お父さん
187:お父さん
「ほら餌だ。」
フリードが床に残飯を落とす。
エンルフは自分の伸び切った髪を見た。
何度切ったかも覚えていない。
季節が二十回以上巡った頃から数えるのをやめた。
こんな生活がずっと続いていた。
魔封じの首輪のせいで、いつ倒れてもおかしくないほどに体はボロボロだ。
それでも、まだ倒れずにここにいた。
エンルフが食べずにフリードを睨んでいると、顔を掴まれて残飯に押し付けられる。
頭はイリフェルとアグロムのことで一杯だった。
ずっと彼女たちのことを考えている。
あの日から二人には会えていない。
「ふむ……そろそろ飽きてきたな。
犬、いいものを見せてやろう。」
フリードがあの日のような嫌な笑みを浮かべる。
きっと、いつものように新しい拷問を受けさせられるのだとエンルフは思っていた。
しかし、エンルフがその日連れて来られたのは塔の一室の小さな部屋だった。
エンルフがそこで大人しく待っていると、扉が開いてムルトが入ってくる。
その後ろに小さな影が見えた。
桃色の髪の可愛らしい女の子だ。
五歳程度の小さな彼女は、ムルトに押し出されておずおずと前に出る。
エンルフはすぐにわかった。
「アグロム!」
抱きつこうと駆け寄るが、鎖の長さが足りず止まる。
「ひっ。」
すぐにアグロムはムルトの影に隠れた。
ムルトが優しくアグロムの頭を撫でると、彼女は安心したように息をする。
エンルフはなんでそんな顔をするのかわからなかった。
その困惑を見抜いたかのように、フリードが言う。
「アグロム、これがエンルフだ!」
そう言うとアグロムの表情が変わる。
何か嫌なものを見たような顔でエンルフを見つめた。
「……うらぎりもの。」
小さな声ではっきりそう言った。
瞬間、エンルフの心が凍る。
引き裂かれたような気分だった。
自身の娘から言われた言葉に、掻き乱される。
どんな痛みよりも、鋭くエンルフの心を突き刺した。
立っているのが難しくなって、フラフラと足が彷徨う。
呼吸が浅くなって、視界が滲んだ。
その様子を見て怯えたように、アグロムはすっかりムルトの影に隠れてしまった。
「お父さん、かえる。」
エンルフは目の前の男を見る。
アグロムに微笑んで、何かを答えていた。
ムルトの位置はエンルフのものだったはずだ。
子を奪われて、妻を奪われて、世界を奪われた。
部屋を後にしたアグロムとムルトだったが、最後にムルトがこちらを見て扉を閉じた。
何か言いたげだったが、結局何も言わずに扉を閉める。
その視線が勝ち誇ったようにも、侮蔑にも、憐憫にも、どんなものにも思えて吐き気がしてくる。
エンルフはその場に崩れ落ちた。
フリードがニヤニヤとエンルフを覗き込んだが、もう何も気にならなかった。
――殺せ。
久しぶりにあの声が聞こえてくる。
長らく聞こえていなかった声。
懐かしい声に意識が繋ぎ止められる。
――お前は何もかも失った、奪ったのは誰だ?
エンルフの虚な瞳に光が宿る。
暗い光が。
奪われた。奪われたなら何もかも壊せばいい。
最早、全てがどうでも良かった。
ただひたすらに憎い。
ウォリケがムルトがフリードが、エイシュ一族が。
「あは、あははは、あはは。」
急におかしくなって、笑いが止まらなかった。
――燃やせ。
そうだ。
燃やせばいい。
燃やせばいいんだ。
世界なんて、全部壊してやる。
全てを奪った世界なんて。
一つも残らず。
灰にもならず燃え尽きろ。
ラガルは気がつけば、その様子を外から眺めていた。
うずくまるエンルフが酷く小さく見える。
けれどその心には、ずっと大きい黒い感情が宿っていた。
「……苦しい。」
ラガルは呟いた。
何もできない、手が届かない。
イリフェルを助けに行きたいのに、アグロムを取り戻したいのにどうすることもできない。
エンルフの元にしゃがみ込む。
慰めるように抱きしめた。
心が溶け合っていく。
境界線が曖昧になる。
複雑な熱が世界を支配した。
視界が再び一つになる。
けれど、先ほどまでの内に閉じ込められた感覚ではない。
ラガルが体を動かしていた。




