まった。


「何?」


 玉鈴。

 その名には、聞き覚えがあった。


 ――最近、家に一人増えまして。


 子昂が、屋敷に迎えた娘のことを話していた。山中で賊に襲われ、傷を負っていた娘。帰る場所がないから屋敷へ置いているのだと。


 ――玉鈴というんですが。

 ――あれは本当に可愛いんですよ。


「……子昂が話していた玉鈴か」

「……はい」


 景焱の眉が寄った。

 韓家を訪れたとき、妙に居心地のいい家だと思った。


「予が初めて華蓮に会った日も、玉鈴は柳家にいたのか」


 文徳の肩が強張った。


「答えろ」

「……おりました」


 景焱の視線が、ゆっくりと華蓮へ向いた。


「……玉鈴から奪ったのか」


 華蓮の唇が震えた。


「……私は……」

「答えろ」

「私は、陛下の番です。明珠です。ずっと、そう――」

「黙れ」


 華蓮の声が止まった。

 景焱は華蓮を見据えた。そこには今も濃い番の気が満ちている。だが、もう惑わされることはない。


「予の龍は、お前を求めていない」


 華蓮の顔から表情が消えた。


「玉鈴に何をした」

「……」

「この気を得るために、何をした」


 華蓮が目を逸らした。

 その反応を見た景焱の顔からも、すっと表情が消える。


「……そうか」


 景焱は踵を返した。


「陛下」


 文徳が呼び止める。


「どちらへ」

「韓家だ」


 玉鈴。

 子昂の屋敷にいる娘。十四年間探し続けた、たった一人。


 だが、扉へ向かった景焱の足が止まった。

 華蓮はここ数日、この殿舎から出ていない。

 それなのに今、その身には濃い番の気が満ちている。

 ならば、華蓮が玉鈴から気を奪ったというのなら――。

 玉鈴の方が、ここへ来たのではないか。

 しかも、文徳もここにいる。

 景焱がゆっくりと振り返った。


「……玉鈴は、今どこにいる」


 文徳の顔が強張った。


「陛下、それは――」

「どこだ」


 答えない。

 華蓮もまた、景焱から目を逸らした。

 そのとき、景焱の目が床の一点で止まった。

 卓の陰に、華やかな室内には似つかわしくない小さなものが落ちている。

 景焱が歩み寄り、拾い上げた。


 淡紅色の髪紐だった。

 その先には、小さな白玉が一つついている。


「これは誰のものだ」

「……」

「華蓮」

「知りません」


 答えが早かった。


「知らぬものが、なぜお前の部屋にある」

「侍女のものでは……」

「華蓮様」


 侍女の一人が、思わず声を漏らした。

 華蓮が鋭く振り返る。

 声を上げた侍女は、しまったというように唇を閉ざした。顔を伏せても、その肩が震えている。

 景焱の目が細くなった。


「……ここにいたのか」


 華蓮の顔から、血の気が引いた。


 ◇


 韓子昂が屋敷へ戻ったとき、門の前から様子が違っていた。

 いつもなら静かな門内を使用人たちが慌ただしく行き交い、何人もの男が外へ駆け出していく。馬を引く者、何かを言い交わす者。その向こう、開け放たれた正門の内側に春蘭が立っていた。


