第三十章 約束
決着がついたのは、それから数日後のことだった。
ある朝、テオが仕事部屋から出てきて「終わりました」と言った。
「……本当に」
「はい。星詠みの会は王命によって解散を命じられました。リュセルヌは王都を離れます」
王命ということはアダムのおかげで国王が動いたということだ。
「公爵は」
「今、部屋にいます」
「……一人で?」
「はい。一人で」
テオは何かを堪えているような目だった。
私は仕事部屋へ向かった。
✦ ✦ ✦
扉をノックしたけど返事がなかった。
もう一度、ノックした。
「……どうぞ」
低い声だった。
中に入るとルシアンは窓の前に立っていた。
外を見ていて、こちらを見なかった。
「……終わったそうですね」
「はい」
「よかった」
「……はい」
部屋が静かだった。
ルシアンは、まだ外を見ていた。
いつもの、何も映さない背中。
でも今日は、少し違った。
肩が、いつもより、重そうだった。
「公爵」
「……少し、待ってもらえますか」
「はい」
私は部屋の端に立って、待った。
ルシアンは動かなかった。
窓の外を、ずっと見ていた。
何を見ているのかわからない。
でも邪魔をしたくなかった。
この人が何かを整理している、そういう時間のような気がした。
どれくらい経っただろう。
ルシアンが、ゆっくりと振り返った。
「……お待たせしました」
「いいえ」
「座ってください」
椅子に腰を下ろした。
ルシアンも向かいに座った。
しばらく、何も言わなかった。
「約束を、果たします」
ルシアンが言った。
「……はい」
「何から話せばいいか」
「……最初から、でいいですか」
「最初から」
ルシアンは少し、目を伏せた。
「私がアリス嬢を初めて見たのは、あなたがまだ幼い頃です。シャルム家を訪ねたとき庭に子供がいた」
「……私が」
「笑っていた。でも、その笑顔を向けられた使用人が全員、同じ方向を向いた。あなたは気づいていなかった。でも私は見えた」
声織り。幻惑魔法。
幼い頃から、制御できていなかった。
「それが、初めて知ったときです」
「……それで」
「怖かった」
「…怖かった…ですか」
「あなたへの怖さではない。あなたの力が知られたときに、何が起きるかへの怖さです。星詠みの会のことは、すでに知っていた。あの組織がどういうものかも」
「幼い頃から、知っていたのですか」
「師匠のオズワルドから教わっていた。魔法の歴史を。声織りという存在を。そしてそれを狙う組織のことを」
だから、オズワルドに頭を下げられた。
もともと繋がりがあったから。
「……それで、婚約を提案したのですか」
「すぐには、しませんでした」
ルシアンは静かに言った。
「ずっと、見ていた。シャルム家がアリス嬢を守っていることもわかっていた。でも星詠みの会の動きが急速になってきた。シャルム家の力だけでは、いずれ限界が来ると思った」
「それで」
「婚約を申し出た。シルヴェスト公爵家の婚約者であれば、簡単には手が出せない。それだけのつもりでした。だから距離を置いた」
「……距離を」
「情が深くなれば決断できなくなると思ったから」
「決断」
「最終的に守り切れないと判断したとき、自分が手を下す覚悟です。情が深くなれば、その覚悟が揺らぐ」
だから、冷たくし続けた。
「……あなたが、婚約破棄を申し出たとき」
言葉に迷いながらもルシアンが続けた。
「……あのとき」
「はい」
「焦りました」
それは、思いがけない言葉だった。
「……焦った、のですか」
「守るための婚約だった。だから盾がなくなることへの焦りだとそう思っていました。最初は」
「最初は」
「……手放したくなかった」
ルシアンは少し、目を伏せた。
「守るためだけではない何かが、すでにあった。あのとき初めて気づきました」
「……」
「だから、拒否した。理由はうまく言えなかった。今でもうまく言えない」
部屋が、静かだった。
窓から光が差し込んでいた。
手放したくなかった。
あの人が、そう思っていた。
あの冷たい拒絶の裏にそういうものがあった。
「……でも」
ルシアンが、少し間を置いた。
「心が揺らいだ」
ルシアンは、少し目を伏せた。
「あなたが変わっていくのを見ていた。怖がりながら前を向いて、少しずつ笑い方が変わっていった。私はそれを止められなかった」
「……あなたが、オズワルド先生と話していたのを、聞きました。公爵邸にいた頃」
「……はい」
「できなくなって、よかったと思います」
ルシアンは、私を見た。
「よかった?」
「あなたに殺されたくなかったので」
一瞬、部屋が静かになった。
それからルシアンが、少し目を細めた。
笑顔ではない。
でも笑顔の手前より、もう少し先の何かだった。
「……そうですか」
「はい」
「私も、殺したくなかった」
低い声で、でもはっきりとそう言った。
その言葉が、静かに深く胸の奥に落ちた。
「……ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「幻惑魔法が、あなたに効かない理由」
ルシアンは少し考えた後、私を見た。
「……ずっと、見ていたからです」
「見ていた」
「幼い頃から。あなたの力がどういうものか、どういうときに溢れるか、ずっと見ていた。心の隙間がなければ入り込めない。私には、あなたへの知識が最初からあった」
知識と言ったけれど、それだけではない気がした。
「……それだけですか」
ルシアンは少し、黙った。
「……それだけでは、ないかもしれません」
「そうですか」
「……はい」
窓から、光が差し込んでいた。
長い沈黙だった。
でも苦しくなかった。
「公爵」
「はい」
「ありがとうございます。全部、話してくれて」
「……約束でしたので」
「約束を守る人だと、思っていました」
ルシアンは少しの間、私を見た。
「……あなたは」
「はい」
「怖くなかったのですか。私が手を下す覚悟を持っていると知っても」
私は少し、考えた。
「怖かったです。でも」
「でも」
「それだけ抱えてきた人が、約束をしてくれた。それの方が、重かった」
ルシアンは何も言わなかった。
でも目が、今日一番違った。
何も映さないと思っていた目が、今は何かを映していた。
「……これからのことを、話してもいいですか」
「はい」
「婚約のことです。これまでは守るための婚約でした。でも今は」
「今は?」
「……続けてほしい、と思っています。理由が変わりました」
理由が…変わったというのは何だろう
「……どんな理由ですか」
「今は、まだ」
「また言えませんか」
「……言えます。ただ」
ルシアンは私から視線を外した。
珍しく、どこか躊躇うような。
「言葉にするのが、慣れていないので」
私は少し、口の端が上がりそうになった。
今度は堪えなかった。
「……ゆっくりでいいです」
ルシアンが私を見ると、その目がまた少し変わった。
「……はい」
窓の外で、風が動いた。
長かった。
ここまで来るのに、ずいぶん遠回りをした。
でも悪くない、と思った。
この人と、この場所で今日を迎えられたことが。




