第二十六章 覚悟の在処
公爵邸での日々は、静かだった。
朝、廊下でルシアンと挨拶をする。
昼、オズワルドが来て稽古をする。
夕、三人で食卓を囲む。
夜、窓の外を見て眠る。
それだけだった。
でも毎日、少しずつ何かが積み重なっていく気がした。
「今日は、どうでした?」
稽古の後、テオがいつも聞いた。
「……少し、長く止められました」
「止められた?」
「感情が昂っても、すぐには溢れなくなった、ということです」
「それはすごい」
「まだ完璧ではないです」
「でも前より全然いい」
テオはにこりと笑った。
この人の笑顔は、いつも少し肩の力を抜かせる。
「テオさんは公爵が動いていることを、知っていますか」
テオは少し、私を見た。
「何のことですか」
「星詠みの会のことです。公爵が水面下で動いているのは、わかります。でも何をしているのか教えてもらえない」
「……」
「知っていますよね」
テオは少しの間、黙った。
それから笑顔を少し引いた。
「知っています」
「教えてもらえますか」
「……それはルシアンに聞いてください」
「教えてくれないと思うので」
「そうですね」
テオは少し、遠くを見た。
「でも、あいつはちゃんとやっています。信じてあげてください」
「信じています」
「ならよかった」
それだけだった。
でも、テオの目が一瞬だけ何かを隠した気がした。
✦ ✦ ✦
その夜、眠れなかった。
理由はわからない。
ただ、胸の奥がざわついていた。
気分を変えたくて部屋を出たら廊下は暗くて静かだった。
だけど窓から月の光が差し込んでいて、その光がとても綺麗に思えた。
しばらく歩いていると声が聞こえた。
この低い声はルシアンの声だった。
こんな夜遅くに扉の向こうから誰かと話している。
私はつい立ち止まってしまった。
立ち聞きするつもりはなかった。
でも足が動かなかった。
「……手が、なくなってきた」
ルシアンの焦った声だった。
「残っている手は使えば、あの人を別の危険に晒す。使えなければ時間が尽きる」
「では、どうするつもりだ」
低くて老いた声、これはオズワルドの声だ。
「……わかっています」
「わかっているなら、言え」
「………彼女を星詠みの会に渡すくらいなら、私が手を下す」
ルシアンの言葉に息が止まりかけた。
今、ルシアンはなんと言った?手を下す?
誰を?私を…
「最初から決めていたことです。変わってはいません」
「本当に変わっていないか」
「……変わっていません」
「嘘をつくな」
オズワルドが鋭くルシアンに詰め寄っていた
「お前の目を、私は何年見てきたと思っている。変わっていないわけがない」
ルシアンは答えなかった。
「あの娘がシルヴェスト邸に来てから、お前は何度も迷っている。私には見える」
「……迷っていません」
「迷っていないなら、なぜ眠れない」
廊下が、静かだった。
しばらく、何も聞こえなかった。
「……あの人は、変わった」
ルシアンが、ようやく言った。
声が、いつもと違った。
低くて、静かで、どこか絞り出すような。
「以前のあの人ならばできた。恐れながらも、孤独に立っていた。誰も近づかせなかった。そういう人だった」
「今は違うのか」
「……笑い方が、変わった」
ルシアンは目を伏せて手を強く握りしめていた
「完璧な笑みではなくなった。隙が出てきた。怖がりながら、それでも前を向いている。私はそれをずっと見ていた」
「だから、できないのか」
「……できなくなっていく」
「それが怖いのか」
「はい」
はっきりと、そう言った。
「できなくなることが怖い。でも、もっと怖いのは」
「何だ」
「できなくなったとき、あの人を守れなくなることです」
「……」
「星詠みの会に渡せば、あの人の力は兵器になる。国が動く。どれだけの人間が傷つくか。そしてあの人自身がどれだけ苦しむか」
ルシアンの声が少しだけ揺れた。
「それだけはさせたくない」
「だから殺すのか」
「だから守りたい。でも守り切れないなら私が手を下す。それだけです」
「お前は今、どちらを選びたいんだ」
問いが静かに落ちてルシアンは長い間、答えなかった。
「……わかりません」
絞り出すような声だった。
「初めてわからない。ずっと、わかっていたはずなのに。あの人の前ではどうすればいいのか、わからなくなる」
「それが答えだろう」
「違います」
「違わない」
「私には」
「お前にはまだ時間がある。使え」
唇をかみしめた後、強い決意を込めたかのようにルシアンは返事をした。
「……はい」
✦ ✦ ✦
私は壁に手をついた。
膝が少し震えている。
原作でルシアンがアリスを殺したことは知っていた。
でもなぜ殺したのか、その理由だけは転生する前に知ることができなかった。
今、わかった。
守り切れなかったからだ。
星詠みの会に渡すくらいならという覚悟を最後まで持ち続けたから。
守れなくなった瞬間に自分が手を下すことを選んだから。
でもなぜ、ルシアンはそこまで。
幼い頃から知っていて盾になった。
師匠に頭を下げて、眠れない夜にわからない言った。
義務だけで、覚悟だけで、それだけのことをできるだろうか。
できない。
ルシアンは、アリスを愛していたんだ。
その言葉が頭の中に浮かんだ瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
愛していた。
アリスを愛していたからこそ殺した。
その言葉が頭の中で静かに落ちた。
おかしいと思った。
愛していたなら、殺さなければいい。
でもルシアンの論理では、そうはならない。
守れないなら、苦しませるくらいなら、自分が終わらせる。
それがルシアンの愛の形だった。
歪んでいる、と思った。
でも、ずっと一人で抱えてきた人間の歪み方だとわかってしまった。
廊下の月の光が、少し動いた。
部屋に戻ってベッドに座わり、手を見た。
白い、細い手。声織りの手。
この力のせいで、あの人はずっと一人で決めてきた。
誰にも言わずに一人で抱えてきた。
だから、私が終わらせる。
ルシアンに殺させない。
星詠みの会にも渡らない。
あの人が一人で決めてきたことを今度は私が決める。
自分で、終わらせる。