「どうした」


 子昂は馬を降りながら訊いた。

 春蘭が振り返る。

 いつも穏やかな顔は青ざめ、唇からも色が失われていた。


「あなた……」


 その手には、小さな靴が握られている。

 子昂の表情が変わった。


「それは」

「玉鈴が、いなくなったの」


 子昂が動きを止める。


「桂花と市へ行って……店でほんの少し目を離した間に」


 春蘭の声が震えた。


「これだけが、道に落ちていたの」


 差し出された靴を、子昂が受け取った。

 淡い青の布靴。その爪先には、白と薄紅の糸で小さな蝶が縫い取られている。

 玉鈴が大切に履いていた靴だった。


「桂花は」

「まだ市で探してる。店の人たちも一緒に」

「見た者は」

「今、聞いて回ってもらってる」


 子昂は小さな靴を握りしめた。

 玉鈴が自分からいなくなったのではない。そんなことは考えるまでもなかった。


「人を出せ」


 声が変わった。


「市から延びる道を全部当たれ。城門にも人をやれ。今日、市を出た馬車と荷車を調べろ」


 使用人たちが一斉に動き出す。

 子昂もすぐに踵を返した。


「あなた」


 呼び止められ、振り返る。

 春蘭は何も言わなかった。言葉にできないまま、子昂の手の中にある小さな靴を見ている。

 子昂は春蘭のもとへ戻ると、大きな手でその肩を掴んだ。


「見つける」


 それだけ言った。


「必ず連れて帰る」


 春蘭が唇を噛み、頷いた。


 ◇


「どこへ隠した」


 景焱の声が落ちた。

 荒れた室内には、砕けた格子の破片が散っている。吹き込んだ風に薄絹の帳が揺れ、その向こうで華蓮が青ざめた顔をしていた。


「陛下、誤解でございます」


 文徳が前へ出る。


「その髪紐一つで――」

「では、誰のものだ」

「……」

「答えろ」


 文徳が黙る。


「玉鈴のものか」


 華蓮の肩が揺れた。

 それだけでよかった。


「ここに連れてきたな」

「陛下!」

「どこだ!」


 龍気が爆ぜた。

 卓上の茶器が床へ落ち、華蓮が悲鳴を上げる。文徳も耐えきれず、片手を床についた。


「お静まりください!」

「ならば答えろ!」

「玉鈴は――」


 文徳の言葉が止まった。

 その瞬間、景焱の胸を再びあの感覚が襲った。

 先ほどよりも、さらに弱い。細い糸で辛うじて繋がっているものが、今にも切れようとしている。

 景焱の顔から、さっと血の気が引いた。


「……時間がない」


 怒りに満ちていた声が変わった。


「どこだ」


 景焱は文徳を見据える。


「今すぐ言え」


 文徳はしばらく動かなかったが、やがて観念したように顔を伏せた。


「……下でございます」

「何?」

「この殿舎の地下に、物を収める部屋がございます」

「お父様!」


 華蓮が叫んだ。

 文徳が振り返る。


「黙れ!」


 それまで自分を庇っていた父の怒声に、華蓮が凍りついた。


「どこから入る」

「奥の間にございます」


 景焱は最後まで聞かなかった。

 奥の間へ踏み込み、文徳が示した棚を動かす。

 その向こうに、人一人がようやく通れるほどの狭い階段が現れた。地下からは冷えた空気が這い上がり、陽の届かない石壁には湿り気が浮いている。


 景焱は灯りを待たず、階段を駆け下りた。

 下りるほどに胸の奥が激しく騒ぎ、番の気配が近づいてくる。


 弱い。

 それでも、確かにいる。


 この下にいる。


 地下には、衣装や調度を収める箱がいくつも並んでいた。地上の華やかな部屋とは違い、空気は冷たく、古い木と布の匂いが籠もっている。


 景焱は箱の間を縫うように奥へ進み、一番奥に置かれた大きな衣装櫃の前で足を止めた。


 ここだ。

 蓋へ伸ばした指が震えた。


 十四年間、どれほど探しても見つからなかった。

 生きている。ただそれだけを頼りに、探し続けた。


 それなのに今、衣装櫃の中から感じる命は、あまりにも弱い。


 景焱が蓋を開けた。


 小さな身体が、窮屈そうに横たわっていた。


 淡い藤色の上衣は乱れ、銀糸で縫い取られた花枝が薄暗がりの中でかすかに光っている。白銀に近い薄青の裙は皺になり、足には淡い青の布靴が片方だけ残っていた。

 乱れた黒髪の下に覗く頬からは血の気が失われ、細い腕は力なく胸にのっている。胸がかすかに上下していなければ、生きていることさえ分からないほどだった。


 景焱はその場へ膝をついた。


「……明珠」


 返事はない。


 恐る恐る頬へ手を伸ばし、指先が冷たい肌に触れた。


 ――その瞬間だった。


 全身が歓喜した。


 身体を形作る一つ一つが、一斉に目を覚ましたようだった。視界が鮮明になり、耳に届く音が澄み渡る。血が一気に巡り、身体の奥深くにある龍気が激しく沸き立った。


 十四年間、何をしても埋まらなかった場所へ、失われていたものがぴたりと戻る。


 柳家で感じたものとは、比べものにならない。

 気でも、香りでもない。理屈など必要なかった。


 ――これが、番か。


 景焱の龍が歓喜していた。


 見つけた。

 ようやく、十四年探し続けた、たった一人を。


 だが、その歓喜は一瞬で絶望へ変わった。


 触れたことで、はっきりと分かってしまった。

 明珠の胸の奥で刻まれている鼓動は、今にも途切れそうなほど頼りない。呼吸も浅く、命そのものが指の間から零れ落ちていくようだった。


「……明珠」


 景焱の声が震えた。


 見つけたのに。

 ようやく見つけたのに、このままでは失う。


 景焱は明珠の身体を抱き上げた。腕に収まった身体は驚くほど軽く、長い黒髪が腕から零れ、力のない頭が景焱の胸へ預けられる。


「明珠」


 返事はない。


 景焱は迷わず、自らの龍気を流し込んだ。

 冷えた身体へ、消えかけている命へ、惜しむことなく注ぎ込む。


 腕の中の明珠が、ほんのわずかに息をした。


「……明珠」


 景焱はさらに龍気を送り込んだ。

 どうすれば助かるのかなど分からない。ただ、本能だけが、この命を繋ぎ止めろと告げている。


 長い黒髪が肩から滑り、明珠の白い頬へ落ちた。景焱はそれを払うことさえせず、腕の中の小さな顔を見つめた。


「明珠」


 何度呼んでも、瞼は動かない。

 景焱は小さな身体を抱く腕に力を込めた。


「頼む」


 背後まで追ってきた文徳が、息を呑んだ。


 命令ではなかった。

 十四年間、誰にも見せることのなかった懇願だった。


「目を開けてくれ」


 返事はない。

 それでも景焱は、腕の中の命を繋ぎ止めるように龍気を送り続けた。


「……今度こそ」


 声が掠れる。


「今度こそ、予を置いていくな」

お読みいただきありがとうございます。

2日に1回、20時10分更新予定です。

続きもお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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