番外編 親友の話-テオ-
ルシアンが笑わなくなったのは、いつからだったか。
俺はときどき、それを考える。
子供の頃は笑っていた。
声を上げて笑うような人間ではなかったが、それでも目が笑うことがあった。
冗談を言えば口の端が上がった。
そういう人間だった。
いつからだろう。
気づいたら笑わなくなっていた。
✦ ✦ ✦
ルシアンがアリス嬢のことを初めて話したのは俺たちがまだ十代の頃だった。
話したというより、こぼれたという感じだった。
「シャルム家に、不思議な子供がいた」
俺は「どんな」と聞いた。
ルシアンは少し黙った。
「……笑う子供だった」
「笑う子供なんて珍しくないでしょう」
「あの笑顔は違う」
それ以上は言わなかった。
でもその顔が、いつもと少し違った。
何かを見ているような目だった。
遠くを、あるいはずっと近くを。
俺はそのとき、あぁと思った。
この人は、もう決めてしまったんだと。
何を決めたのか、まだわからなかった。
でも何かを一人で決めてしまった顔だった。
✦ ✦ ✦
覚悟の話を聞いたのは、それから少し後のことだった。
「守ると決めた」
ルシアンが言った。
「それはいい事です」
「でも、守り切れないときは自分が手を下す」
俺は少し、黙った。
「……あなたが、か」
「ああ」
「それも込みで、守ると言うのですか」
「そうだ」
迷いがなかった。
こいつはいつも迷いがない。
決めたら曲げない。
そういう人間だ。
でも、だからこそ怖かった。
「ルシアン」
「何だ」
「それは、その子のためですか。あなた自身のためですか」
少し、間があった。
「同じことだ」
「同じじゃないと思いますが」
ルシアンは答えなかった。
俺もそれ以上は言わなかった。
言っても、この人は変えない。
決めたことは、変えない。
ただ、その横顔が少し苦しそうだった。
苦しそうなのに迷わない。
それがルシアンという人間だった。
✦ ✦ ✦
婚約の話を聞いたとき、俺は「やっぱりな」と思った。
「シャルム家のアリス嬢と、婚約する」
「知ってました」
「知らないだろう」
「顔に書いてあったからです」
ルシアンは少し、俺を見た。
何も言わなかった。
「で、どうするつもりですか。婚約者として」
「距離を置く」
「冷遇するんですか」
「……そういうことだ」
俺はため息をついた。
「あなたは、それで平気ですか? 」
「平気じゃなくても、そうしなければならない」
「なんで」
「情が深くなれば、決断できなくなる」
また、あの話だ。
俺はしばらくルシアンを見た。
「……ルシアン」
「何だ」
「あなたは、もうとっくに情が深いだろう」
ルシアンは答えなかった。
それが答えだった。
✦ ✦ ✦
アリス嬢が婚約破棄を申し出たとき、俺はその場にいなかった。
後から聞いた。
「断ったのですか?」
「ああ」
「なんで」
「……必要だから」
「本当にそれだけですか」
ルシアンは少し、黙った。
「……それだけだ」
嘘だと俺は思った。
でも言わなかった。
こいつが自分で気づくまで、言っても無駄だから。
✦ ✦ ✦
アリス嬢が変わっていくのを、俺も見ていた。
最初は怖がっていた。
力のことも、ルシアンのことも、全部。
それが顔に出ていた。
隠そうとして、でも隠しきれていなかった。
でも少しずつ変わっていった。
前を向くようになった。
笑い方が変わった。
怖がりながらも、それでも自分で選ぼうとするようになった。
俺はその変化を見ながら、ルシアンを見た。
ルシアンも見ていた。
ずっと、見ていた。
その顔が、少しずつ、変わっていった。
本人は気づいていないかもしれない。
でも俺には、見えた。
「またそんな顔をして」
ある日、俺は言った。
「どんな顔だ」
「困ってる顔」
「困っていない」
「嘘つけ」
ルシアンは黙った。
「なあ、ルシアン」
「何だ」
「あなたは、いつまで一人で抱えるつもりですか」
「……抱えていない」
「抱えてる。全部、一人で決めようとしてる」
「……」
「俺はあなたの親友だ。少しくらい頼ってほしいものです」
ルシアンは少し、俺を見た。
何も言わなかったけれど、目が少し柔らかくなった。
こいつにしては、これで十分だった。
✦ ✦ ✦
全部が終わった後、ルシアンが「揺らいだ」と言った。
俺に向かって、直接言ったわけじゃない。
でも聞こえた。
俺はそのとき、少し笑った。
揺らいだ、か。
当たり前だろう、と思った。
あの子のそばで。ずっと見てきて揺らがない方がおかしい。
俺はずっと、それを待っていた。
ルシアンが「できなくなっていく」と言った夜のことを、 俺は知っている。
あいつは俺には言わなかった。
でも顔を見ればわかった。
あの夜、俺は何も言わなかった。
言わなくて、よかったと思っている。
あいつは自分で、辿り着かなければならない人間だから。
✦ ✦ ✦
「早く終わらせろ。お前が先にどうにかなったら、俺が困る」
アダムもそう言っていた、とルシアンから聞いた。
俺と同じことを、アダムも言ったらしい。
「お前たちは似たようなことを言う」
ルシアンが言った。
「当たり前です。心配してるんだから」
「……心配するな」
「無理です」
俺は笑った。
ルシアンは何も言わなかったが、その顔が昔ルシアンが笑っていた頃の顔に少しだけ近かった。
完全には戻っていない。
でも、いつか戻るかもしれない。
そう思えるような顔だった。
俺はそれで、十分だと思った。




